第10話 いろは

文字数 3,445文字

 愕然としちゃった。
 気づけば二十五。早くも丸山に住み着いて八年よ。

 もう気取ってる場合じゃないわよね。今は条件がどうであれ、身請け話があれば迷わずすがるつもりよ。

 だけどそう決めた途端、そんな有難い話はぴたりと止んでしまったの。
 年齢を重ねるほどに、良いお客様に出会うこともなくなってきた。相変わらず一定の客はつくけど、私のために身代を崩してくれるほどの入れあげようじゃない。

 一部の女が私のことを影で笑ってるわ。あの人いつまで太夫を張ってるつもりかしらって。
 そんなの、相手にすることはない。そう分かってるけど落ち着かない。必死に化粧で小じわを隠し、笑って三味線を弾いてても、いつ崖から突き落とされるかといった心境よ。
 
 でも私、心のどこかで、もうあきらめかけてるの。
 もう手遅れなのかもしれない。いい人生なんて、もう手に入らない。ちょっと人気が出たからって、いい気になった私が馬鹿だった。これは天罰かもしれないわ。

 確かに借金はまだ残ってて、勤めは続けざるを得ない現実がある。
 でも一方で密かに考え始めてるの。今の上客が離れていったら、もう第一線から身を引いて、おぎんさんや他の飯炊き女のように裏方に回してもらおうかなってね。遊女としては惨めな末路だけど、仕方がないわ。

 窓から見下ろしたら、雨は止んだのに空はまだ暗いみたい。濡れそぼった石畳の上で三味線の音がむなしく響いてる。

 もうすぐ昼見世の刻限だというのに客の入りはほとんどないし、私にも呼び出しがかかってない。実は、京屋では風邪が流行ってて、何人もの遊女が伏せってるの。だからむしろこの状況は助かるんだけど、売り上げがないとなれば旦那様のご機嫌が悪くなるから厄介よ。

 鬱々と一日をやり過ごすぐらいなら、またお酒を出してこようかしら。
 そう思ったまさにその時よ。階下から異様な叫び声が響いてきたのは。

 襖を開け、廊下に首を出したら、すでに他の遊女たちが集まってた。みんな頭を付き合わせるようにして、狭い踊り場から階下をのぞき込んでる。

「どがんしたと」
 声を掛けたら、全員がぱっと振り向いた。
「ああ、瓜生野姐さん」
 若い遊女たちが困惑した顔で階段の下を指差したわ。
「また、『いろは』さんばい」

 私も同じように階下を覗き込んだ。
 それと同時に、奥の部屋の襖がばんっと勢いよく開いて、並女郎のいろはが飛び出してきた。まるで猛獣のような勢いだったわ。
 だけどおぎんさんがその後を追い、たちまちいろはを取り押さえた。

「ぎゃあああ」
 耳をつんざくような、いろはの叫び声だった。
 おぎんさんはいつもの調子よ。いろはの背に馬乗りになって髪の毛をつかみ、手にした棒切れで思い切り殴ってる。

 妓楼ではよくある光景だから、今さら誰も驚かないわ。
 でも私たち、無言で目を背けてた。この手の暴力は他の女への見せしめでもあるから、見てると胸を塞がれるのよ。
「この鬼! 病気の女郎ば引っ張り出して、おうちはそいでも人間ね!」
 言い返すだけ勇敢と言うべきか、いろはは涙を流しながら犬のように吠えてたわ。

 そう言えば、と私は思い出した。今日、いろはは熱があると言って臥せってたの。
 でもおぎんさんは旦那様と同じく、女郎は人間じゃないっていう考えよ。あんな風に言っても効果はない。
 もちろんおぎんさんはやめる様子はなく、余計に激しくいろはを叩きのめしたわ。
「行くて言うたら行くんだよ! せっかくコンプラさんがお声ば掛けて下さったと」
 ああオランダ行きか。
 全員が同じことを思ったらしく、私たちは肩をすくめ合った。

 コンプラ仲間っていうのは長崎地役人の職の一つで、出島の蘭人の買い物、用事などを仰せつかる役よ。買い物にはむろん、女の買い物も含まれる。出島の方で、いろはに指名があったということなんでしょう。

 だけど放置しておけば、いろはは勤めができなくなるほどの怪我を負うか、あるいは死ぬかもしれなかった。毎度のことだからと放置はしたくなかった。それに私自身、こんな暴力は一刻も早く止んで欲しいと思ってた。

 だから私、覚悟を決めたわ。
 とんとんと階下へ降りて行って、棒を振り上げるおぎんさんを制したの。これができるのは、その場にいる女たちの中では私だけだった。

「おかしゃま、待って」
 おぎんさんは何ね、と迷惑そうに言って私を睨みつけてきた。
「邪魔すんじゃなか。いろはには焼きばいれてやらんといけんとよ」

 確かにいろはは口が悪く、性格も荒っぽくて、旦那様もこれは最初からオランダ行きにしかならないと決めてたようよ。そんないろはを指名するなんて、その蘭人も趣味が悪いとしか言いようがないけど。

 他の遊女たちが、私の背後ですがるような目をしてる。だから私、できるだけ丁寧に訴えたわ。
「風邪ひきの(おんな)がお伺いしても、かえって先方にご迷惑ですけん、今日は他の妓で我慢してもらうわけにはいかんじゃろうか」

「いくら太夫の言うことでも、こればっかいは通らんとよ」
 おぎんさん、目を剥いて怒り出したわ。
「引田屋の此滝(このたき)てゆう妓と張り合うとっと。せっかく京屋ばご贔屓にしてもろとってゆうとに、おうちは引田屋に持って行かれてもよかてゆうのね?」

 確かに商売敵の名を出されると弱いところだわ。私、反論できなかった。
 それを見て、おぎんさんはせせら笑うように顔を歪めたわ。
「だいたい、誰の、代わりに来るってゆうのね。え?」
 階上の女たちを端から指差して、おぎんさんは怒鳴りつけた。
「おうちね? そいともおうち?」

 みんな硬い表情で手すりから離れたわ。全員、目を合わせないよう必死よ。
 だけど私は違う。もうオランダ行きが嫌だとか、そんな初心な年齢じゃないし。

「おかしゃま。うちの来ますけん、誰も責めんで」
「はあ?」
 おぎんさんは困惑したみたいで、呆気にとられて私の顔を見た。
「何ば言っとるのね。おうちは駄目たい。こん店の看板じゃけん」
「誰かの、行かねばならんとでしょう?」
 むむ、とおぎんさんは考え込んだ。確かに、安易に太夫を差し出せば今度は店の名を汚すことにもなりかねない。旦那様がどう判断するか微妙なところだったわ。

 一方で、いろはは事態が落ち着いたと見ると、さっさとおぎんさんの体の下から這い出てきた。
 いつもながら全く懲りてないって感じ。私に向かって感謝するどころか、牙を剥いて迫ってきたわ。

「ちょっと、おうち!」
 もう敵意むき出し。飢えた野犬みたいな女よ。
「カピタン様のことば、横取りすっ気ぃね? そがんこと、うち許さんとよ。カピタン様は、うちのことば気に入っとるけん」
 いろははその途端、ごほごほと咳き込んだ。私はうつされまいと身を反らしたけど、今の言葉には引っかかったわ。
「……カピタン様? おうちばお名指ししとられるんは、カピタン様なんね?」
 正直びっくりよ。わざわざいろはのような最下級の遊女を呼ぶんだから、もっと下っ端の男かと思ってた。

 いろはは無理に咳を封じ込めると、苦しそうな声でまた突っかかってきた。
「何ね。うちがカピタン様に可愛がられとったら気に入らんの?」
「誰もそがんことば、言うとらんよ」
 私はやれやれと肩をすくめたわ。これだから、いろはは他の女にも嫌われてるのよ。少しもおしとやかに振舞おうという気がないんだから。

「太夫」
 そこでおぎんさんが割って入ってきた。
「カピタン様は、変わったお人でなあ。おとなしか女郎じゃ満足させられんとよ」
 おぎんさんが言うには、とにかくその蘭人はギラギラと好戦的な、性欲の塊のような女がお好みなんですって。いろはのように日本人に嫌われるほど元気でないと、カピタン様の敵娼(あいかた)は務まらないんですって。

「おうちじゃ、無理たい」
 ふふん、といろはは馬鹿にするように笑って小鼻を膨らませた。
「いくらおうちが日本や唐国の男に好かれとったってなあ、カピタン様のお相手は別物ったい。おうちのごたっと、ご機嫌ば損なって、殺さるっとが落ちじゃけんね」
 威勢よく暴言を吐いて、いろははまた、ごほごほっと咳き込んだ。

「元気なようね。そんげん言うなら、やっぱい、おうちの来るけんか?」
 私が冷ややかに聞くと、いろははげんなりした顔でうつむいた。
 どうやら降参のようね。熱っぽい顔もしてるし、本当は苦しくて仕方がないんでしょう。

「早う、風邪ば治さんね」
 そう言い捨てて、私は再び階段を上がり、二階の自室に戻ったわ。いろはと話していると、こっちがおかしくなりそうよ。

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