五章・三度目の事故(1)
文字数 2,749文字
一時は命を危ぶまれた彼女だったが今は顔色が良い。あの後しばらくして救急車によりこの病院まで運びこまれたところ、医者は単なる貧血ではないかと診断した。誤診でなく、そうとしか見えなかったからだ。
雨音から視線を外し、自分の手の平を見つめる。彼女が死にそうになった時、突然この手から発せられたオレンジ色の光が全身の傷を瞬く間に完治させてしまった。レインの話では体内を蝕んでいた毒も綺麗に消失したらしい。
何故あんなことが出来たのか、最初は戸惑ったけれど、今は理由を知っている。すでに説明を受けた。
レインボウ・ネットワークは時に、超能力を授ける。
曰く、ネットワークは“
「超能力……」
現実離れした話。けれど不思議なことに、たしかにそれが自分の中にあるという確信を抱いている。試しに使ってみると指先にまたオレンジ色の光が灯った。練習の必要も無い。念じるだけで思い通りに扱えるらしい。
なんでも、これは≪生命≫の神の力だという。だから怪我を癒して毒を打ち消すことも出来た。
(この力があれば……)
一生お金に困らないかもしれない。どんな怪我だって治すことができる。レインが言うには病気の治療も可能だとか。手術も投薬も必要無い。手をかざすだけ。他者への恐怖心を堪え、ほんの少しの間、顔を合わせればそれでいい。いくらでも稼げるだろう。
でも、それは卑怯な行為だ。病院の中にいると一層そう感じる。すでに遅い時間なのに院内では看護師達が忙しなく動き回っていて、医師も複数夜勤している。ここへ来た直後、手術室のランプが灯っているのを見た。雨音を病室へ移動させる際に前を通ったら、まだ同じ状態だった。
彼等が人を救うべく努力している横で、こんな偶然手に入れただけの力で誰かを助けたとしても、それを誇る気にはなれない。自分は何の苦労もしていないのだから。
この力は本当に必要な時にだけ使う。雨楽は内心そう誓った。
ただし、あと一回だけ。もう一回だけズルをさせて欲しい。
母は雨音のために必要な物を買いに行った。
父は母に頼まれ、
容体が安定しているため今は医師も看護師もこの病室にいない。それを確認して壁際で佇む彼女へ話しかける。
「レインさん」
『なんでしょう?』
自分以外には見えないメイドさん。彼女はもう答えを知っているはずなのに、わざわざ聞き返して来た。それは多分こちらの覚悟を試したいから。
覚悟は今、決まった。
「まだ、僕には三回目の跳躍が残ってますよね?」
『はい』
「彼女の世界を行き先に設定できますか?」
『可能です』
元々、三度目の跳躍では良く似た歴史の並行世界へ跳び、自分の別の可能性と対峙することに決まっているのだと説明してくれた。
『本来は対象者に明かしてはいけない情報なのですが、雨楽様は特別です』
「ありがとうございます」
どうして特別扱いしてもらえるのかは知らないけれど、都合が良いのはたしか。素直に感謝させてもらう。
「じゃあ、お願いします」
『よろしいのですか? 三度目ですよ』
「はい」
きっと、これが終わった後、記憶を消されるだろう。超能力も一緒に無くなってしまうかもしれない。
だって、今でも死にたいと思っているから。
「いいんです。せめて最後に、この子を助けてあげたい」
『そうですか……』
残念そうに俯いて、そしてもう一度顔を上げたレインの目は青い光を灯していた。
「あの、向こうでも超能力は使えますよね?」
『七柱の権能は魂に対し貸与されますので、アバターでも問題無く利用可能です。ですが、どうせなら彼女が起きるのを待って共に跳躍された方がよろしいのでは?』
たしかに、その方が現地で動きやすいと思う。
けれど──
「せっかく気持ち良さそうに眠ってるし……起こしたくないなって」
『それに、決心が鈍るから待ちたくない、ですか』
「やっぱりわかってるじゃないですか」
『申し訳ございません。けれど私相手ならともかく、言葉で伝えるという行為は人と人の間では大切だと思いますよ』
「そうですね……」
その通りだと思う。自分はずっと大切なことから逃げ続けて来た。だから戻って来たら彼に会いに行こう。記憶が消される前に、今度こそ決着を付けよう。
(父さん、母さん、雫さん……あっちゃん……僕、行ってくるよ)
『目標並行世界座標特定。現地活動用
そして三度目のカウントダウンが始まった。雨楽の全身が青い光に包まれる。
一度目の異世界旅行はあっと言う間に終わってしまい、二度目も思い返せば短い時間の出来事だった。せっかく買った冒険用の道具も結局何も役立てないまま自分の部屋に放置してある。
人生も同じ。十歳の時からずっと同じ場所で足踏みを続け無為に過ごした。そんな自分が一度だけでも誰かの助けになってあげられたら、きっと満足して死ねる。今度は躊躇い無く、この手首を切ることが出来るだろう。
『八、七、六』
残り五秒。雨楽は心を落ち着かせるため瞼を閉ざす。
『五、四、三、二、一……雨楽様、それでは良い旅を』
「はい、いってきます」
カウントダウンが終わった。レインは寂しそうに微笑む。
ところがその瞬間、誰かが雨楽の右腕を掴み、二人は同時に目を見開いた。
「えっ……!?」
「さっきから聞いていれば、なんですか? 何を企んでるんですか、あなた!?」
雨音だった。彼女はずっと眠ったフリを続け、雨楽の“独り言”を聞いていた。自分の世界へ行こうとしているとかなんとか言っていたから、その真意を確かめるために。
「させませんよ!」
『いけない!』
雨音の額に燐光を帯びた紋様が浮かんだのを見て取り、レインは並行世界間跳躍を強制中断しようとする。
しかし一歩遅かった。レインボウ・ネットワークの跳躍プログラムと雨音の持つ同種の力が干渉し合い、予想外の結果を生み出す。
彼女の目の前で二人の姿が同時に消えた。精神だけでなく肉体ごと異なる世界へ跳んでしまったのだ。
行き先は──追跡できない。ネットワークを使っても発見できないどこかへ飛ばされたらしい。なんらかの理由で隔絶した世界か、それとも未知なる領域か。いずれにせよ前代未聞の出来事である。
彼女は素早く報告を上げた。
『マスター、緊急事態発生です』