第71話 ドゥーフ・ハルマ

文字数 2,599文字

 やがてオリオノは赤ん坊を連れて出島に戻り、僕はその子を丈吉(じょうきち)と名付けた。
 丈夫に育つことを、心から願った。

 僕とオリオノは幸せだった。いつまでも幼かったおもんが、弟ができた途端、嬉々として世話をするようになったのは意外だったな。

 だけど平穏な暮らしの中で、一抹の不安は常に抱えていた。
 何しろこの先のことが、まったく読めなかったんだ。日本の事情で国外追放されるのか。あるいはオランダの事情で商館が閉鎖されるのか。どんな理由でも同じだ。自分たちがいつ引き裂かれるのかと、僕たちはいつも心のどこかで怯えていたように思う。

 しかし結果から言うと、思いのほか長く、僕は日本にとどまったんだ。何しろフェートン号事件の後も、十年近く暮らしていたんだから。

 もちろんこれは、僕の希望が通ったという話じゃない。
 本国オランダが、滅茶苦茶だったからだ。この間、通信ですらほぼ途絶えていて、長崎では唐船(からぶね)経由で海外の噂を聞くのが精いっぱいだった。仮に僕たちが帰国したいと思っても、その手段はなかったと言っていいだろう。

 特に大きかったのは、1810年の出来事だ。
 フランス皇帝ナポレオンは、オランダ貴族に迎合し続ける弟のローデウェイクに業を煮やしてホラント王国を廃止、オランダの地をフランスの直轄領とした。ここに、弱体化の一途を辿っていたオランダはついに滅亡したんだ。

 そして東インドに最後に残った植民地も、翌1811年、イギリスによって制圧された。拠点であるバタヴィアを失ったことで、とうとう長崎にオランダ船は一隻も来航しなくなった。
 
 僕たち日本駐在のオランダ人はこれを境に、本国はもちろんバタヴィアとの連絡もまったく絶たれるという異常事態に突入したわけだ。出島商館では生活物資も不足し、僕たちはかつてレオポルド・ラスさんたちが経験したのをはるかに上回る、厳しい冬の時代を迎えた。
 
 だけどこの時にはもう、僕は絶望することすらやめてしまった。今さら日本人との付き合いを避けたって仕方ないだろ? むしろ開き直って、ちょっとでも楽しく交流するよう努めたよ。

 僕は長崎の町のあちこちに足を運んだ。
 鎖国? さあ、幕府の事情なんて、僕にはもう関係ないね。
 むしろいつも助けてくれる長崎の人々のために、僕が今できることをしようと思った。酒造所に行って、ジンやウイスキー、ビールの醸造を試みたのは楽しい経験だったよ。味の評判は今一つだったけどね。

 長崎は、日本各地の文化人が訪れる町でもあった。仙台藩士の国学者、大屋士由(おおやしゆう)氏に招かれて、僕は彼の主催する句会に顔を出したことがある。もちろんオリオノも一緒でね。

 大屋氏は句集『美佐古鮓(みさごずし)』を出すとき、僕の句を入れてくれた。だから僕は最初に俳句を詠んだ西洋人、などと言われることもあるんだ。

 だけど僕が何より力を入れたのは、蘭日辞書の編纂だった。
 オランダ通詞たちの語学力向上のため、少しでも貢献できればとの思いでやり始めた。まったく、これまで日本人は辞書なしでよく勉強したものだと思うよ。

 底本にしたのは、カピタン部屋にあった蘭仏辞書『フランソワ・ハルマ』だ。
 薩摩藩主の島津重豪(しげひで)様は、蘭癖大名としてつとに知られるお方だが、彼が僕の思いに共感してくれたのが大きかった。薩摩藩の資金協力のお陰で、この辞書はできたと言っていい。

 これは後に『ドゥーフ・ハルマ』と名付けられたよ。
 僕の滞日中はA〜Tまでしか完成しなかったんだが、離日後も若手オランダ通詞たちによる編纂は続けられた。完成時には全58巻の大部となり、その後も多くの蘭学者の研究の礎となったそうだ。

 僕にとっての次の大きな事件は、1813年のことだった。
 久々にヨーロッパ船二隻が長崎を訪れたんだ。オランダ人一同は欣喜雀躍して、一旦は受け入れた。僕も翻る三色旗を見て、今度こそオランダ船であって欲しいと切望したよ。

 だけどやっぱり、と言うべきかな。二隻はオランダ船を装ったイギリス船だったんだ。シャーロット号とマリア号という名だった。
 
 二隻は、この頃ジャワの副総督になっていたラッフルズが、長崎のオランダ商館をイギリスの支配下に置こうとして派遣したものだった。フェートン号事件の時ほど騒ぎにはならなかったが、ある意味では、より厄介な相手だったのかもしれない。

 何しろ乗組員の中に、あの軍人フォールマンさんや、かつての僕の上司ワルデナールさんがいたんだ。

 ワルデナールさんは、懐かしさ一杯といった表情で出島のカピタン部屋にやってきたよ。そして十年ぶりに会う僕を、それこそ我が子のように抱きしめてくれた。
「ああ、ヘンドリック。また会えてうれしいよ」

 せっかくの再会なのに、僕は素直に喜べなかった。とにかく警戒心でいっぱいで、笑顔を作ろうとしても引きつってしまうのが自分でも分かったよ。

 そして思った通りというべきか。二人きりになった途端、ワルデナールさんは僕の説得に掛かってきた。
「祖国が再独立を果たすまでの辛抱だ。思い切ってこの商館をエンガラントの手に委ねなさい」
 子供に言い聞かせるかのように、彼はそう言うんだ。
「もう情勢はここまで来てしまったんだ。受け入れるべきだよ。今は他人の手を借りてでも、ネーデルラントの存続を図った方がいい」

 よくよく聞けば、ワルデナールさんはすでにEIC、すなわちイギリス東インド会社に転職してるっていうじゃないか。しかも高給で雇われてる身だってさ。

 ワルデナールさんは僕に顔を寄せてきて、小声で付け足した。
「私に付いてきなさい、ヘンドリック。そうすれば君も同じ待遇を受けられるよう口利きをしてやる」

 あちこち手を広げまくっているEICは、慢性的な人材不足に悩んでるらしい。それこそVOCで経験を積んだ優秀なオランダ人は、喉から手が出るほど欲しいんだってさ。
「なあ、ヘンドリック。君はお利口さんだから分かるだろう?」
 
 ワルデナールさんは、僕がかつて心から敬愛した上司だ。他ならぬこの人を敵に回さねばならないことが悲しかったよ。
「……ええ、よくわかりましたとも、ワルデナールさん」

 静かな怒りとともに、僕は彼を一刺しする。
「ラッフルズがあなたを使者に寄越した、その理由もね」
 
 答えを言おう。
 僕はつかつかと窓辺に寄り、出島の空に翻る旗をまっすぐに指差した。
「ご覧ください。あの誇り高き三色旗を」
 
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