第47話 ロシアの脅威

文字数 2,441文字

「フランス語の通訳?」

 僕は机の前で足を組んだまま、唖然として聞き返した。
 最初は冗談で言ってるのかと思った。だけど今年の年番大通詞(おおつうじ)である名村多吉郎(たきちろう)小通詞(こつうじ)の馬場為八郎(ためはちろう)の両氏は、机の向こうでひたすら僕に頭を下げてる。その態度はとてもふざけているようには見えなかったよ。

「無理なお願いとは分かっておりますが、カピタン様にはどうか長年の交流に免じて、ご協力頂きたいのです」
 名村氏がずっと頭を下げたまま話すものだから、僕はようやく姿勢を改めた。
「急にそんなことを言われたって困るよ。僕だってフランス語はそんなに……」

 もごもごと僕は口ごもった。日本人の彼らからすれば、同じヨーロッパの言語じゃないか、話そうと思えば話せるだろって言いたいだろうな。

 というのも、日本に通商を求めてきたロシア使節の男は、何と五ヶ国語に堪能らしいんだ。まったくどういう頭をしてるんだか、語学の天才ってたまにいるんだよな。
 そいつの名前は、ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフというそうだ。

 僕としては、レザノフとやらに言いたいよ。そんなに話せるんなら、何でその五ヶ国語の中にオランダ語が入ってないんだよ!ってさ。
 だけどロシア側は、まさか極東の日本という国との交渉にオランダ語が必要だとは思わなかったらしい。
 
 とにかく向こうには、日本語はもちろんオランダ語を話せる者がなく、日本にはロシア語を話せる者がなく、ではせめてフランス語で、という話になったそうだ。江戸城でこの件が話題になったとき、幕府役人の誰かが「フランス語なら出島のオランダ人が話せるだろう」と言ったそうだが、無茶苦茶な話だよな。

 オランダの立場を言わせてもらうなら、日本という貴重な独占市場に大国ロシアが割り込んで来るのは迷惑だ。さっさと諦めて、帰ってもらいたい。

 だからそういう大事な場面に、介入が可能なオランダ人(って僕だ)の同席が許されるのはありがたいと言うべきかもしれない。
 だけど向こうはロシア皇帝アレクサンドル一世の親書を携えてるっていうから強敵だ。どうもこの仕事は、僕個人の能力を超えてる気がする。

「なあ、二人とも」
 僕は頭を抱える思いで言い返した。
「僕は外交官じゃなくて、一介の商人なんだよ? そんな重たい蓋をかぶれないよ」
 これはオランダ流の、責任を負えませんってやつだ。

「むしろ通訳を職業にしているのは、君たちの方じゃないか。君たちが何とかすべきだ」
 僕が順に指さしたら、名村氏も馬場氏も非常にバツが悪そうな顔をしたよ。

 まったく、と僕は腕組みをした。こんなことだろうと思って、僕はロシア船来航の情報をつかんだ時点でちゃんと幕府に知らせてやったんだよ?
 それもだいぶ前のことだ。日本人よ、準備不足じゃないか。今まで何をしてきたんだ。

 ところがそのときだ。馬場氏がおずおずと一通の手紙を差し出してきた。
「ルスラント(ロシア)側はこんな文書を持参しているのです。本紙はまだレザノフ氏の手元にあるので、これは写しですが……」
 見ると、まさに宛名はこの僕になっている。

 かさかさと、中を開いた。
 それはペテルブルクの駐露オランダ大使からのものだった。

 書いてあったのは、これ以上はないほど不条理かつ非情な命令だ。
 レザノフ氏と親しくし、ロシア使節に便宜を図るように、だってさ。

 ぞっとして、僕は額に片手を当てた。
「……何だよ、これ。僕は逃げられないじゃないか」
 
 大使は、ロシア人の目を恐れているんだろうな。両国の通商を阻止せよとまでは言っていない。ロシアを明確に敵に回すことはしたくないんだ。
 ずるいよ。ロシアが日本市場に割り込んでくることになったら、オランダの国益を損ないかねないって分かっているだろうに、どう転んでも僕に責任を負わせる気だ。

 馬場氏はそんな僕の気持ちを分かってるのかどうか、虫歯持ちの大工のようにぎこちない笑顔を向けてきた。
「カピタンにご同席頂きますのは、正式な日露会談ではなく、その前段階の打ち合わせに過ぎません。さほど発言に気を使う必要はないかと思われますが」

「だからといって、気楽に行けるもんじゃないだろ」
 僕はバサっと手紙を机の上に投げ出した。今度は馬場氏の能天気さの方が、腹立たしくなってくる。
「相手が誰だと思ってんだよ。ロマノフ家だよ? ……って、君たちに言っても分からないか」
 はああ、と僕は深く嘆息した。

 日本の幕府が僕に託そうとしているのは、単なる通訳じゃなかった。日本の事情を知るヨーロッパ人として、日露両国を仲介し、交渉の下地を作ってくれということなんだ。
 筋違いも甚だしいよ。何でこの僕が「葵の御紋」を背負って出ていかなきゃならないんだ。
 
 だけど僕が幕府役人に非協力的と見られれば、オランダのためにならない。それに日本人がこれからの時代はロシア語だ、フランス語だ、なんて言い出すようになったら、それこそ目も当てられない。オランダの権威失墜だ。

「……しょうがないな」
 僕は両手を上げて降参した。
「僕も少しは、植民地の現実を見てきた。だからこそ、思うところがある」

 事情を知らないこの二人には言えないけど、オランダが世界各地でひどいことをしてきたのは確かなんだ。僕はそれについて弁解することはできないし、その資格もないだろう。
 それでも、できることならオランダ人として少しでも贖罪をしたい。

「ヤパンには、ずっと平和で美しい国であって欲しい。この伝統を守って欲しいと心から思うよ」
 そうだ。植民地の血染めの歴史を、この国にはどうか負わないで欲しい。
「僕自身にはルスラントの脅威を止める力などないが、少しでもオランダがお役に立てることがあるなら、わかった。精一杯、やってみるよ」
 
 だけど、と釘を刺して、僕はつかつかと書架の前へ行った。そして二人に出して見せたのは、蘭仏辞書『フランソワ・ハルマ』だ。
「この難しい仕事を、僕にだけ押し付けないでくれ。これから三人でフランス語の猛勉強だ。いいね?」

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