第17話 少女と、少年
文字数 2,621文字
部屋に入ってきたのは、二人。
さっき空き地で遊んでた女の子と、昨夜も見かけた褐色の肌の少年よ。
私はまず、小さな女の子の姿に釘付けになった。日本の着物を着てるけど、くっきりとした顔立ちで明らかに日本人の風貌と違うのよ。
すぐに分かったわ。オランダ人と日本人の間の子だって。
女の子は獣のように奇声を上げて、ヘンドリックの元へ駆け寄った。
ヘンドリックはといえば、いつものことなんでしょうね。仕事の邪魔をされたことを怒りもせずに、ただ書類をよけ、満面の笑みで彼女を抱きとめたわ。
「おも〜んち〜!」
ヘンドリックはそのまま彼女を高々と抱き上げ、頬に何度も何度も口づけした。女の子は喜んで、きゃっきゃっと笑ってるわ。
へえ。あの子、おもんっていうんだ。
私は台所の入口で腕組みをし、その様子を見てたわ。
すっごくイライラしてた。
何なのよって思ったわ。ヘンドリックは今、自分が遊女を侍らせている最中だって忘れてるのかしら。
でもそういえば、とも思った。彼には子供がいるんだった。
旦那様の話では、前にいた遊女がヘンドリックの子を産んだっていうことだったもの。
だけどなぜその子が出島にいるのかしらね? 私はてっきり、子供は母親とともに去ったと思ってた。まさか、カピタンのヘンドリックが自ら育ててるわけじゃないわよね?
世間では、跡継ぎのいない家が妾の産んだ子を横取りした、なんて話はよくあるものよ。別に珍しくはないと思う。
その子が男の子なら、ね。
この子は女の子。しかも独身の男が子供を引き取って自分の手で育てるなんて、そんな話は聞いたことないわ。まして母親は遊女よ?
そりゃ建前としてはね、奉行所は父親のいない可哀想な子はなるべくいないことにしたいの。だから異人に対し、遊女との間に子ができた場合、日本にいる間は責任をもって養育するよう命じてる。しかも帰国後は、その役割を遊女屋が担うことになってる。
だけどそんな決まり、破ったところで罰則もないのよ? 誰が馬鹿正直に従うかっていうの。
遊女の子なんてねえ、打ち捨てられるのが当たり前よ。たいてい子供のうちから働かされて、ま、男の子ならきつい力仕事をさせられるし、女の子なら最下級の遊女にされるわね。怪我や病気の時も治療は受けられないから、長生きはできないと思った方がいい。
そんな現実を知ってるからこそ、私だって産まないという選択をしてきたの。
だってそうでしょう? 殺してやった方が、その子のためじゃない。
それでも私、とっさに台所に隠れたわ。
ほとんど無意識のうちにそうしてた。
こんな私でも、人間だもの、ちょっとは胸が痛むのよ。少なくともあの子に罪はない。私みたいな女の存在を知らせるべきじゃない。
私は物音を立てないように気を付けてたわ。そうしなければならない自分の身の上を、いささか悲しくは思ったけれど。
そんな私をよそに、ヘンドリックの膝の上にちょこんと乗った女の子は、夢中で何かを報告してたわ。
「Eerder, Muhammad nam de bal en beëindigde omhoog gooien naar de andere kant van de muur(さっき、ムハマッドがボールを取って、壁の向こうに投げてしまったの)」
「おもん」
ヘンドリックは少し厳しい声でその声を遮り、娘を床の上に下ろしたようだった。
「オランダ語、ダメ。日本語、話しなさい」
そのとき少年が突然台所に入ってきて、私とぶつかりそうになった。少年はびっくりしたようにこちらを見てたわ。
「あはっ。どうも」
私はぎこちなく、片手を上げるしかなかったわ。
「ゆうべも会ったわね」
すると少年の方もニっと白い歯を見せるの。これまた日本人とは少し風貌が異なるけれど、浅黒い肌の、とても可愛らしい男の子だった。
彼は自分の胸を指し、ムハマッドって名乗ったわ。
私はムハマッドにかなりの親近感を覚えた。よく分からないけど、オランダ人よりはずっと日本人に近い感じがする。
しかもこの子、すごく美しい布をまとってるじゃない?
「ね、ちょっと見せて」
私は彼の着物のひだを、少し広げさせてもらった。
緻密な臈纈 染め。たぶん植物の文様ね。とても完成度の高い、芸術と呼んでいいほどの布だったわ。
「素敵な着物ね、ムハマッド」
ムハマッドもまた、私の言葉が少しわかるらしくて、誇らしげにうなずいた。
「Ini adalah batik(これはバティックです)」
う〜ん、悪いけど聞き取れなかった。でもこの布に名称があることは分かったわ。
南方の布。藍と茶の華麗な生地が、これまた異国の風を運んでくる。
ムハマッドは、私が先ほど放置した茶器を手慣れた所作で並べ替えた。
その手際の良さに感心したわ。さすが、オランダ人への仕え方をよく知ってるわね。
私がじっと少年の手つきを見ていると、ムハマッドも落ち着かないのか、肩をすくめて笑いかけてきたわ。
まだ十代前半でしょうね。いかにも純朴そうなその笑顔を見てると、この子を奴隷と呼ぶにはあまりに痛々しくて、私は何となく目を背けちゃった。
確かに、私たちだって金銭で贖われる身よ。
だけど遊女には、まだ年季が明けるという希望があるもの。いつの日か借金から解放されて、自分の好きな人と一緒に暮らす。そんな楽しい夢を見るぐらいはできるもの。
南国の、この少年の人生はどうなのかしら。将来、自分の意志で人生を切り開ける日が、この子には来るのかしら?
何だか腹立たしくなってきたわ。はっきり言えるのは、オランダ人が残酷な一面を持ってるってことよ。
ヘンドリックという人も、実はまだよく分からない。夕べは優しかったけど、その目の奥に暗い影がよぎることがあるの。
冷たい刃物のようなその目に、私はぞっとする。
遊女はみんな、そういう目に見覚えがあると思う。遊女を折檻する時の旦那様がまさにそんな感じだし、この業界にはそういう人間が多いものよ。
どんなにヘンドリックと仲良くなっても、警戒は解くべきじゃないわね。いつその残酷さが牙を剥くか、またそれが私に向かってくるか、わからないもの。
だいたい彼は、他のオランダ人を差し置いて商館長にまでなった人よ。異例の出世を遂げる人が、ただ優しいだけのはずがないじゃない。
そこまで考えたとき、ヘンドリックが思い出したように私を呼んだ。
「オリオノ!」
さっき空き地で遊んでた女の子と、昨夜も見かけた褐色の肌の少年よ。
私はまず、小さな女の子の姿に釘付けになった。日本の着物を着てるけど、くっきりとした顔立ちで明らかに日本人の風貌と違うのよ。
すぐに分かったわ。オランダ人と日本人の間の子だって。
女の子は獣のように奇声を上げて、ヘンドリックの元へ駆け寄った。
ヘンドリックはといえば、いつものことなんでしょうね。仕事の邪魔をされたことを怒りもせずに、ただ書類をよけ、満面の笑みで彼女を抱きとめたわ。
「おも〜んち〜!」
ヘンドリックはそのまま彼女を高々と抱き上げ、頬に何度も何度も口づけした。女の子は喜んで、きゃっきゃっと笑ってるわ。
へえ。あの子、おもんっていうんだ。
私は台所の入口で腕組みをし、その様子を見てたわ。
すっごくイライラしてた。
何なのよって思ったわ。ヘンドリックは今、自分が遊女を侍らせている最中だって忘れてるのかしら。
でもそういえば、とも思った。彼には子供がいるんだった。
旦那様の話では、前にいた遊女がヘンドリックの子を産んだっていうことだったもの。
だけどなぜその子が出島にいるのかしらね? 私はてっきり、子供は母親とともに去ったと思ってた。まさか、カピタンのヘンドリックが自ら育ててるわけじゃないわよね?
世間では、跡継ぎのいない家が妾の産んだ子を横取りした、なんて話はよくあるものよ。別に珍しくはないと思う。
その子が男の子なら、ね。
この子は女の子。しかも独身の男が子供を引き取って自分の手で育てるなんて、そんな話は聞いたことないわ。まして母親は遊女よ?
そりゃ建前としてはね、奉行所は父親のいない可哀想な子はなるべくいないことにしたいの。だから異人に対し、遊女との間に子ができた場合、日本にいる間は責任をもって養育するよう命じてる。しかも帰国後は、その役割を遊女屋が担うことになってる。
だけどそんな決まり、破ったところで罰則もないのよ? 誰が馬鹿正直に従うかっていうの。
遊女の子なんてねえ、打ち捨てられるのが当たり前よ。たいてい子供のうちから働かされて、ま、男の子ならきつい力仕事をさせられるし、女の子なら最下級の遊女にされるわね。怪我や病気の時も治療は受けられないから、長生きはできないと思った方がいい。
そんな現実を知ってるからこそ、私だって産まないという選択をしてきたの。
だってそうでしょう? 殺してやった方が、その子のためじゃない。
それでも私、とっさに台所に隠れたわ。
ほとんど無意識のうちにそうしてた。
こんな私でも、人間だもの、ちょっとは胸が痛むのよ。少なくともあの子に罪はない。私みたいな女の存在を知らせるべきじゃない。
私は物音を立てないように気を付けてたわ。そうしなければならない自分の身の上を、いささか悲しくは思ったけれど。
そんな私をよそに、ヘンドリックの膝の上にちょこんと乗った女の子は、夢中で何かを報告してたわ。
「Eerder, Muhammad nam de bal en beëindigde omhoog gooien naar de andere kant van de muur(さっき、ムハマッドがボールを取って、壁の向こうに投げてしまったの)」
「おもん」
ヘンドリックは少し厳しい声でその声を遮り、娘を床の上に下ろしたようだった。
「オランダ語、ダメ。日本語、話しなさい」
そのとき少年が突然台所に入ってきて、私とぶつかりそうになった。少年はびっくりしたようにこちらを見てたわ。
「あはっ。どうも」
私はぎこちなく、片手を上げるしかなかったわ。
「ゆうべも会ったわね」
すると少年の方もニっと白い歯を見せるの。これまた日本人とは少し風貌が異なるけれど、浅黒い肌の、とても可愛らしい男の子だった。
彼は自分の胸を指し、ムハマッドって名乗ったわ。
私はムハマッドにかなりの親近感を覚えた。よく分からないけど、オランダ人よりはずっと日本人に近い感じがする。
しかもこの子、すごく美しい布をまとってるじゃない?
「ね、ちょっと見せて」
私は彼の着物のひだを、少し広げさせてもらった。
緻密な
「素敵な着物ね、ムハマッド」
ムハマッドもまた、私の言葉が少しわかるらしくて、誇らしげにうなずいた。
「Ini adalah batik(これはバティックです)」
う〜ん、悪いけど聞き取れなかった。でもこの布に名称があることは分かったわ。
南方の布。藍と茶の華麗な生地が、これまた異国の風を運んでくる。
ムハマッドは、私が先ほど放置した茶器を手慣れた所作で並べ替えた。
その手際の良さに感心したわ。さすが、オランダ人への仕え方をよく知ってるわね。
私がじっと少年の手つきを見ていると、ムハマッドも落ち着かないのか、肩をすくめて笑いかけてきたわ。
まだ十代前半でしょうね。いかにも純朴そうなその笑顔を見てると、この子を奴隷と呼ぶにはあまりに痛々しくて、私は何となく目を背けちゃった。
確かに、私たちだって金銭で贖われる身よ。
だけど遊女には、まだ年季が明けるという希望があるもの。いつの日か借金から解放されて、自分の好きな人と一緒に暮らす。そんな楽しい夢を見るぐらいはできるもの。
南国の、この少年の人生はどうなのかしら。将来、自分の意志で人生を切り開ける日が、この子には来るのかしら?
何だか腹立たしくなってきたわ。はっきり言えるのは、オランダ人が残酷な一面を持ってるってことよ。
ヘンドリックという人も、実はまだよく分からない。夕べは優しかったけど、その目の奥に暗い影がよぎることがあるの。
冷たい刃物のようなその目に、私はぞっとする。
遊女はみんな、そういう目に見覚えがあると思う。遊女を折檻する時の旦那様がまさにそんな感じだし、この業界にはそういう人間が多いものよ。
どんなにヘンドリックと仲良くなっても、警戒は解くべきじゃないわね。いつその残酷さが牙を剥くか、またそれが私に向かってくるか、わからないもの。
だいたい彼は、他のオランダ人を差し置いて商館長にまでなった人よ。異例の出世を遂げる人が、ただ優しいだけのはずがないじゃない。
そこまで考えたとき、ヘンドリックが思い出したように私を呼んだ。
「オリオノ!」