第23話 遊女のいさかい

文字数 2,850文字

 笑顔で手を降って見送った後、三人の遊女たちはみるみる真顔になった。
 それで、ほとんど同時に深いため息を付いたの。
「頼むなんて、言われてもね」
 同年輩の遊女、小萩さんが私を代弁するように言ってくれたわ。
 
 小萩さんが今付いているのは、フォールマンさんっていうお武家様。ご身分はとても高いそうで、バタヴィアから海外情勢を伝えるために、今年の夏だけ特別に長崎へ来たんですって。

 つまり商館員と違って、フォールマンさんは長崎にとどまることはないの。来た時の船に再び乗って、季節風とともに南方へ帰っちゃう。もう間もなくのことよ。
 それとともに、小萩さんも御役御免となることがはっきりしてるのよね。

「うちら、どうせこん夏限りの命やけん。船と一緒に、はい、さよならってね」
 ぶっきらぼうに言いつつ、小萩さんは私ともう一人の遊女、桜野さんを見渡した。
「ばってん、おうちらは違うと? もう少し長う置いてもらゆっとかしら」

 確かに私と桜野さんは、それぞれ付いている男が商館長と商館員だし、彼らは夏以降も長崎に残るとは聞いてる。
 でも、見通しは甘くないわ。
「さあ。あまり変わらんて思うばい」
 私は小萩さん以上に乱暴な口調で答えた。

 むしろ私の方が早く追い出されるかもしれないとさえ思ってる。ヘンドリックはあくまで一時的に私を呼んでくれたお客様よ。いつまでもしがみついていい相手じゃない。

 今のところ、ヘンドリックにはまだ気に入られてる。丸山に帰りたくない私としては、これが一日でも長く続きますようにって願ってる。
 でも居続けを許されてるのは、たぶん私がおもんの世話を引き受けてるからね。彼のお仕事がとっても忙しい中で、とりあえず私が重宝だからよね。

 あの冷たい表情は何なのか。ホウゼマンさんの話でも結局よく分からなかった。

 いいえ、それを知るのは怖い気もする。
 もしかしたら、ヘンドリックは私にもう飽きているのかもしれない。そうよ、彼とはもう一月以上になるもの。そろそろ終わったっておかしくないわよね。

 娘の養育係さえ見つかれば、ヘンドリックはいつでも遊女を取り替えられる。それは今日かも明日かもわからない。
 もうさよならだなんて、私は胸が張り裂けそうよ。

 だけど、どうせお払い箱になるんだったら早い方がいいのかもしれない。そうよ、最初からお金で契約した関係じゃない。それ以上のものを期待する方がおかしいのよ。
 お互いに傷つかないうちに、笑顔でさよならした方がいい。ヘンドリックに別れを切り出されたら、私、そう思うことにするわ。

 そのときよ。三人の中で一番若い桜野さんが、意外なことを言い出したの。
「うちは、ゲルリッツと一緒にジャガタラへ来るの」
「は?」
 小萩さんが即座に聞きとがめ、その場がさっと不穏な空気に包まれた。

 なのにこの若い娘はけろりとして続けるの。
「だってうちら、ちゃんと祝言ば上げましたけん。ゲルリッツに帰国の命令ば出たら、うちも付いて来るっとは当たり前やろ?」

 小萩さんと私、無言で目を合わせたわ。小萩さんなんか、眉を吊り上げてものすごく怖い顔をしてる。ちょっとまずい雰囲気になってきた。

 なのに桜野さんは無邪気な顔をして、さらに事態を悪い方へと向かわせた。
「うち、もう丸山には帰らんよ。ずうっとゲルリッツと一緒におるの」

 小萩さんだけじゃない。こんな話を聞いたら、私も心穏やかではいられなかった。
 彼女の言い方から分かったわ。桜野さんはもう遊女勤めから解放されてるのね。つまり書記役のゲルリッツ・スヒンメルさん、この子の借金を肩代わりしてあげたのよ。

 私の中の深いところで激しい砂嵐が巻き起こり、すべてを飲み込んでいくようだった。
 何よこの子、大して頭も良くなさそうなのに、ちゃっかりしてるじゃない!

 分かってるわよ。こういう時って、嫉妬なんかしても仕方がない。今までだって「どうしてこの子が選ばれるの?」ってことは何度もあったわ。

 ただ、思うところはいろいろあるわね。
 まだ若いスヒンメルさんの収入がいくらなのか知らないけど、いかにも気弱そうなあの人、祖国から遠く離れたこの日本で相当に無理をしてるんじゃないかしら。
 
 桜野さんはまだ十代の若さゆえか、自慢などをしたら自分がどう思われるかに考えが及ばないみたい。小萩さんはむっつりと黙りこんでるけど、明らかに機嫌が悪そうよ。しばらくの間、気まずい沈黙が続いちゃった。
「……おめでとう。そいは良かったわね」
 ひとまず私がそう言ったわ。小萩さんが言ってくれないんだもん、しょうがない。

 だけどね。私だって内心、そんなうまいこといくわけないって突っ込みまくりよ。

 これは丸山で聞いた話だけど、異人と遊女とがほとんど夫婦として暮らしていた場合、相手がどうしても連れ帰るの何のと言い出すことはあるみたい。
 もちろんそれは許されないわよ。遊女だけじゃない。すでに子供がいても、その子だって日本を出られないの。

 オランダ商館が平戸にあった古い時代にはわずかな例外があったっていうけれど、長崎に移転してからは一人もなし。オランダ人の相手をした遊女は大勢いるのに、相手にくっついて異国の地へ渡った者は全くいないそうよ。
 桜野さん、簡単に出国を口にしたところを見ると、それを知らないか、あるいは鎖国の厳しさを分かってないのね。

 それまで黙っていた小萩さんが、唐突に別の問いかけをしたわ。
「ばってん、スヒンメルさん、本国にも奥様のおられっとじゃなかね?」
 明らかに棘のある声だったから、桜野さんもじろっと小萩さんを見返した。

 どんどん喧嘩腰になっていく二人の間で、私は参ったなあと思ってた。
 これが同じ京屋の遊女だったら、びしっと言ってやめさせるところなんだけど、彼女たちは違うお店の人だもの。先輩風を吹かせるわけにもいかないわ。
 
 まさに一触即発って感じだったけど、桜野さんは意外と落ち着きはらって答えたわ。
「ゲルリッツは独身じゃけん、ジャガタラまで一緒に行こうてゆう話になっとるの。まだ当分は東方の勤務の続くそうじゃけんね。いつか、本国に帰ることになるやもしれんばってん、そん時はそん時で考えようって」

 すると小萩さんは、急に親切そうな声に切り替えた。
「あらあ。そいは、慎重に考えた方がよかね」
 これがまたチクチクと棘をはらんでるものだから、次は何を言い出すのかってこっちはハラハラしちゃう。

「ほら、あん奴隷たちば見んね」
 陰険なまなざしで彼女が示したのは、浅黒い肌の少年たちだった。

 先ほどおもんが母屋で寝てしまったので、ムハマッドだけはそちらに付き添っているけれど、出島では彼以外にも、こういう男の子たちが何人か働いてるの。今も台の上の玉やら、酒の半分残った杯やら、オランダ人の遊んだ後の片付けをしてる。

 小萩さんは彼らに聞こえそうなほどはっきりと言うのよ。
「あん子たち、若うなくなって、使い物にならんごとなったら、売り飛ばされる運命じゃけん。可哀想なもんよね」

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