第12話 黒本の掟

文字数 2,985文字

学院の罰則の厳しさはアキなら当然知っている筈だ。否 知らぬ者など居ない。
授業の遅刻は勿論 無許可無届けでの行いについての罰則を書き連ねた冊子は入学の際に全生徒に配られ よく読んで覚えておくように、と遙か遠くにある壇上から学院長の声が響いた。
弐弧の位置からは顔すら見えなかったが 女の声だった。
漢字ばかりの殊更小さな文字で埋め尽くされたページが延々続く。
乙だの甲だのと言った古式な文章は難解を極めた。
表紙が黒いので皆「黒本」と呼んでいる。此れを読む事が既に罰則に等しい。
弐弧は一度も開いた事は無かったが 実際に懲罰を与えられている生徒を見た事ならある。
担当教諭に許可を得るとか書類上の手続きを踏むと言った事など 直情径行なアキの頭からは大抵すっ飛ばされている。良かれと思って走り回った後に、叱られている姿も最早日常茶飯事だ。
アキは自身が授業に遅れる旨の許可を取っていないに違いない。
扉に向い 取っ手に手を伸ばす。
外側から勢い良く開いた扉が壁に叩き付けられた。危うく扉に押し潰される所だったが悲鳴も出なかった。
玄関には 息を切らしながらボールを拾って来た犬が主人の所へ戻り 褒美の言葉を貰えると信じて目を耀かせている、と言った風なアキが立っていた。
「ほら、持って来てやったぞ」
朝食を詰めた持ち帰り用の箱を右手に掲げ 左手には学院名の入ったA4サイズの白い封筒を掲げ
目標を達成し、ガッツポーズでもとっているかの様に 人の役に立てている事が心底嬉しそうであった。
弐弧は無言で右手の人差し指をアキの顔に差す。
「廊下で転んだんだ。気にするな」
真っ赤になった鼻から血が滴り落ちて、シャツを赤く染めている。気にするな、と言われても無理だ。
「で 此れが申請書なんだけどな
「お前の休学申請書と、其奴の入学と入寮の申請書、合わせて全部で三枚、な?」
「其れと、申請しねーで早退したろ?此れは其の始末書。お前は普段真面目だからな。
「罰は無しで良いってよ」
勝ち誇った笑顔で 親指をぐっと立てる。弐弧が罰を受けないで済む様に、熱弁を振るってくれたに違いない。アキの言葉が どれだけ学院内で信頼されているかが分かる。
「後のは、まぁ細かい説明とかになってて 先ず此れが
アキは活き活きとした顔で矢継ぎ早に喋り出す。こうなるともう誰にも止められない。
朝食の箱を玄関横の下駄箱の上に載せると 封筒から書類を取り出して見せる。
A4サイズの白い紙に細かい文字がびっしりと並んでいるのを見て 弐弧は深く眉根を寄せた。
カンタンなんだって お前が書くとこって此処とさ 後此処にサインするだろ そんでさ
すっかり気力の萎えた弐弧を何とか奮い立たせようと アキは教育熱心な教師の様に辛抱強く説明を続けた。
頭の天辺に髪の団子を乗せ 痩せぎすで銀縁の眼鏡をかけた、底意地の悪い申請所の女事務員と取って代われば皆喜ぶに違いない。渡された書類を茫洋と見る。
入学と入寮の申請書は弐弧も此処に来た時に書いている。
当時の弐弧は文字の読み書きも満足に出来ず 説明を受けてもなかなか理解出来なかった。
廃墟から連れて来られたばかりの孤児を相手にする担当者は辟易した態度になっていた。
漠然とでも言わんとする事を理解出来るだけお前はまだましな方だ、と担当者は言った。
此処に名前を書くんだ。上に書いてあるだろ。見ながら書けば良い。そうしたら今日からお前は此の名を名乗れるんだ。
辿々しい字で 弐弧は初めて自分の名を書いた。
姓名の欄には読み仮名をふった姓だけが印字されている。
養子にでもならない限り 通常は申請書に印字されている姓を変更する事は出来ない。
名の欄に書く名前は 自分で付けたものでも、仲間に呼ばれていた名でも 一般的な基準で名として成立するものなら承認され 呼び名すら持たない場合は姓名全てが書かれている。
承諾するなら ― 此処に来た以上他に選択肢はないが ― 其の下に署名として名を書く。
後に写真を撮られ、学生証として出来上がる。
申請書の姓の欄には蒼鷹(そうよう)とあった。
「ほら!此れはお前も此処に来た時に書いただろ?」
まるで気の無さそうな弐弧に 突破口でも見付けたかの様に、眼前に突き付けて見せて来る。
どうだ、此れなら分るだろう、と言う顔だ。
近過ぎだろ。
勢い込むアキを持て余し 弐弧は無言で少しばかり顔を引いた。
「まぁ此れはちょっと様式が違ってるけど
「言ってみれば 此奴は学院に入れても良い様なヤツだって言うお前からの推薦状みたいなもんだ
「此の二枚は此奴に署名を書いて貰って お前が此の下んとこにサインするだけ
指差しを交えて熱心に説明するアキの言葉を半分上の空で聞いている。
「最後に此奴が何かしでかした時は自分も連帯責任を負います、って此処にサインしたら完了」
簡単に言ってくれるではないか。
紅い目をした化け物と此の先平穏に暮らせるとは到底思えない。弐弧の責任は重大だ。
書く欄は少なく申請書は薄っぺらい紙切れに思える。手続きは思ったほど難しくない。だが
説明文書はほぼ誓約と同意に関する項目で構成されており 恐るべき「黒本」程では無いが
此れも又冊子並に分厚い。読むだけなら誰にでも出来る。内容を理解する事とはまた別だ。
古文の教科書にある蛇の様な文字を訳して読める文に直せ、と言われているに等しい。
邪推かも知れないが 初めから学生達が読まないと知って渡しているとしか思えない。署名させておいて後で有無を言わさせないのだろう。
疾病による休学申請書に至っては 何年何月何日何時何分、何処で、どうして疾病を負う様な事態になったのかを事細かに明記しなければならない。一日以上休む場合には指定の医師の手当を受けた上で診断書の申請が要る。
登校した方がまだましだ。足を引き摺ってでも行こうと思わせてくれる。
「提出期限は今日から三日以内だからな」
「え!?」
弐弧が突然声を上げたので
「え!?」
驚いたアキがつられて同じ声を上げた。
三日だって?早過ぎる。
「え?いや だってさ 三日も全然起きないとかおかしくね?」
「其れもう病院案件だし」
「疾病の申請も出来るかも知んねーけど 入学前だからな」
「変な病気持ってるかも知れねーからって病院送りにされちまうかも」
きっとアキの言う通りなのだろう。此程までに厳格な学院で どんな饒舌を振るったとしても すんなり聞き入れて貰えるとは思えない。
「提出期限過ぎたら管理官が見に来るぞ」
「多分 其奴連れて行かれちまうんじゃねーかな」
アキは見た事があるのだろうか。声に元気がなくなっている。
「お前が此奴を連れて来てんの 俺がばらしちまった様なもんだし…」
アキはすまなそうな顔をしながら更に声を落とした。
「だとしてもお前は悪くないだろ」
「此奴の怪我も大した事ないし。何とかなるって。心配すんな」
弐弧は駆け回ってくれたアキに報いようと、顔だけでも無理に笑んで見せた。
「そうか?」
「良かった!」
「まぁゆっくり朝飯でも食って 取り敢えず今日は安静にしとけよ」
弐弧の言葉にアキはぱっと顔を耀かせて 下駄箱に乗せてあった箱を取り ほら、と差し出す。
「アキ ありがとな」
良いって事よ、そう言うとアキは手を振って後ろ手に扉を閉めた。階段を飛び越える様に駆け下りて行く、せっかちな足音が暫く聞こえていたが やがて何も聞こえなくなった。寮は静まり返っていた。
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登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

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