第1話 序章 屍の街

文字数 3,274文字




道路に透明な炎が揺らめいている

太陽は真上に在り 白い道が何処までも続く。
歩き続ける幼い少年の影が色濃く道路に落ちている。
温い汗の絡まった髪の合間から虚ろな黒い瞳が微かに動き
不思議な感覚に少年は ふ と顔を上げた。
遠く   連なる廃墟の一点から 見ている「眼」
腐敗した黒い土壌が露わになった道には雑草一つも生え無い。
白と黒の景色は 唯 延々と何処までも続いている。
廃墟が暗い影となって連なり陰気に聳え立つ。
其処は   音の無い世界  - 
生ける者は無く  大気は澱み 真夏でさえ凍り付く様に冷たい。
幾本もの錆びた有刺鉄線に隔てられた街と廃墟の境。

少年の居る場所は住む者ももう殆ど居ない寂れた街であった。
廃墟は黒い屍の様に聳え立ち じわりじわりと此の地を浸食している。

白い街の一角で わーんわーんとむず痒くなる様な音を立てて 細かい蟲が数え切れない程
腐り果てた死骸に群がっている。切り絵の様な 白い世界の中の 黒い異形の影。
人とも獣とも知れない其の死骸は 音も無く 廃墟の闇の中に吸い込まれる様に消えて行った。
若しかしたら 自ら入って行ったのかも知れなかったが。
少年の表情は一時も変わらなかった。そんなものはもう幾度となく見て来た光景であったから。
黒い瞳はまた虚ろに戻り 足は数え切れないほど通い詰めた道をただひたすら行く。

熱射の中で唸りを上げる自動販売機の前で足を止め 痩せた指で握り締めていた汗塗れの
硬貨を入れる。押すボタンは何時も同じ。其れだけが持っている硬貨に見合った商品であったからだ。
ごとん、と音を立てて良く冷えた氷菓が取り出し口に転がり出て来る。
包みを開くだけで もう中の氷菓が溶け出してゆく。
殆ど口には入らなかったが 特に食べたい訳でもなかった。
少年の母親は寂れた街の一角で身売りをしている。
客が来る時 母親は決まって硬貨を一枚くれる。
硬貨は客が来るから外に出て行け、と言う合図であった。 
少年は子供の足だと片道二時間はかかるこの場所まで歩いて氷菓を買いに来る。
氷菓を買って戻る頃には客は居なくなっている。其れだけの事だ。
物心ついた時から其れは変わらない。
何時もと同じ 色の無い世界。何時もと同じ ただ過ぎ行くだけの日常。

変わる事も変わらない事も 何も 望んで等いなかった。

其の少女はふいに現れた。

人だろうか、と辛うじて思える程遠くに離れている。
降り注ぐ日の光を浴びて影が濃さを増し 歪んだ影が白い道に細く長く伸びて -  
少女の顔は見えない。ただ 少年を見ている「眼」を感じる。
縺れた髪の合間から 少年を見る 血の様に赤い「眼」。
ばしゃ
色水と化した氷菓が音を立てて足下に零れ落ちた。
音に気を取られ 土壌に染みてゆく氷菓から顔を上げた時には もう少女の姿はなかった。
恐怖は感じなかった。
歪な黒い影はいつも視界に在った。
何処からともなく現れ 何処とも知れない場所に消えてゆく。
蠢く蟲は日に日に増えている。いずれ 此の街も闇に沈み逝くのだろう ―

帰りの道中も心の中には片時も薄れること無くあの少女の姿があった。
目の前に其の姿が無くとも 大きな赤い眼が少年を真っ直ぐに見ている。
家に近付くにつれ足どりは重くなり 「帰りたくない」、と躰が言っている様だった。
日は背後で一筋の光を放って消えた。
光を失った空に どこからともなく黒い蝶が現れて飛び交った。
十 百 千 万 ― 無数の蝶が群れを成し 空を覆い尽くしている。
其れでも
心は何も感じないのに 何故こんなにも動悸がして息が苦しいのか。
何故
階段から降りて来た男の姿を見ただけで どくん、と心臓が跳ね上がったのか。
今までにも母の「客」と鉢合わせた事は何度かあった。
どんよりと濁った目で一瞥をくれるだけであったり 何事か怒鳴って蹴られる事もあった。
此の男は 其の誰とも違っていた。
暗がりに男の躰は一層濃く黒い影にしか見えない。否 最早人とは思えなかった。
さざめくように 蠢く「何か」が男を蝕んでいる。
男が其の場に音も無く頽れた。

憐れとも 怖いとも思わなかった。感情は何も湧いてこない。
目の前の光景は付けっぱなしのテレビを観ているのと同じ。
歪んだ黒い影が屍を引き摺って行く。
屍は母の所に来ていた「客」だ。
其の姿を眺めている。
自分とは切り離された世界で起こった出来事だ。
だから何とも思わない。
何も思わない?  ― そうだろうか
心の内では憐れな屍を前に様を見ろ、と思っているではないか 本当は 
あの黒いバケモノが 何もかも喰らってくれる事を願っていたのではないか

だが 其れはいつも見る夢の中の出来事に過ぎない  本当の事では無い
だから  違う

- 此れは 違う

躰は其処から逃げ出す様に動き 足は金属音を立てて階段を駆け上がった。
扉を後ろ手に閉める。
二階建てのアパートは 何処から見てもまごう事なき廃屋だった。
黒い斑模様の壁は所々が剥がれ落ち 壁にしがみついた蔦植物の黒い残骸が まるで血管の様に這っている。開け放しの窓は枠だけで硝子もなく 破れたカーテンが垂れ下がっている。金属製の階段は錆び付いて手摺りは土台から外れて浮き上がり 今にも崩れ落ちそうであった。住人は少年と母の二人きりで 電気もガスも通じていない。水道は当に干涸らびて 天井から滴り落ちてくる雨水に頼っていた。其れに 「客」がいつも何かしら手土産を持って来てくれる。然程困った事はなかった。
散乱した塵に埋め尽くされ 部屋も廊下も区別が付かないほど酷く荒れ果てている。
饐えた匂いが強く鼻をついたが 何時もなら煩く飛び回っている蠅が居ない。
閉めきられた部屋は奈落の底のように暗く 音も無い。
空気が鉛のように重く冷たくのし掛かり 少年は扉の前から動けなかった。
少年は不思議な事だが どんな闇の中でも昼間と変わらず物を見ることが出来た。
闇は少年にとって恐怖では無い。
何時もなら生塵の上を蠅が煩く飛び周り不快な羽音を立てている。何時もなら皿の上に無造作に置かれた蝋燭が幾つも灯っている。何時もなら ― もう帰ったの、と母が気怠げに言う。
其処だけが唯一部屋として認識出来る奥の六畳間に横たわる女の体が在った。
乱れた長い黒髪がじっとりと湿った裸体に絡み付き 黴びた布団の上を蔓草の様に這い伸びている。
酷い臭いをさせて 布団の上に無造作に転がっている。其の体を蟲が這い回っているのが見えた。母は蟲を恐れる女では無かった。近付いてくれば鬱陶しいと言って素手で叩き潰すような豪胆の持ち主であった。蟲が這ったって鐚一文儲りゃしない、そう言って
自分の体を這わさせるような事等 今まで一度も無かった。
不意に 伏していた母が身動ぎした。
誰かに其の長い髪を引っ張られでもしたかの様に 勢い良く頭がぐい、と反り 
ごきごき、と体を軋ませて不格好に起き上がった。
両腕をだらりと垂らして膝立ちし 反り返っていた頭ががくんと前に落ちると 長い髪がばさりとかかって母の顔を覆い隠した。
血管の浮いた細い右腕を少年に向って伸ばす。
握り締められていた指が開くと 其れは 音を立てて廊下に落ちた。
車輪の様に回りながら少年の方に向って来る。
倒れるとわわわん、と戦慄き 硬貨は其処に止まった。
「其れ」から目を離せない。
項垂れた女の髪の合間から 異様に浮かび上がった真っ赤な唇が見える。
其の穢らわしい唇からどろどろと黒い蟲を垂れ流している。
凄まじい腐臭が澱んだ大気に染み入って 辺り一面に拡がっていった。
女の黒い胸元がばっくりと裂け 中から黒い蝶が一斉に飛び立った。

赤い眼の少女が 少年の脳裏を閃光の様に過ぎった。

ただ 其の場に立ち尽くしている。
少年の目は黒い硝子玉の様に炎を取り込んで暗く耀き 狂乱する黒い蝶を映している。

黒い蝶は狂った様に羽ばたき 闇を飛び交いながら
其の躰を逃れる事の出来ない黒い炎に巻かれ 灰も残さずに消えてゆく。

此処に在るのは 生を得て燃える黒い炎だけ。
炎は少年自身をも燃やした。

今 少年の心は安らかだった。
其れが望みだったと分ったから。

此の世界の全てを 焼き尽くす炎を ―
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登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

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