第36話 甜伽

文字数 2,338文字

月は再び厚い黒雲に覆い隠され 木々の黒い影がざわめき出す。
空に閃光が走り 鈍い音が辺りに重苦しく轟くと 間も無く雨が降り出した。

此処には自分を傷つける者はいない、と分かったのか 青白い顔から表情は失せ 紅い目は虚になり 憑かれた様に少年は歩き出した。
傷ついた足は 闇の中へと誘われる様に向かう。
「何処へ行くんだよ、一縷!帰るぞ」
弐弧が其の腕を掴むと 伏せられた少年の目が微かに動き ふ、と意識を取り戻したかにみえた。
慧は其の様子を興味深げに見ていた。
此れが「堕鬼」?まるでゾンビの様ではないか。

「あれ …?
武家屋敷の重厚な門をくぐると 不意に景色が回った。
何か 変だ ―
人の声が聞こえて来るが 何を言っているのか分からない。
目を開けているのに 其の姿が見えない。
意識は有るが 自分が立っているのかどうかも もう分からない。

あの時も 体が焼ける様に熱かったが 途中で自ら意識を奪ったので今一つ分かっていなかった。
高熱、と言うものを。
自分の体が熱で溶け出してゆくかの様だ。呼吸をしても追い付かず 息が苦しい。頭の中が赤く染まり 思考は片端から逃げてゆく。

「大丈夫だよ。少し休んだら良くなる」
其の声を知っている。

―  もう大丈夫だよ  よく頑張ったな

一縷は大丈夫だろうか。
慧は如何しただろう。


灼熱の太陽に焼かれて 噴き出した汗がじっとりと纏わり付く様に体を濡らす。傷口が生あるものの様にじくじくと疼いた。
何かが 体を押さえつけている。 息が 出来ない ―
朦朧とした意識の中 目を開けると
「うわあ?!」
眼前に巨大な魚の恨めしげな顔があった。
命の危機に陥った時よりも 予想だにしない出来事の方が自身から悲鳴を引き出せるらしい。
跳ね起きた弐弧に鯉は弾き飛ばされたが まだ重しが残っている。
悪行を働いておきながら 煩そうに紅い目を向けているふてぶてしい少年だ。
「一縷!お前 何して
一縷の仕業に違いない。憤った言葉は
「まだ熱あんだろ」
「寝ろよ。弐弧ー」
既に馴染みとなった抑揚のない声に遮られた。
「… 慧?!」
部屋にあるベッドは十分な大きさがあった。其の所為で 時折一縷にのし掛かられては迷惑していたのだが 更にはベッドの横に床を延べて慧が転がっている。
流石に男ばかりが三人も部屋に寝転がっていると窮屈感は否めない。
欣の話では一縷にもちゃんと部屋が用意されているらしいのだが あの通り 一縷は夢遊病の様に動いて何処に行くか分からない。自身の部屋には入った事も無い様だった。
「朝食ったら良いじゃん」
等と慧が他人事だと思って無責任な事を言って来る。弐弧は渋面になった。
だが 体に力が入らない。今は鯉を助ける様な気力も無い。
一縷はもう我関せずとばかりに眠っている。何て奴等だ。弐弧は憮然として布団を被り 寝る事に集中した。



黒灰色の陰鬱な空には太陽も姿を見せず 眼前の世界は灰色に染まる。真夏の雨はじとじとと何時までも降り続く。

腐敗した黒い土が剥き出しになった道には 雑草一つも生え無い。灰色の景色は唯延々と 何処までも続いている。
遠く 廃墟が暗い影となって連なり 陰気に聳え立つ。
其処は   音の無い世界   動く者も無く   大気は澱み 凍り付く様に冷たい。

ぱき
甜伽は口に咥えた板チョコを割った。

腐り逝く此の地で 「禍い神」は今も待ち続けている。
「贄」の子が いつか此の地に現れ  「大いなる災禍」を世界に齎す 其の日を。

産み堕とされる 魂の無い赤子たち  ―  ひっそりと 闇に葬られ  封域へと導かれる
忌まわしき黒い蝶が 其の躰に宿ると  廃墟を彷徨う「ツキモノ」と為る
黒い蝶に憑りつかれし者
黒蝶憑き ― 近頃では「ツキモノ」などと呼ばれるようになった
憑かれた者は 灰の様な瘴気を撒き散らす

大気を汚染し 土壌を腐敗させ 人を蝕んで

灰となって死ぬだけならまだ良い 散りゆくのは灰ではない 新たな瘴気だ
死に至る様な弱い者は 散って穢れの一部となるだけだが 体が腐敗しても負の一念を以て死なず
やがて 躰中に毒を満たすと「マガイモノ」と呼ばれる醜い化け物に成り果てる者がいる

世界は闇に反される       

「禍」に蝕まれ 穢れ往く土壌は 今も広がり続けている    ―

「魂の無い赤子」は「器」と呼ばれ どのみち長くは生きられない。
「禍」を宿せば 始末される。「魂」が無ければ 朽ち果てる。唯其れだけだ。


百鬼弐弧の能力は 鬼眼を持つ者なら特筆すべきもない 平凡な力だ。
「予知」能力に関しては 今一つ精度が悪い。
だから「マガイモノ」なんかに簡単にやられる。あれは「毒」を持っているから 暫くは動けないだろう。新那慧は ―
「連帯責任だから」との事だが 体良く休んでいるに違いない。
百鬼弐弧に比べると 新那慧の特殊な能力はかなり厄介な部類に入る。
危機回避能力に長けているのは鬼眼を持つ者なら当たり前の事だが 補助的な力に過ぎず
危機を回避出来なかった時 其の力は何の役にも立たない。
だが 稀に新那慧の様に相手を攻撃する力を持つ者がいる。
― 新那 慧 …!
甜伽は沸き上がってきた怒りに任せて 口の中のチョコをボリボリと噛み砕いた。
蒼い目は 同じ目を持つ者だけに其の色が視える。
百鬼弐弧の目は以前よりも蒼味が増していた。能力が上がって来ているのだろう。
行かなくて良かった、しなくて良かった、そう言った単純な回避行動に過ぎなかったものが 危険が及んだ時には自身を守る為に、他者を動かす迄になっている。
あどけない少年の様な顔立ち。見せかけの表情の 其の奥には純心と優しさを隠している。

鬼とは 元来美しい生きものだ
だが 其れは 相手を喰らう為の装いに過ぎない

喰うか喰われるか 自身の持つ「力」が生殺与奪の権利を握っている。

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登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

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