序章・しゃぼん玉

文字数 1,499文字



「スズ……」
 抱き締めた体が徐々に熱を失っていく。その目は虚ろで、もう目の前にいる彼の姿さえ見えていなかった。三柱教が用意してくれた純白の壮麗な衣装は、今は彼女の血で真っ赤に染まっている。
 それでもまだ、か細い声で謝るスズラン。
「ごめん……ね、モモ……ハル……」
「ううん、スズは頑張ったよ……」
 今だってそうだ。自分達は虚空に浮かんでいる。何一つ無い、銀色の霧だけがたゆたう空間。小さな泡に包まれ守られていた。スズランが残り僅かな命を削り、障壁を維持してくれているのだ。
「そう……ね、みんな……頑張った……わよ、ね……」

 出来る限りのことをやった。
 最後まで必死に戦った。
 そして負けた。

「あと少し……だった」
 もう一息、ほんの少しだけ時間があればきっと勝てた。けれど、あの一瞬、崩壊の呪いが変じた怪物にトドメを刺そうとした瞬間、何かが起きた。
 あれは何だったんだろう? 魔素を黒く染め上げ、圧倒的な力で自分達を蹂躙した六体の影。
 新たな敵? いや、違う。呪いが生じた経緯を考えれば、きっと、あれこそが──
「上澄み……だったのね」
「うわずみ?」
「私達が、今まで、戦っていたのは……“呪い”の、上澄み……あれが、もっと深い領域で淀んでいたものが……本当の“呪い”だった……のよ」
「そ、そんな」
 だとしたら勝ち目は皆無。あんなもの誰も勝てるはずが無い。
 スズランもクルクマもナスベリもロウバイも勝てなかった。再び竜の心臓を宿し自らを変異させて立ち向かったオトギリでさえ時間稼ぎが精一杯。スズランと自分以外の六人の神子の力だって通じなかった。
 あれが本当の“崩壊の呪い”なら、この界球器(せかい)は滅ぶ。
 いや、せめてこの事実を並行世界に伝えられたら……けれどもう自分とアルトラインの繋がりも断たれてしまっている。折角の情報を残された者達に託す術が無い。
 時間も残り少ない。この小さな泡の中の空気は間も無く尽きる。どころか、それより先にスズランの限界が来るだろう。
 彼女は左の脇腹を大きく抉られていた。庇って間に入ったモモハルも左腕を失い、大量に出血して死にかけている。まだ死んでいないのは神子として受けていた加護が少しだけ残っているから。
 それも、今はもう儚い残り火。悔し涙が流れた。

「ごめん、スズ……守れなくて」

 今度は彼の方から謝る。すると肩越しにスズランのくすりと笑う声が聴こえた。
「笑いなさい、モモハル。さっきも言ったけど……私たち、精一杯……やったの」
 それにと彼女は囁く。
「まだ、出来ることは……ある」
「え?」
「私と貴方が……揃っている。力を合わせれば……あと一つだけ、できることが……あるはず……」
 命が尽きかけているのに驚くほど強い力でモモハルを押し退ける彼女。見えない両目で、それでも気配を頼りに彼の顔を正面から見つめ、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「やってやりましょう……諦めるには早い……私達には、まだ勝機がある」
「……はは」
 らしいやとモモハルも笑う。そうだ、最後まで諦めてなんかやらない。スズランが戦意を失わない限り、自分も隣に立って戦い続ける。
「何をすればいい?」
「願って。それだけでいい」
「それだけ?」
 不満そうな声色に、スズランは再び体を傾げ、彼の胸に体重を預けた。
「あとは……抱き締めていて。私を、離さないで」
「うん」
 元からそのつもりだ。絶対に、もう二度と離れたりするもんか。
 血まみれの姿で抱き合った二人の体が青い光で包まれる。
 次の瞬間、二人を守っていた泡が弾け散った。
 同時に小さな輝きが一つだけ、霧の中をはばたきながら飛び去って行く。後には、もう何も残されていなかった。
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登場人物紹介

 ヒメツル。薄桃色の髪で海を思わせる青い瞳。人々から「最悪の魔女」と呼ばれる十七歳の少女。世界最強の魔力を有し、その回復力も尋常でなく実質的に無限。才能には恵まれているが、師を持たず独学で魔法を使っており初歩的な失敗をすることも多い。十二歳前後から頭角を現し始めた。それ以前にどこで何をしていたかは謎。大陸南部の出身だという噂はある。

 ただでさえ美貌に恵まれているのに、それに魅了の魔法まで加えて馬鹿な金持ちを騙し、資産を巻き上げて贅沢な暮らしをしている。魔法使いの森の中に鎮座する喋って動いて家事万能の巨大なカエデの木「モミジ」が住み家。

 自由を愛し、宗教が嫌い。聖都シブヤで三柱教の総本山メイジ大聖堂に放火。全焼させて教皇以下の信徒達を激怒させ、討伐に向かった聖騎士団も悪知恵で撃退。以後は超高額の懸賞金をかけられ賞金首となるも、忽然と姿を消す。

 スズラン。生まれつきの白髪で青い瞳。最初は老人のような自分の髪を嫌っていたが、何故か反射光が虹色になると気が付いてからはお気に入り。

 ココノ村の雑貨屋の一人娘。ただし両親との血の繋がりは無い。赤ん坊の時、隣の宿屋の長男が生まれた夜、何者かによって彼の隣に置き去りにされた。その後、子供ができず悩んでいた隣家の夫婦に引き取られる。

 周囲には隠しているが強大な魔力の持ち主で魔法も使える。大人顔負けの知識まで数多く有しており、幼少期から神童と呼ばれる。

 両親の代わりに接客をしたり、服や小物を作って店に並べたりも。今や「しっかり者のスズランちゃん」の名は近隣の村々にまで知れ渡った。

 成長するにつれ賞金首の「最悪の魔女」そっくりになりつつある。村民達は薄々実母の正体を悟りつつ、彼女の幸せを願い、気付かないふりをしている。外部の人間と会う時は周囲の認識を阻害してくれるメガネをかける。友達の魔女から貰った。

 幼馴染のモモハルは自分の天敵だと思っている。だが、その割にはかいがいしく世話をする。周囲は二人が結ばれることを期待中。彼の妹のノイチゴは実の妹のように可愛い。

 モモハル。スズランがココノ村に置き去りにされる直前、宿屋の二階で生まれた少年。宿を経営する若夫婦の跡取り息子。後に妹も生まれる。プラチナブロンドで空色の瞳。母親似の顔立ちで中性的な美形。でも性格は完全に父親似。一途で尻に敷かれるタイプ。

 スズランとは姉弟同然の間柄だが当人は〇歳から異性としての彼女が好き。ある意味とてつもなくマセている。両親も妹も村の皆も大好きだけれど、一番好きなのは絶対的にスズラン。

 実はとんでもない能力を秘めており、育ち方次第では世界を滅ぼしてしまいかねない。その力のせいでスズランからは天敵と認識されている。天真爛漫だが人を驚かすのも好きないたずらっ子。

 スズランの心配をよそに、子供に大人気の絵本「ゆうしゃサボテンシリーズ」を読んでヒーローへの憧れを抱いてしまう。

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