第39話 甜伽 堕鬼の女

文字数 2,376文字

「ぎゃああああ!」
夜彦丸の鬼気迫る叫び声に 我に返った甜伽はブレーキをかけたが間に合わず 原付は横倒しになり 甜伽は路上に投げ出された。
原付は火花を散らして滑り 倒壊したビルの瓦礫の中に突っ込むと 轟音と共に炎を上げた。
あの儘走っていたら ― 
「痛 … !
其の場に蹲り 呼吸を整えながら 全神経を集中させて自身の体を検める。
   大丈夫
   大丈夫よ 大した怪我じゃない

「あらあら、大丈夫?」

気遣わしげな台詞に反して 其の声はぞっとする程に冷たい。
甜伽は弾かれた様に起き上がった。
背後の路上に 何時の間にか黒いスーツを着た女が立っている。陶器の様に白過ぎる其の肌が 闇の中にくっきりと際立っている。
「鈍臭い子ね」
紅い唇を歪めると 女は然もおかしそうにころころと嗤った。
「でも、気にする事ないわよ」
「人間なんて 皆そうなんだから」
慰めているかの様な言葉も 淡々として冷めた女の口調には馬鹿にした響きしかない。
じゃららら
甜伽は険しい顔で鎖を手にすると攻撃態勢に入る。
女は哀しげな笑みを作った。其の紅い眼には 何の感情も見えない。
「甜伽」
「あんたはいつまでそうやってしがみついてるの?」
音の無い闇の中から 何処から共無く聞こえて来る幻聴にも似た其の声が 鉛の様に重くのし掛かってくる。
「そんなに 鵺杜守の名前が大事?」
「鵺杜守家が 一体 何をしてくれるって言うの?」
奈落の闇の中に 能面の様に表情の消えた白い顔が浮かび上がり 其の眼は 腐爛した紅い果実の様に 眼窩からどろりと零れ落ちそうに見えた。
   動け 動けったら!
紅い眼から 目を離せない。どれだけ叱咤しても 体は麻痺した様に動かない。
「何にもしてくれやしないわ。あんたが此処で死んだって 代わりは幾らでも居るんだもの」
「誰も悲しんだりしないわ。あんたが存在してた事も 直ぐに皆の記憶から消える」
「名前を消すだけ」
女は人差し指で空に罰印を描く。
「其れでお終い。The end。抹消完了」
「其れがあんたの存在」

「うるさい!!」

甜伽の毅然とした声が闇を戦かせた。
「誰よ、貴方!」
「化けてんじゃないわよ!」
幻影だ。先程の道も。
馬鹿。何て様なの。
ぼんやりしているから騙される。甜伽は自身を呪った。
「あら、此の顔嫌い?好きかと思ったのに」
激しい怒りに呪縛が解け
銃弾の如く繰り出された甜伽の鎖は 女の居た虚空を突き抜けた。
「あらー、ざーんねん。でも、ガッカリしないで」
「仕方無いわ。あんたは唯の人間なんだから」
「鬼に敵う訳ないじゃない」
視線さえ動かす間も無く 甜伽の直ぐ背後から 凍り付く様な女の冷酷な声がそう告げた。

やられる ― 

轟、と言う咆吼と共に 巨大な黒猫が女の上半身に喰らい付いた。
「… ! 夜彦丸!!」
血が噴き出し めきめきめき、と女の骨が軋むおぞましい音がする。だが 黒猫が体を引き千切るよりも早く
「ギゥ…!
数多の刃が夜彦丸を刺し貫いた。
女の躰から 白白と閃く刀身が 針山の如く飛び出している。
甜伽の鎖が黒猫の体を捕えると バラバラに斬り裂かれる寸での所で女から引き離した。
路上の隅に退避させた夜彦丸の体はもうぴくりとも動かない。
「ペットの躾はちゃんとしとかなきゃ」
女は紅い唇を歪めると また感情が戻ったかの様に笑んで見せた。
甜伽の鎖は又しても虚空を薙ぐ。落ち葉が掠れ合う様な微かな音を捉えた。刹那
肌を裂いて無数の切り傷が一斉に口を開き 湿った黒い地面に甜伽の紅い血が飛び散った。
「… うう!!」
悲鳴を飲み込む。
鎌蜘蛛。マガイモノだ。音と動きに反応する。真横の廃ビルに目だけを向けると
濁った紅い眼が 発疹の様に廃ビルの壁の所々にぼうっと浮かんでいる。黒い壁がぞわぞわと不気味に蠢き キィキィと短い掠れ声を上げた。
「動いちゃ駄目よー?」
場違いに愉しげな女の声が 闇の中から聞こえて来る。
「あたしは食事に行って来るから、ごゆっくり♡」
   え
「あの鬼の子、甜伽の知り合い?」
ぎざぎざの牙の並んだ口が 横たわる三日月の様に大きく開かれ
「可愛い男の子ねぇ。とーっても美味しそう」
耳元まで裂いて 女はにいと嗤った。
   !! 百鬼弐弧 !
「… 待っ
たったの一声で 真空の刃が甜伽の頬を切った。
「… っ!!
既に血塗れになった手が傷口を押さえる。
「しー」
嘲る様に女は人差し指を紅い唇にあて 憐れな少女にバイバイと片手を振って背を向けると 軽やかな足取りで歩き出した。

背後から 肉体が切り刻まれる音が聞こえて来ると 女は満足げな顔になった。

歩く女の足元に 黒ずんだ歪な「もの」がどん、と重い音を立てて落ち 一度弾んでからごろごろと転がった。進行の邪魔立てをするかの様に 生を失った無数の眼が恨めしげに女を見上げている。
女の顔から笑みが消え 紅い眼が剣呑な耀きを放つ。
転がって来た鎌蜘蛛の頭部を 女は表情も変えずに黒いヒールで踏み砕いた。
灰も残さず燃やしてやりたかったが
黒い鎖が女の上体に巻き付いて 其の先は後方にぴんと張り詰めている。

「行かせないわよ」

変わり果てた姿となった鎌蜘蛛が 鎖を持つ少女の周りを埋め尽くしている。
「闇に堕ちた鬼は始末する。貴方を粛正するわ」
凜として 真っ直ぐな黒い眸が女を見据え 明瞭な声が鎮まった大気の中に響く。
「… おかしいわねぇ。鵺杜守家があんたに回収命令なんて出さない筈だけど?」
女は殊更艶めかしい声音で大袈裟に首を傾げてみせた。

「家名なんか糞っ喰らえよ!」
「私は私の意思にしか従わない」
「要するに
「私は 殺したい程、貴方が嫌いなの」

全身の痛みが 恐怖が  此処から逃げたがって震えている。

此処で果てはしない
私の使命は まだ終わってないんだから

しっかりしなさい 甜伽
堕鬼の一人も斃せないで如何するの

甜伽は強く唇をひき結ぶと 大地にしっかりと踏ん張った。
   やってやろうじゃない!

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登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

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