六章・最果ての花(4)
文字数 2,343文字
クルクマは崖の上から夕焼けでオレンジ色に染まりゆく海を眺め、笑った。
「なんだ、何か面白いことでも思い出したのか?」
すぐ横で望遠鏡を覗き込んでいる男が、その作業自体は止めずに問いかけて来る。
「いや、ちょっとヒメちゃんと出会った頃のことをね」
「最悪の魔女か。彼女は死んだという噂を聞いたが生きてるのか?」
「生きてるよ。ちょっとだけ、皆が思ってるのとは違う形でね」
「ふむ」
彼になら真相を打ち明けてもいいかもしれない。ただ、どのみち大した興味は示さないだろう。
自分と同じ夕日に良く似た色の赤毛で、いつ会っても顔の半分が髪と伸ばしっぱなしのヒゲに覆い隠されているこの男の名はガーベイラ。彼女よりちょっと年上の魔法使い。
「一度は会ってみたいものだな。美人なんだろう?」
「まあね。手を出したら殺すよ」
「出さない。君を口説き落とすのが先だ」
「はいはい」
彼のこれはいつものことなので軽く受け流す。冗談のつもりなのか時折好色漢を気取るのだが、実際のところ自分の研究以外の事柄には全く興味の無い男なのだ。
「で、いきなり呼び出されたから急いで来たわけだけれど、ついにアンタのお姫様が見つかったわけ?」
「急いだ割にはずいぶん時間がかかったじゃないか」
「色々あってハコダテで足止めされてたの」
「トラブルか?」
「まあね。師匠絡みでちょっと馬鹿な連中とやり合っただけ」
正しくは、その後の調査のためにしばらくあの街に留め置かれたのだが、詳しい事情を話す意味はやはり無いだろう。この男はいつも一人なので、たまの来客があると話をしたがるだけ。話の内容自体はどうとも思っていない。
ハコダテの兵士達は結局クルクマの偽装工作を見破れなかった。それでも疑念は残ったらしく、隊長は悔しそうな顔で出立を見送ってくれた。こちらとしても、あの御者を巻き込んでしまったことは不本意だったのだが。
(見つかったのは壊れた馬車と右手だけ……か)
あの熊達は思った以上に腹を空かせていたらしい。ちゃんと命令したのに。
「何事も無かったなら幸いだが、気を付けてくれよ。今は君一人の身体じゃないんだ」
「アンタ会う度に人を妊婦扱いするね。笑えないジョークやめてよ」
「君と幸せな家庭を築くのがオレの夢なんだ」
「ああもう」
こんなつまらない冗談を聞くために大陸の北端まで来たわけじゃない。
彼女の不機嫌を感じ取ったガーベイラはあらかじめ用意してあった紙を二枚、クリップボードから外して差し出す。
「見てくれ」
「これが例の“発光現象”の起きた日時?」
「そうだ」
「これ、は……」
内容に目を走らせたクルクマは顔を引き攣らせる。
間違いない、この二つの日時はどちらも──
(スズちゃんがアレを……“ソルク・ラサ”を使った瞬間だ)
どうして? あの魔法とあの場所に関連性があると?
「実はもう二枚ある」
「もう二枚?」
どういうことだろう。訝る彼女の前で、彼は足元に置いてあったやけに古いケースから再び二枚の記録用紙を取り出す。
受け取り、それぞれの日時を確認したクルクマは驚いた。片方は知らないが、もう片方には心当たりがある。彼女にとっては大切な思い出の日だ。忘れるはずが無い。
「この日付……これ、まさか……」
「さっきも動揺の気配が伝わってきた。どうやら君は何かを知っているらしい。悔しいよ、オレはこの研究に生涯を捧げて来たのに、そんなオレの知らないことを知っている人間がいるなんて。でも、だから急にオレに“何か起きたら教えてくれ”なんて連絡して来たんだろう? それと関りがあるから」
「まあ……多分、ね」
これは何の偶然? 自分だけだ。自分だけが三度もその場に居合わせた。
(まさか、あーしもなのか? あーしまで特異点だとでも? それともこれはあの子達の力のどちらかが原因?)
いくら考えたところで、神ならざる者に確かな答えなど出せなかった。だから再び海の彼方を見つめる。
夕焼けに染まる海。その色は、まるであの時の──モミジを蘇らせたヒメツルの魔法の輝きのよう。
そしてその向こうに広がる、やはり橙色に染まった壁。それは北の海域全てを数百年間封鎖し続けている“霧の障壁”と呼ばれる結界。あの師が超えようとして、結局果たせず終わったほどの高度な技術の産物。
その結界が、どういうわけだかヒメツル、そしてスズランが人知を超えた魔法を使った瞬間にだけ発光していたという。二度発動したソルク・ラサ。さらにモミジを蘇らせた色の異なる光柱。全く予想もしていなかった話だ。
言い伝え通りなら、あの霧の向こうにいるのは、かつてこの世界を滅ぼそうとした存在だけのはず。
魔王と、その軍勢。
「やっぱり、あいつらなのか……?」
スズランの敵。世界を滅ぼす“崩壊の呪い”に最も近い存在は何かと考えたら、誰もが一度は考える。魔王があの霧の障壁を越え、再び現れるのではないかと。
「良ければ教えてくれないか。今、この世界に何が起きているのか」
「……しかたないね」
ガーベイラが望遠鏡から目を離していた。この七年、何度会っても片時たりとも北の海の監視をやめなかった男が、初めてそれを中断して自分を見つめている。
彼になら良いだろう。それに、おそらく彼の知識と経験も必要になる。
「じゃあまずヒメちゃんのことから」
「待ってくれ」
せっかく話す気になったのに、この男は早速出鼻を挫いてくれた。
「なんなのさもう」
苛立つクルクマに、顔のほとんど見えないヒゲ男は真面目な声で言う。
「君は、予想以上に美しいな」
「はぁ!?」
面と向かって言われたのは初めてだった。流石に顔が赤くなる。
ああもう、人をからかうのはやめろ。
「いいからちゃんと話を聞け!」
「すまない」
彼は素直に謝って、肩を落とした。