第4話 序章 黒い蝶

文字数 2,946文字

前に進み出たのは 仕立てたばかりの黒服を一分の隙も無く上品に着こなした老紳士であった。
仰々と立ち 其の眼光は穏やかな威厳に満ちており 口元は白くなった髭に覆い隠されて見えなかったが到底笑って等居ない。
「困りましたね こんな事をしている場合で無いのは御承知の上かと思いましたが」
其の言い方は
慇懃に だが其の内にやや非難を込め   そして何処か面白がっている風にも聞こえた。
老紳士は威儀を通しながらも 立ち塞がるスフィンクスへの解答を模索していた。
自分達は「回収屋」に過ぎず 邪魔立てする者は排除するのが倣わしだが 長の「粛清」は其の範囲外。

逃げた子の後を追わせようとしたが 部下は「狼」共に足止めを食らっている。
此の先には行かせない、と言う意思だけは 甚く伝わったのだが

男達は暫し対峙した儘 無言で互いを見合った。

「我々は同じものを感じ  同じものを視ている
 ならば 互いに成す事は一つ

「 此の場は 我らが防ぎましょう 」

多くを語る必要は無い。互いに其の目を見れば分かる。
僅かな間に導き出された答え  其れが最良の策であると。
どうやら「本部」は相手を見誤っていた様だ。

此の「謀」を知るのは  此の場に居る者だけ ― 生き残った者が其れを証言せねばならない



漆黒の天から黒い灰は止め処なく降り頻り だが 雪の様に降り積もる事も無く
ただ 地に吸い込まれて消えてゆく。
其の中に
闇の世界に同化したかの如き漆黒のリムジンが一台停車している。
冷たい金属の塊の中に在る静かなる脅威。
車窓から 聳え立つ廃墟の群れを 幾つもの鋭い眼光が見透かし ややあってから
ヘッドライトが闇を裂くと車は静かに滑り出し 街の方へと走り去った。

闇は果てしなく 天地も失われ 声も届かない。
大気は穢れた黒い灰に覆い尽くされ 息も出来ない。
黒い灰が躰を侵し 最早感覚もない。
瓦礫に足がぶつかると男は低く呻いた。
目が見えない。
喉から絞り出る様な短い呻きが漏れたが  もう 言葉にはならなかった。

男は最期の責を果たすべく 気力だけで歩き続けていたに過ぎなかった。
だから
其の背後に在る者に気付く事は出来無かった。

凍える月の 冷めた白光が  白く乾いた大地に続く 紅い血溜まりを鮮明に照らしている。
月を背に立つ異形の影が 歪な造形物の様に映し出され 忍び寄る様に長く伸び 男へと向かってゆく。
死の鎌が紅い炎を纏い 血を欲して陰惨に閃いた。

だが気付いたとしても 逃げ切る事は出来なかっただろう。
其の姿を決して見てはならない。

残酷な死を齎す 血の眼 ―
何の表情も無く ― 顔があったとしても 其れは「人」のものでは無い ― 
業火に焼かれた男は 灰も残さず    鎌が振り払われると闇に紅い燐が散った。
最期の炎が解ける。影は其の「魂」を喰らった。

「 命尽きようとも 我らが成すべきは一つ 
老紳士は手を後ろに組み ただ 其処に凛と立つ。静かな其の顔は何を想うのか
其の目は死の影に真っ直ぐに向けられ  同じ様に影が老紳士を見返した。

其の眼は死を映す ― 



其処は 静かで何の音も無い。

何の痛みも感じなかった。
紅黒い血が躰を伝い 流れ落ちてゆくのをただ感じている。

間も無く
何時もの声が聴こえてきた  大勢の声が暗闇の中に虚ろに反響して

  こ  ろせ   ころ せ   殺せ    殺せ 

口々に叫んでいる。

このこは     わざわいを よぶ

地獄の穴から伸びてきた手が少女の長い髪を掴んで 乱暴に引っ張った。
固い地面に倒れても手は力を緩めず 其の儘引き摺られた。
別の手が細い腕を掴んで爪を食い込ませた。次々に手が伸びて来る。
髪を 躰を 滅茶苦茶に掴んで

躰が 引き裂かれる ―

少女は目を見開き 自分を掴んでいるものを見た。
闇の中から 節くれ立った黒く歪な腕が 獲物を捕えた蜘蛛の様に
尖った長い爪を少女の細い首に食い込ませ ぎりぎりと締め付けている。
巨大な血の眼が少女を見ている。
どれだけきつく目を瞑っても    凶虐な輝きを帯びた紅い双眸が消えない。

何処かで
其の眼を   見たことがある

何かが少女の中で呼び覚まされようとし 少女は其れを拒んだが
深く沈んだ記憶の中から  其れは頭を擡げ 閃光の様に切れ切れに蘇ってくる。

忌まわしい 血の記憶

夥しい血が足元を流れ 大地は 黒く歪な屍で覆い尽くされている。
人も獣も 生けるものは無く
屍の中に一人立つのは 少女自身だった

    ばけもの  ― 

貪欲なまでに血を欲する紅い其の眼が ― 少女の中に入って来る。

だが  心の何処かで其れを望んでいる。
少女を虐げる者達に報いを与える「力」を   渦巻く黒い感情が「残虐な力」を欲している。
其の一方で
心が飲み込まれて 血に飢えた獣の様な悍しい感情が躰を支配し 自分が失われてゆく事に恐怖した。
どくん どくん   と脈動する音が更に大きく 激しい頭の痛みと一緒になって響いた。
頭が  割れる様に痛い。
締め上げる手は恐ろしく冷たくて 引き剥がす力も もう失われようとしている。 
花弁が散るように床が音も無くはらはらと崩れ落ち 白い破片が奈落に吸い込まれて消えてゆく。

どくん   どく ん

黒い蝶が少女の長い髪から舞い上がった。幾匹となく其れは数を増し ―
蝶を映す少女の目はやがて虚ろになり 抗う手は力を失い 床に落とされた。
首を絞めていた手は消え  頭に響く声も消えて    ただ 静寂だけが在った。
冷たいコンクリートの床の上に倒れ込んだ少女は 震える手で喉を押さえ
半ば開いた口から 声は出ない。ただ
戦慄く唇から一筋の血が伝い 音も無く床に零れ落ちた。

躰から止る事の無い血が流れ出してゆく

黒い痣が少女の躰を生き物の様に這いながら拡がり 蝕んでゆく
血溜まりから紅い蝶が飛び立った  闇に触れると黒く染まり音も無く飛び交う。
黒い蝶は闇に溶け込んで 深い闇と為り   闇は黒い蝶を無数に生み出した。

 遠くに  「映像(ヴィジョン)」が見えた

聳え立つ屍に舞う 黒い葬列     其れは 少女を求め ―
躰が黒い蝶に浸食されてゆく  黒い蝶は少女を喰い尽くし  少女は

    深い闇の中へと 堕ちて往く
其処は
音の無い世界

何も聞こえない  嗤い声も 罵る声も   自分の鼓動すら掻き消えて往く
傷つける誰かも居ない   痛みも 恐怖も無い 

目を閉じれば
もう  二度と 目覚める事も無い ― 

全てが失われてゆくのを抗う事も無く  其の顔からはもう何の感情も感じられなかった。


誰かが
ト ―
呼んでいる
私を
あの人が くれた名前 ― 

天をゆく鳥が吹き荒ぶ雪風に乗って 聳え立つ高層ビルの合間を抜けて往く。 
其の眼が少女の眼となり 闇を飛び越えて少女は其の姿を捉えた。
少女の禍禍しく耀く紅い眼が其の姿を映す。

聞け
俺は必ずまた生まれ変わる
何度死んでも 何度でも生まれ変わって お前を探す

だから

約束為ろ

お前も 絶対に俺を諦めるな
(死ぬな)
此の世界の何処かに 俺は居るから
俺を見つけるんだ ヲト
(お前は生き延びてくれ)
俺たちは 必ずまた会える ― 


― 止め処なく零れ落ちる涙が 全てを洗い流し

其の目と少女の紅い目が合った。

― 少女は顔を上げ 灰色の空に手を伸ばした

黒い蝶が一斉に飛び立った後 少女の姿は消え 後には深い闇だけが残った。





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登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

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