第57話 アリア「ある晴れた日に」

文字数 3,368文字

 苦しくて涙が出てしまったけど、全部吐いたら少し落ち着いたような気がする。

 つたい歩きでフラフラと戸外の水桶の所にたどり着くと、私は何度も口をすすいだ。だけどその柄杓を置いたらもう濡れた口元を拭う余裕はなくて、ただ肩で呼吸をしながら、水滴が垂れていくのを見つめるだけ。

 こんな状態で、カピタン部屋には戻れなかった。
 だってこの妊娠、ヘンドリックに告げてないんだもの。

 私自身はもちろん、自分の体に起きた異変にすぐに気づいたわ。月のものは止まり、とにかく眠くて全身が熱っぽいの。何度も経験してきたことだからそこには驚かなかった。

 ただ、いつも中絶させられてきたから、この先自分の体がどうなっていくのかは知らない。知らないだけに怖いのよ。
 
 産んでいいかって聞いたら、ヘンドリックはもちろんいいって言ってくれると思う。だけど彼はおもん一人で十分苦労してるのよ。もう一人増えるとなったら、やっぱり無理だと思うかもしれない。

 怖くて聞けやしない。
 だいたいこんな傷だらけの体じゃ、無事に産めるのかさえ分からない。流産することだってあるはずよ。

 あともう一日様子を見よう。もう一日経って、何も起こらなければ報告しよう。
 言い訳のようにそう考えて、私はヘンドリックに打ち明けるのをためらってきた。いつまで隠しおおせるかは、すごく心もとないけど。

 今度は花園の入り口に置かれた木の長椅子までたどり着いて、そこにどさりと腰掛けた。まだ目まいがしてるけど、早く落ち着かなくちゃ。
 とにかく、これをやり過ごしてから帰るの。彼に感づかれてはならないもの。

 だけど私が胸に手を当て、必死に深呼吸を繰り返してたその時よ。
 背後で、がさりと足音がしたの。

 びくっと私の全身が震える。
 恐る恐る振り向いたら、まさにヘンドリックがそこに立ってたわ。

 私はすぐに立ち上がろうとしたんだけど、ヘンドリックは両手でそれを押しとどめ、私の横に腰を下ろしてきた。心なしか、表情が強張ってる。

「……大丈夫、か」
「ん。平気」
 私は笑ってうなずいたけど、もちろんそれだけでも必死だったわ。

 ヘンドリックの腕が伸びてきて、私は素直にその胸に顔をうずめた。
 目を閉じて、それから少しだけほっとした。その時になってはじめて、ああそうなのかって思ったわ。

 彼はとっくに気づいてる。言い出せない私の気持ちも分かってる。私の背を支えるその手はどこまでも優しくて、一緒にこの苦しみを背負おうとしてくれているのが伝わってくる。

「……楽しみだ」
 ヘンドドリックは私の髪に顔を半分うずめてそう言ったけど、その声は少し震えてるようだった。彼もまた泣き出しそうになってる。
「オリオノは僕の妻。僕の子を産む。僕はうれしい。何も問題はない」

 少しだけ時を置いて。
 でもはじけるように、私も胸がいっぱいになった。
 産んでいいって、初めて言ってもらった瞬間だった。

 彼の胸に額を押し付けながら、私は全身を震わせる。おののくような、だけど甘美な喜ばしさで、胸が張り裂けそうだった。

 遠い遠い、オランダという国からやってきた、この人の子を産むんだって思った。
 全身が浮き上がってしまいそうな喜び。うつむいた私の目からは涙がまっすぐに落ちていき、それが彼の上着の裾に当たって小さな染みを広げていく。
 長椅子の座面で、私はヘンドリックと指をからめ合った。

 どうして、という思いがほとばしる。
 どうして私たちは海を越えて出会ったんだろう。どうしてこんなにも違う二人が、今ここで人生を交錯させているんだろう。

 答えはどこにもない。だけどこの温かさも、この喜びも、私は自分の体の記憶として刻み付けておきたかった。そうすれば、いつか必ずやってくる別れの後も、この愛を手掛かりに残りの人生を歩んでいけるから。
 
「……蘭語、教えて。ヘンドリック」
 どうしても涙声になってしまうけど、この思いは少しでも伝えたかった。
「生まれてきた時、手紙でみんな、知らせますけん。男やったか、女やったか。ヘンドリックに似とるかどうか。髪の色は、肌の色はどがんやったか」
 
 私はずっとずっと手紙を書き続ける。あなたが世界中のどこにいても、私はこの子のありったけを描写し、あなたに送り続ける。

 そうよ。
 ある晴れた日に、私は子供の手を引いて長崎の丘に登るの。
 そして輝く水平線を指さすの。帆を張った大きな船。翻る三色旗。風のようにこの国へやってくる遠国の人々のことを、私は子供に話すのよ。
 きっと幸せよ。一緒に風に吹かれて、私たちはあなたのことを思ってるわ。

 今、夕刻の風がヘンドリックのまっすぐな髪をサラサラと揺らしてる。
 お腹に宿ったこの子もまた、同じような髪を備えているかもしれないと思う。そしてその子の頭をなでるたび、私はきっと異国の夫の面影を追うんだわ。

「いや待て。違う」
 これだけ言ってもヘンドリックは納得していないのか、私の両肩をつかんで引き離した。
「連れて行くって言うたやろ。僕、ちゃんと子供の顔、見る」

 私は微笑を返すだけ。こういう時って、女の方が覚悟を決められるものなのかしらね。ヘンドリックの言う通りにはならないって分かってる。
「……順調に行ったら、夏の頃、うちはお腹のふとうなっとります。おもんはとにかく、うちは船に乗せてもらえんですやろ」
 おそらくそれが永遠の別れとなる。もう二度と、会うことはないでしょう。

 ヘンドリックも現実の厳しさは分かってて、一度は私の言葉にぐっと沈黙したわ。けれど、それでもなお這い上がろうとするのがこの人だった。
「そうやったとしても、僕、必ず長崎に戻って来る。そん時はカピタンでなくなっとるやもしれんばってん、オリオノの待っとってくれるのなら、必ず戻る。だけん、一年か二年、待って欲しか」

 そうね、と私は曖昧に返し、遠くに目をやった。
 確かにそういうやり方もあるかもしれない。だけどもう、動じることはない。やれるだけのことはやる。結果は誰にも分からない。それだけよ。

 正直、私はそこまで甘い夢を見られなかった。
 手紙を出したって、手紙を乗せたその船が沈むこともあると思う。手紙が無事に届いたとしても、もうその時の彼は変わっていて、その心にまでは届かないかもしれないとも思う。

 それでもいい。
 今ここにある愛が本物ならば、それがすべてだと思うから。

 ヘンドリックとまた抱き合って、私はもう一つの奇跡に気づいたわ。
 自分の体がこんなにも激変してるっていうのに、子の宿った下腹部だけはすごく安定、いいえ安心してる感じがするの。

 以前、そこは常に悲鳴を上げてたわ。怒り狂い、泣き叫んでた。私自身は努めてそれを無視してきたけれど、抑えきれない痛みが何度も何度も込み上げて、私に暗い現実を思い起こさせた。

 今は違う。苦しいのに、体が喜んでる。確固として前に進もうとしてる。
 自分の体がこんなにも産みたがってるとは思わなかった。女の体って、産んで初めてつじつまが合うようにできてるのかしら。

 季節はもう春。オリオン座は西の空に淡く残り、まもなく沈みゆく太陽の光の中に埋没していく。
 代わって夜空に君臨するのは春の星座よ。
 星々は大きくめぐり、私たちをこんなにも祝福してくれる。

 それは紛れもない奇跡だった。だって私の体に宿った命が今、ここに小さく丸まってるんだもの。
 このお腹はこれから、どんどん丸く大きくなっていくんでしょう。太古の昔から続く生命の輪の中に、私も組み入れられていくんでしょう。

 地球は丸いんだよって、これまでいくらヘンドリックが説明してくれても、私は納得できなかった。でも今は全身で理解できる。
 この大地はきっと球の形をしてる。それ以上に自然な形はないと思う。

 誰が何と言おうと、ヘンドリックは、ひねくれもんのおようちがただ一人愛した人よ。
 二人がこの地球上で別々の人生を歩むことになったとしても、私はきっといつまでも、あなたのために祈ってる。あなたの思いが天に通じるよう願ってる。
 そう、三色旗に向かって祈り続けるわ。


(長崎・グラバー園の三浦環像。「ある晴れた日に」は日本人女性が西洋人男性へのありったけの愛をうたう名曲です。YouTubeでは様々なオペラ歌手の声を聞くことができますので、ぜひ!)

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