第15話 逃走

文字数 2,509文字

がらんがらん、と騒々しい音が弐弧の頭に煩いほど響き 何の音かと思う間もなく、体は砂の上に放り出された。跳ね上がった砂を顔に被り 反射的に手で払おうとして、弐弧は激痛に呻いた。あの時の傷が漸く塞がったばかりだと言うのに 今度は折られたのだから堪ったものではない。右腕を押さえながら痛みに耐える。幾ら治りが早いとは言え 今直ぐに、と言う訳にもいかない。痛覚を無視する為に俯瞰を始める。辺りを警戒すべく開かれた目に 灰色の空が映った。目を転じると 湿った砂浜の上に転がった一斗缶が黒い灰とバチバチと爆ぜる薪を一面にぶちまけているのが見えた。其の向こうには暗い海があった。
寮の部屋から何処とも知れない海辺に飛ばされたとは。
信じられない。此れが夢では無いと言うのか。
だが 実際の所 折られた腕の痛みは本物で 此のお陰で今正に嫌と言う程現実を味わっているのだ。
砂浜に人が動く気配を感じた。
指一本でも動かせば激痛に襲われ 起き上がる事も出来ない。何とか顔だけ向けると其処には あの少年が居た。
紅い目を薄闇の中に耀かせて 口の端からひゅうと細く炎を吐きながら体を起こした所だった。
また服が血だらけになったな、ぼんやりとそんな事を思っていると 静けさを破ってけたたましい電子音が流れ 不意を突かれた体が強張った。
少年にばかり気を取られていたが 良く見ると少年の周りに色々な物が置かれている。迷彩柄のリュック、脱ぎ捨てられた黒いパーカーとスニーカー、食べかけの林檎、ビールの空き缶、そして着信を知らせる為に陽気に歌うスマホだ。
紅い目はスマホの液晶を獲物かどうか見定める様な目つきで凝視し 血塗れの手がスマホを持ち上げると ばき、と音を立てて握り潰した。
「あ! こら!」
しまった、と思った時には既に遅く 紅い目が向けられると 少年がじろりと弐弧を見た。
一瞬にして緊迫した空気が張り詰める。
直と弐弧を見る 其の眼には生気が宿っていた。目は紅いが攻撃的ではなく禍禍しい感じもしない。
声に反応して弐弧の方を見ただけで 何を怒るんだ、と言う様なふてぶてしい顔付をしている。どうやら襲う気は無い様だと分かり 詰まっていた息をゆっくり吐き出すと、体の緊張が解けた。
少年は病的に青白い肌をした端正な顔立ちで 漆黒の髪はざんばらだったが 生気を得た切れ長の透き通る様な紅い眸は吸い込まれそうなほどに美しかった。等と魅入っている場合ではない。弐弧の目は少年を通り越え 海の上でサーフィンをしている男に注視された。少年の周りに乱雑に置かれているのは 恐らくあの男の持ち物だろう。まだ二人には気付かず雨上がりのサーフィンに興じている。
弐弧は直ぐ様、痛む腕を押さえながら何とか体を起こし 立ち上がった。目は男から離さない。少年は弐弧が見ている方向に同じ様に視線を向けた。真逆襲う気ではないだろうが いつ化け物に変貌するか分からない。弐弧は砂浜から黒いパーカーを拾い上げ 視界を遮る様に少年の頭から被せた。顔は完全に覆い隠され 紅い目も、鋭く尖った牙も、炎を上げる口元も見えない。迷ったがスニーカーも拾い上げると 少年の手を引いて其の場から離れた。
砂浜の向こう側は寂れた公園になっていて 人気も無く 遊具を取り込んで丈の高い雑草や木が好き勝手に生い茂り、姿を隠すのに最適な場所だった。雨に濡れた木々の中に飛び込んだ時 遠くの方から男の怒声が聞こえて来た。足を緩めず今や小走りになり 怒り狂った喚き声は徐々に遠離っていく。
不意に木々が途切れ 道路に飛び出した。
焦ったが 廃ホテルが軒を連ねているばかりで 人の気配も生き物の気配すらも無い。
灰色の空と同化する様に 忘却の彼方に沈んだ海辺の観光地。道路は罅割れ、風雨に曝されて千切れたのぼり旗が陰気に垂れ下がり、建物は色を失い 粉々になった硝子が道路に落ちて光っている。テラスには壊れた白い椅子とテーブルが転がっていた。思い出したくも無いのに記憶が呼び覚され 心臓がずきっと痛んだ。奥には蒸せる様な大気の中に じっとりとした闇が広がっている。
弐弧は少年の方に向き直り 被せてあったパーカーを今度はちゃんと着せてやった。フードは目深に被らせておく。裸足だったのでスニーカーを履かせた。少し大きい様だが小さいよりは良い。血塗れの上衣は隠せたが ズボンは ― まぁ良いだろう。ヴィンテージと言う奴だ。
留まる気は無かったから歩き出したが 少年は然も当然の様に後ろをついて来る。一任する気か。
だが 此処が何処かも分からない。然りとて何処に行くと言う当ても無い。
此れから如何したら良いのかも分からない。完璧な迄の無い無い尽くしのプランしかないと言うのに。
其れに 此の少年はもう自由の身だ。
何処に行っても構わない。
自分について来なくとも 好きな場所で 好きに生きたら良い。
ふ、と気が付くと後ろに少年が居ない。慌てて体ごと振り返ると 少年は道路脇に放置された儘錆びついた自動販売機の前に立っていた。ディスプレイのダミー商品が幾つか地面に転がり落ちていたが どうやらアイスクリームの自動販売機らしい。真逆、アイスクリームを食べたいとでも言うのだろうか。
怪訝に思いながら見ていると 少年は手を伸ばしてボタンを押した。何も出てきはしない。だが
かつんかつん、と牙を打ち鳴らし 見えないアイスクリームを食べているかの様だ。
何かが記憶にあるのだろうか。其処だけ心に残っているのか。
「おい 行くぞ」
声を掛けると少年はちらと弐弧を見たが 余程未練がある様で、また自動販売機に目を戻す。やれやれだ。
「壊れてるだろ 後で買ってやるから」
「行くぞ 一縷!」
行く当ては無いが 兎に角今日の寝場所は探さねばならない。自身に任せるなら 足は既に行く先を知っている様であった。
意志とは関係無く勝手に発言する自分の口を塞いでやりたい位だったが やはり此の少年を放っては行けない。
助けてくれた恩を返すと言うのでもないが 此の少年とはもう離れられないだろう、と不思議な程強く確信している。
一縷は急に興味を無くしたかの様に自動販売機から離れると 弐弧の方に向かって歩き出した。
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登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

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