第44話 拒絶

文字数 3,528文字

上空を過る鳥が 場違いな明るい声で囀っていく。
其れが 男を馬鹿にしている様に聞こえて苛立った。
「其の時」がいつかも分からぬ儘 体が沸騰せんばかりの熱気の中で滂沱の汗を流しながら立ち尽くし 最早神経迄おかしくなりそうだったが
何しろ 狙う相手が此れ迄の比では無い。
男は息を殺し続けた。「一瞬」に全てがかかっている。だから
遠方から音が此方に向かって来るのを 聞き逃したりはしなかった。
危険は承知で何度も此の地に忍び入り 少年の行動を念入りに調査して機会を窺った。
依頼を受けたのは自分だけでは無いだろうが 相手は籠絡に長けていて 金を惜しまなかった。
標的は平凡な高校生で 賞金にまるで見合っていない。とは言え
蒼蓮会鬼華の長の養子とあっては 生半可に手を出すと命が無い。
廃墟の子供を好き好んで養子に迎え入れるとは全く酔狂な連中だ。鬼華の長に至っては あれは「人」じゃ無い、と専ら噂になっている。其の姿を見た者は死ぬ、等と言った都市伝説まで生まれているが 屋敷から出て来たのを見た事が無い。実在しているのかも分からない。誰かが面白可笑しく吹聴しているだけだろう。
上手くいけば 男の望む額の報酬と此の先憂いのない未来が転がり込んで来るのだ。
馬鹿馬鹿しい法螺話に付き合っている暇はない。 
少年は通学の途中にある自動販売機の前まで来ると原付を停めた。
其れが日課、と言う訳ではないが 立ち寄る事が多い。だからこそ 天候から周囲の状況 絶好の機会が訪れる迄男は幾日も此処で張り込んでいたのだ。
鬼華の屋敷からは遠く 街にはまだもう少し距離がある。周辺に建物はなく 鬱蒼とした深い森が暫く続き 大きな音でも立てれば屋敷まで響き渡ろうかと言った静寂しかない。少年は何時も一人で通学し 供の者も無い。此の辺りは人も車も滅多に来ない。
今 正しく好機が訪れた。上空にある怪しく轟く雷雲が 不穏な気配をかき消してくれる。早朝から蒸せる様な大気にあてられていれば 冷たいものが欲しくなるのも当然だろう。
夜闇に紛れて攫う方が安全に思われるが 廃墟の子供には通用しない。
奴等は夜目が利く上に大半が夜行性で 闇夜に蠢く魑魅魍魎に対しての警戒を決して怠らないからだ。
其れに 此の少年は夜中に出掛ける際は必ず連れが居るのだが 其れが又紅い目をした不気味な少年で ― 疾走する原付が通り過ぎる たった一瞬目が合っただけで ぞっとさせられた。
闇の中では自分達の方が不利であり 夜の奇襲は諦めざるを得なかった。
誘拐するより死体で運んだ方が楽だが 相手は生け捕りを望んでおり 死体では報酬は出ないとあっては仕方無い。
普通の子供ではない此の少年は 捕まる位なら窮鼠の諺の如く刃向かい、死を選ぶだろう。
自身の行く末が どうあっても違う事はないと知っているから
銃を突き付けたところで大人しく従う事も無い。面倒なことだ。
幸いにも少年は細身で 筋骨隆々でもなく 武道に長けている様にも見えず 「獲物」としては楽な部類に入る。
少年は暢気にもすっかり寛いでいたが 不意に大気の匂いでも嗅ぐかの様に顔を上げた。
廃墟の子供の中には矢鱈と感覚の優れた者が居る。気配に敏感なのは無論だが 五感以外の「感覚」を以て襲撃を予測出来るらしい。
少年が異変を感じて立ち去る前に終わらせなければならない。
屋敷の来客を装った相方が車を乗り付けて少年に声を掛け 前方に気を惹き付けておいて刃向かう前に背後から男が素早く拉致し 二人がかりでトランクに押し込めば其れで終わりだ。事によっては少々手荒い真似も必要になるかも知れないが 虫の息だろうと受け渡すまで生きていれば良い。
厄介なガキには 罠を仕掛けたり策を弄するよりも単純に瞬発力で行動する方が功を奏する。なのに
如何した訳か一向に相方が現れない。向こうも同じ様に待機している筈だが 真逆油を売っている訳ではあるまい。決行の連絡は当に入れていたが 応答がないのも気になる。
焦燥感に駆られ始めた矢先 男の目に信じられないものが映った。
少年が一点に目を留めた其の先に 金色の双眸が光っている。
深い茂みの闇の中から 巨大な黒狼がのっそりと姿を現わした。驚いた事には
少年はバケモノ級の巨大な狼を犬でも見るかの様な目で見ただけで 何の恐怖も感じていない。
悪さをして叱られた子供の様に 不承不承休息を終え ― くそ!
遠離ってゆくバイクの音を聞きながら 悔しさに地面を蹴った男は 其処彼処に潜む気配に 今 漸く気付いた。
轟く雷雲の音が 自身の心臓を揺るがす様に感じられるのは
闇に潜む其の気配が露わになり 自分が既に取り囲まれていると知ったからだ。
暗闇から踏み出した巨大な黒狼は 金色の双眸で男を見据えると 其の目を冷酷に細めた。
男は「非現実」と言うものを 初めて目の当たりにし そして
其れは 最期と為った。



「… っ!
竹刀でしたたか頭を叩かれたものの 悲鳴は上げない。
そう言う習性だ。
「動きが遅いぞ。百鬼弐弧」
冷ややかな口調で注意を受けたが 返す言葉も無い。
猫科の動物の様にしなやかな肢体をピッタリとした黒いスーツに包み 艶のある黒髪を無造作に束ねて 切れ長の蒼い眸に肉付きの良い唇 右目に黒い眼帯をしているのだが 其の美しさは寸分も損なわれていない。
黒豹を思わせる女は 静かな脅威を孕んで弐弧の前に立ち塞がる。
此れが体育の授業だと言うのだから驚きだ。
以前の学校とはまるきり違う。
「授業だと侮るな」
女教師の名は 業閒ユ羅(ごうまゆら)と言い 感情を余り顔に出す事が無く 射貫く様な視線は他者を寄せ付けない。美しさよりも畏怖が勝っている。
「先生。其れなら寝てる奴はどうなるんですかー」
散々扱かれた男子生徒の一人が恨みがましい声を上げる。
生徒が指差すのは 竹刀を支えに座ったまま寝ている新那慧だ。
「ほう。仲間を売って自分は助かろうという肚か」
そんな言われ方をするとばつが悪くなる。男子生徒は口を噤んだが
「ふむ」
「悪くない」
女教師の顔に残忍な笑みが広がる。生徒達は竦み上がった。何故なら 其れは
「だが、私なら先ず動ける者から斃す」
阿鼻叫喚の幕開けを意味するからだ。

次々と討たれてゆくクラスメイト達を見ながら弐弧は溜息を吐いた。
運動神経が並でしかないと言うのは自身でも承知している。だからこそ
何とかしたい。此の儘では
化け物に襲われる度に一縷が血を流し 自身は何も出来ずに 影で震えているだけだ ―
誰一人、自分すらも 助けられない。
甜伽は あれだけの酷い傷を負いながらも立ち上がり 果敢に戦い続けた。
屋敷に居る黒服の男から合口拵の短刀を奪ったが いざとなれば此れを扱えるかと言うと
足手纏いにならないよう自害する位が関の山だろう。
「どーしたよ。何か落ち込んでんじゃん」
何時の間にか起き出してきた慧が弐弧の傍らに来て座った。返事をする前に
「慧、お前寝たフリしてたな!きったねーぞ」
叩かれた背中を痛そうにさすりながら、男子生徒が罵り声を上げる。
「何言ってんの?お前。策略ってそー言うもんだろ」
慧は悪びれもしない。
「あの堕鬼がどーかした?」
あの時 慧は 一縷を見ても驚いたりしなかった。其れ処か
弐弧が寝ている間に 逆、逆 そう言って紙に書いた字を一縷にも書かせようとしていて、其の行動力に驚かさせられた。自分は 喋れないなら字で会話を試みる、等と言う事に迄考えも及ばない上に
「… 死んだの?」
感情の籠もっていない冷淡な声音。眞輪が座っている二人の後ろから顔を覗かせる。
返答まで遅い。
又しても先を越されて 弐弧はますます気が滅入った。


一縷なら
死んだように眠っている。
部屋に入った瞬間 床一面に敷き詰められたブルーシートに言葉を失ったが 用意が良いと言うのか ― 赤毛の付き人の行動は並外れている。
屋敷に着いた時には血は止まっていたが 原付から降りて部屋に戻る事は出来なかった。
体は冷たく 生気を感じられなかったが 一縷は生きている。
眠っているだけだ ―

茜色に染まった空に灰色の鱗の様な雲が長く伸びて 物悲しい声で鳴く蝉も最期を迎えようとしている。
太陽は黒灰色の雲の中に 引き摺り込まれる様に沈んでゆく。
足取りも重く駐輪場に向かう。不意に
キン と耳鳴りがし
弐弧は力一杯校舎の壁に額を打ち付けた。
「 … ! いった …
其の儘校舎に背を凭せかけ ずるずると頽れる。

もう 何も視たくない。視たところで 運命を変えられない。
何時、何処で 起こるのかも分からず 起こってしまえば 腑抜けの様に唯茫然とするばかりで何も出来ない。無力で惨めな自分を思い知らされるだけだ。
こんな事なら 最初から何も知らない方がマシではないか。

弐弧は自身の「声」を拒絶した。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み