第17話 黒狐の男

文字数 3,055文字

日は暮れて辺りは暗く、外灯の明かりも疎らであったが 夜目が効くので何の問題も無い。
足の向く儘に歩き続けている。
湿度の高い陰気な風が一陣吹き抜けると 不気味な生き物の様に木々の影がざわめいた。
弐弧はふと顔を上げた。
眼前に駅が在った。黒い瓦屋根に木造の駅舎は中にまで雑草が蔓延り 塗装が剥がれ所々錆び落ちた柵がホームの先端まで伸びている。線路は一本のみでどうやら無人駅らしい。唯一点いている外灯は点滅を繰り返し 消えている時間の方が長い位で殆ど意味を成していない。稼働しているらしい自動販売機があったがアイスクリームでは無い。直ぐ横手にタクシーの会社があったがシャッターがおりている。倒産したのか営業が終了しているだけなのかも分からない様な様相だった。同じ様な建物が近隣に幾つか在るものの 人の気配もなく辺りは深い闇の中に沈んでいる。
唐突に警報音が鳴り響き 線路の向こう側で二つの丸い赤灯が交互に忙しなく点滅しているのが見えた。ぎぃぎぃと撓みながら遮断機が下り 白い光が見えたと思ったら特急列車が耳障りな音を立てながら凄い早さで走り抜けていった。突風が吹き付ける。弐弧は走り去ってゆく列車を見送った。列車は走っている様だ ― そう分かっても「何か」が弐弧を駅に向かわせようとしない。
あの時 財布を持って出る様な余裕はなかったが 財布をくすねるだけの手癖の悪さは健在であった。
先程のサーファーのリュックから爬虫類の皮で出来た長財布を失敬している。列車に乗ろうと言うのなら金はある。
だが ―
何気なく後を振り返った弐弧の目に映ったのは 紅い目を耀かせ、牙を剥きだし、口から血を吐く様に真紅の炎を吐き出している化け物の姿であった。其の眼は自分に向けられているのではない、と分かったのは 背後から襲い来る異形の気配にやっと気付いたからだ。折しも 一縷の右手が真紅の炎を纏い、爪を立てて振りかぶるところであった。割れる様な悲鳴が耳を劈いた。弐弧の察知する能力がなければ頭を砕かれているところだ。地面に倒れ伏し 寸での所で身を躱した弐弧は、直ぐ様反転して駅舎の方に向き直った。地面を深く抉った爪痕に紅い炎が上がっている。駅舎の壁を伝って屋根に這い上り ホームの上を物凄い早さでぞわぞわと黒い影が走って行き 建物の影に隠れて見えなくなった。人では無い。二本足で逃げたのではなかったからだ。足なら数え切れない程ついていた。
けーん、と甲高い動物の鳴声がしたかと思うと 再びあの割れる様な悲鳴が今度は先程よりも長く響いた。
悲鳴と言うよりは咆吼に近い。黒い影が「何か」と対峙している。かと思えば劈くような喚き声は不意にぱったりと止み 間も無く気配は消え失せた。緊迫した静寂の中に、自身の激しい鼓動だけが響いている。
何処かでまた甲高い鳴き声がした。生き物の気配は感じないのに 其の声ははっきりと聞こえる。ただ 耳に聞こえたと言うよりは 頭の中に直接響いた様な感じであった。弐弧は立ち上がると神経を研ぎ澄まし 闇の中に目を凝らした。一縷は紅い目を燃える様に輝かせて細く炎を吐き 迎え撃つ体勢の儘だ。
まだ 危機は去っていない。

「鬼子が堕鬼と仲良しこよしって
「一体全体 どーなってんだろうね」

軽い調子の声が弐弧の頭上から降って来た。
   え …?
言葉の意味を理解する前に 上空から巨大な黒い影が、態と人を脅かす様に勢い良く降り立った。
ほっそりとしなやかな体。黒い体毛に細波の様に青白い炎が走り 目尻の赤い金色の双眸が光っている。一見狐の様だが大きさは馬ほどもあり ぴんと立った耳にストールの様に長い尾が軽やかになびいている。動物、と言うよりは幻想世界の美しい獣と言った感じだ。
「弐弧たんじゃーん!」
此の美しい狐から頭の悪そうな台詞が発せられた事に驚いたが 違った。黒い狐の後ろから黒いスーツに黒のネクタイ、黒の中折れ帽、黒の革靴と言った全身黒尽くしの男が姿を現わした。黒い髪はふわりと緩く巻き 男は涼しい顔で胸ポケットから黒いスマホを取り出すと
「百鬼弐弧 黎明天生学院高等部一年」
「堕鬼を匿った挙句に学生寮を大破させ 多数の負傷者を出して逃走 もれなく全国に指名手配中~♪」
絵本の読み聞かせでもするかの様に 抑揚を付けて楽しげに読上げた。
「な … !
突如として現れた 此の見知らぬ男の口から知らされた衝撃の内容に 頭の中が真っ白になった。
だが まだ体は行動に移らない。
二十代前半くらいの此の若い男は 思わず聞き惚れてしまいそうな艶のある声と滑らかな口調で更にスマホの画面を読み上げる。
「クラスは三の凡(はん)」
「…」
弐弧は最初驚きに目を瞠り 次に凡と言った時の弐弧を憐れむ様な男の目に苛立ちを覚え ―
相手にしない方が良さそうだ。弐弧が立ち去ろうとすると
「待って待って!行かないで弐弧たん!」
瞬く間に 背を向けた弐弧の肩に腕を回して抱く程に距離を詰め 吃驚して声も出ない弐弧に
「弐弧たんに嫌われたら 俺、殺されちゃうから」
端正な顔を間近に寄せて来て耳打ちした。何を言ってるんだ、と弐弧は男を忌々しげに見る。
「あれ?若しかして気付いてない?あの鬼 弐弧たんとリンクしてるみたいなんだけど?」
殺される、等と物騒な台詞を吐く割に顔は終始笑っている。悪巫山戯に興じているとしか思えない。
「弐弧たんの心一つで、俺の運命が変わっちゃうかも知れないってワケ」
「自慢じゃないけど 俺は此のシマ最弱のエリアリーダーなんだ」
ぐっと親指を立て殊更良い顔で笑んでみせる。気取った態度だが自慢にもならない。
弐弧は最後には蔑んだ目で男を見るに至った。
「取り敢えず俺も弐弧たんと仲良しって事にしといてくんない?」
一縷の方に目を遣りながら 男は手の甲で口元を隠し弐弧の耳元に囁く。
だが 闇に潜む黒い狐に弐弧と一縷も包囲され  逃げ場を失っている。気付いていないとでも思っているのか。今や一触即発の状況だ。其れにさっきから鬼、鬼と此の男は言うが ―
「何であの堕鬼は弐弧たんの事襲わないんだろうね?」
此の男 人を馬鹿にした様な顔でにやにや笑い 話す事と言えば何一つ分からない。弐弧は段々向かっ腹が立ってきた。
「…! 放せよ」
男の手を振り解いた刹那 黒い炎が鷹のように急襲して来た。弐弧の真横で激しく黒い炎が上がったが 既に男の姿は無かった。
「危ない事するなぁ。此れだから堕鬼なんてねぇ?」
帽子のつばに手を遣り 気取ったポーズで いやー其れにしてもビビったビビった、と笑いながら、男は狐の背に乗って何時の間にか上空に逃げている。
「あれ?此れは流石に一寸ヤバイかな?」
   闇に喰われた者の魂は 何処までも堕ちてゆく
殺戮に駆られた目が、血の様に紅く禍禍しく耀き 鋭い牙の合間から轟と黒い炎を荒々しく吐き出すと 真紅と黒の入り混じった炎が少年の体を取り巻いた。黒い炎の体を持つ猛禽が炎の尾を引き 円を描きながら上空を飛び交っている。黒い炎に巻かれた男と狐は其の場から動けない。
「追って来たら殺すぞ!」
何て陳腐な台詞だ、と内心赤面したが咄嗟に出て来たのだから仕方無い。まるで安っぽいドラマに出て来る悪人の捨て台詞ではないか。何故此方が逃げなければならないのか甚だ疑問だが 此の巫山戯た男の話など金輪際聞きたくもない。
一縷の腕を掴むと 闇に犇めく金色の目の中に飛び込んで行った。狐は身を引いて二人に道を空け 青白い炎を上げたが攻撃はして来ない。黒い頭を巡らせて去って行く二人を見送るだけだった。
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登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

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