第14話 狂った現実

文字数 3,623文字

五日目の朝も 少年は到頭何の変化も見せず、唯其処に「在る」だけだった。
アキの様に信頼もなく、弁も立たない自分が管理官相手に噓を突き通せるとは思えない。もう如何する事も出来無いのか。
「よっ!調子はどうだ?」
アキを巻き込みたくは無かったから そう聞かれても誤魔化すしかなかった。
「お前こそどうなんだよ」
幸いにも アキの右頬にくっきりとついた赤い手形が話題を提供してくれている。
「いやー、告白するんなら手伝ってやろうかって言ったらさ、余計なコトすんなっ!て、此の有様」
「いや、ほんと 女ってコエーわー」
アキはそう言うと笑った。殴られた事等気にもしていない。
あれから部屋に侵入された形跡はない。今と為ってはやはり考え過ぎだったのかとさえ思えてくる。
アキのお節介が行き過ぎただけの事なのだろう。


其の日は朝から空に厚ぼったい黒雲が立ち籠め 辺りは薄暗く 水分を多く含んだ大気に蒸せた。
息苦しいのは大気の所為ばかりではない。蒸し暑さに汗が流れる事に苛立っているのでもない。
気がかりでならないのだ。
少年は此の八日の間傷が完治したと言う位の変化しかなかった。其の姿は生きた屍と化している。
上の空であったから 其の日の朝からアキの姿を見ていない事にも気付いていなかった。
心音が煩いほど頭に響き、心が急いた。二時限目が終わると限界に達し、申請もせずに早退した。
部屋に戻らなければならない。其れも早急に。何かが起こる事を予感している ― 何か怖ろしい事が起こり 一刻も早く戻らなければ間に合わないのだ、と。

階段を一息に駆け上がり 五階に来ると部屋の取っ手を掴んだ。弐弧の顔色が変わった。
鍵が開いている。
全身から血の気が引いていく。手は急速に力を失い 扉は惰性も手伝ってゆっくりと開かれた。
熱した大気の中に 蒸せる様な血の臭い。床には大きく血溜まりが出来ている。
少年はベッドから引き摺り出されて 俯せに倒れていた。
幾本もの包丁やナイフが少年の体に突き刺さり 手に突き立てられた包丁に至っては床深くまで貫通している。
紅い目は細く開かれていたが 生気は失せていた。
だが まだ生きている。目を見れば其れが分る。
― 何もかも もう諦めたというのか
倒れている少年を取り囲んでいる人物の一人を見て弐弧は愕然とした。
アキ。
多武二明は冷酷な目を暗がりに光らせて 能面の様に表情の無い顔で、入って来た弐弧を見ている。
此れがあのアキなのか。まるで別人だ。
初老の警備員は後方に立ち、体を縮こまらせて罰が悪そうに目を伏せている。鍵を開けたのは警備員だったのか。
クラスメイト達の顔は殆ど知らなかったが 皆一様に黒々とした穴の様な目と、表情の無い白い顔で 制服を紅く染めて立っている。
アキは ― 片刃の鉈の様なものを振り上げて 今しも少年の首を落とす所であった。
体が麻痺為た様に動かない。目の前で起こっている事から 目を逸らす事が出来ない。
― 冗談だろ?アキ
何時もの作り笑いで そう言えば良い。
― ばーか、冗談だよ。弐弧
そう言うに決まっている。
そうだろ?アキ
何もかも たちの悪い冗談だ。アキは何時もやり過ぎる。そう 何時もの事だ。
どうせ此れも 何時もの悪巫山戯なんだろ?
噓だよな?
冗談だって言えよ
アキ
笑おうとしているのに 言葉は喉に絡みついて 膝が崩れ落ちそうになっている。

こんな事が 現実で良い筈が無い ― 

「何だ弐弧 まーた早退して来ちまったのかよ」
「しょーがねーヤツだな」
一旦鉈を下ろしはしたものの 冷笑する其の顔は弐弧の知るアキのものではなかった。
「何も無かった事にしてやろうって思ってたんだけどよ
「お前が悪いんだぜ?
「何こんな奴連れ込んでんだよ
「もう殺すしかねーだろ」
返事をする前に 弐弧は短い苦痛の声を上げて床に倒れ込んでいた。
アキに殴りかかろうとした弐弧よりも素早く立ち回った誰かが背後から腕を捻り上げ 床に押し倒したのだ。
「えー?何お前、そんな行動的な奴だったっけ?」
「いつもぼけーっとしてんのにねー」
嘲笑う声が頭上から聞こえて来たが 右腕を捻り上げられ背に乗られた弐弧は身動きも出来なかった。
「ダチって噓なんだろ?」
「ダチな訳ねーよな」
「金だろ?売り物か、見世物かどっちだ?」
こんなに悪どい顔で笑えたのか。こんなにも酷い事が言えたのか。
自分の知っているアキは こんな奴じゃなかった。
親切で屈託の無い笑顔に誰もが騙されていたのだ。今此の時も アキの本心を知る者はないのかも知れない。
「巫山戯んな!アキ!」
腕をへし折られそうな程捻り上げられながらも 弐弧はもう本気の怒りを隠せなかった。
「何怒ってんの此奴?」
「めんどくせーなー。黙らせるか」
弐弧の背に乗った少年が腕を捻る手に力を入れる。骨がみしみし、と鳴った。
不意に扉が開き 全員の目が一斉に向けられる。
助かった、一瞬でもそう思ったのが間違いだった。
「ねー。殺るなら早く殺んなよ。もう次の授業始まっちゃうよ?」

   な
   何言って

顔を覗かせた女生徒が部屋の中に声を掛けると
「次の授業って岡本じゃね?」
「うっそ!ヤバ!あたし予習とか全然してないんだけど!」
皆口々にざわめきだした。
人を刺し 血塗れの姿で 平然と授業の話をしている。

此の狂った世界が 現実だと言うのか ―

「大丈夫 死んじまったら其の内忘れっからさ」
残酷な笑顔を見せ アキは鉈を大きく振り上げた。
少年は何の抵抗もしない。
目を開けているのに
殺されると分かっている筈だ 其れなのに ― どうして

だが あれは、化け物だ。
助けられたとして 其処から如何する?捨て猫を拾って来たのとは訳が違う。
此の少年が 化け物として再び目覚めた時に
其の鋭い爪で 牙で また 誰かを殺める様な事があったとしたら ― 
あの時も 何が出来た?

目の前に居ながら 少年を止める事も サビ子を護る事も出来なかった

サビ子を殺したのは自分だ。自分が 鎖を解いてしまったから ― なのに如何だ サビ子が少年に殺されるのを唯見ていただけではないか。
酷い様だ。言い逃れも出来ない。だから 頭から閉め出して何も考えない様に自己防衛していたのだろう。そうやって目を背ける事で 現実から逃げていた。

― 本当は 聞こえていたんだろう?

今も 開き直って此の儘少年が殺されるのを何も為ないで見ているつもりなのか。
此れが正しい事だと思えなくても 自分が助かれば其れで良いと言うのか。
心を欺いて 見て見ぬ振りをして 此の先ずっと 平気な顔をして生きていけるのか。
何が本当に正しいかなんて
選んだ未来がどうなるかなんて 誰にも分かりはしない。そうだろう?

― 今だって
如何したら良いかなんて もうとっくに分かってるんじゃないのか?

ああ …… そうだ

態と聞こえない振りをしていた。本当は 疾うに分かっていた。何もかも。けれど
其れは 自分の身を守る為の汚い言い訳でしかなかったから 悔恨の苦しみから逃れる為に 心の奥底に封じ込めていた。
二人の心を知りながらも 戻れなかった。
ー 茶々丸 御免 … 御免ね
気付いた時には ブッチはもう … あたし 何にも出来なかった
ブッチを助けられなかった

違う サビ子 お前の所為じゃない
俺が 目を背けたから 俺が
あの時ちゃんと話をするべきだったんだ

― お願い あたしを殺して

あの時 少年に向かって叫んだサビ子の声は 今も耳から離れない
自身が失われてゆく中で サビ子は命を賭して弐弧を護ってくれた
其れを 仇で返すのか
例え 其れがどれ程残酷な運命を選択する事になったとしても 為すべき事を
自身の「声」は 最初から 違えずに教えてくれていたではないか ―  

どんな時も そうやって乗り越えて来ただろう
辛くても前を見ろよ
自分を信じないで如何する

― お前は   俺は 如何したい?

「何やってんだよ!
「勝手に諦めるな!」
痛みに耐えながら此処まで背負って来たのは 殺させる為にではない。
「起きろ、此の馬鹿!」
こんな事の為に 死を望む少年を彼処から連れ出したのではない。
「一縷 …  っ!
ぼき と鈍い音がして
背に乗った少年に抵抗した弐弧の腕の骨が折られたのと 次いで其れは起こった。

アキの目に紅い目が映る。其の眼は振り下ろされる鉈を見ているのではない。猛禽の様に鋭く 血の様に真っ赤な目がアキを見上げている。其の眼は生を得て禍禍しく耀き ― 



次に目を開けた時には 弐弧の体は降りしきる瓦礫と耀く火の粉と共に宙に在った。
目に映る幻想的な光景を虚ろに見ながら 抗う力も無く ただ深い闇に落ちていく。
くん、とネクタイを引かれて目が向いた。紅い目の少年が弐弧のネクタイを咥えていた。
弐弧の腕を鋭い爪のついた手が掴んでいる。助けようとしているのか。
其の口元から白い牙が覗き 黒い炎が細く吐き出されていると言うのに。
恐ろしくない。
弐弧は少年の腕を握り返していた。

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登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

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