第4話 その先は、丸山

文字数 3,527文字

 見てよ、この、恵比寿屋のうらぶれた佇まい。
 こんな日当たりの悪い、間口二間ほどの小さな店が、私の生まれ育った家なのね。
 改めて見たら、並べられた商品は多くないし、よく見ないと店が開いているのかどうかさえ分からない。
 これじゃ客が来ないのも当然ね。両親を責めるより前に、私にも怠慢なところがあったのかもしれない。

 暖簾をくぐった途端、私は肩を小突かれた。
 叔父さんだわ。何かしら?
「およう。勝手に出歩くなて、あいほど申したとに」
 叔父さんの怒り方が、いつもと違ってるようだった。眼尻がつり上がって、顔が真っ赤になってる。
 
 店の奥を見たら、上がり(かまち)に昨日のお兄さん、彦助さんが腰掛け、煙管(きせる)を吹かしてる。
 昨日より目つきが悪くて、何だか怖かった。父さんと母さんはその奥で悄然と座ってる。
 
 がん、と音がした。叔父さんが拳で店の柱を殴りつけたの。
「おことのやつ、やりおった。嫁盗みじゃ」

 意味が分からない。私は周囲の大人に、順番に視線を走らせた。
 お兄さんだけは何でもないとでも言うように、ふうっと煙を吐き出したわ。
「……相手の職人とやらは、腕っ節の強か奴かね?」
「いいや、そうでもなかばってん」
 叔父さんはぎゅっと顔をしかめた。
「友人らに助っ人ば頼んで、長屋の家ばがっちり守っとる。あいでは無理やり連れ帰ることはできそうになか」
 ほほう、嫁盗みとは考えたな、と彦助さんは感心してる。

 嫁盗みっていうのは長崎に古くから伝わる風習のこと。目当ての娘を駕籠に乗せて強奪し、妻にするっていうの。聞いてるだけでドキドキしちゃうような話でしょ。
 野蛮な風習だって言う人もいるけど、多くの場合、娘の方が恋人に頼んでやってもらうのよ。周囲に結婚を反対された二人が、やむにやまれずって感じでね。でも嫁入り支度を整えられない貧しい家が、そういう体裁をとることもあるんですって。
 
 なぜか一度娘を奪われた家は、奉行所に届けでもしない限り取り戻すことはできないことになってる。だから大抵の場合、しぶしぶながら二人を夫婦にしてやるの。おことと作次郎さんは思いつめた挙句、知り合いを巻き込んで嫁盗みという手に出たのね。

 だけど彦助さんが煙管の雁首から灰を落とし、ため息混じりに立ち上がった時、何だかそれまでとは違う不穏な空気が漂い出したようだった。
「ま、そがんことじゃあ、仕方なか。一人で大目に見てやっけん」

 えっ。今、何て言ったの?
 私は反射的に後ずさったけど、彦助さんはずかずかとこっちへ近づいてきた。
「もう金は受け取ったと。二人分稼ぐには、わいの行くしかなかよ」

 すさまじい力で腕をつかまれた。
 首筋を刃物で撫でられたような気がした。

 まさか、まさかよね? 私だけ丸山に連れて行かれ、名附ではなく正真正銘の女郎にされるなんて、そんなのありえないよね?

「放して!」
 必死に振りほどこうとしたけど、うまくいかなかった。私はすがるように叔父さんを見上げたわ。
 だけど、そこにあった叔父さんの目は、洞穴のように空っぽだったの。
「……わいはどうせ女郎になっとよ。同じことじゃろうが」

 私はその場に凍り付いた。
 信じられない。叔父さんがそんなことを言うなんて。
 だけどこれは事実だった。貧しさというものがどれだけ人を残酷にするか、私はここで思い知ったわ。

「嫌じゃ。行きとうなか。お父しゃん、お母しゃん助けて!」
 私、大きく振りかぶって必死に叫んだわ。だっていくら何でも、姉一人が遊女にされて妹は好きな人の所へお嫁に行けるだなんて、そこまで不公平なことってある?

 だけど父さんは一層頭を低くするだけ。母さんは両手で口元を覆って泣いてる。
「ごめんね、ごめんねえ、おようち」

 誰にも頼れないんだって思った。私は今まで、自分の立場をよく分かってなかったんだわ。
 その直後よ。私は奇跡のように、お兄さんの手をするりと抜け出した。
 あとは外の光に向かって突進するのみよ。とにかく逃げなくちゃって、それだけで頭が一杯だった。

 でもそれはつかの間のことだったの。私は何かに引っかかって、土間にばたんと転んじゃった。
 もちろん、後ろから捕らえられた、ということはすぐに分かったわ。

「おおっとお」
 彦助さんは大仰な声を発し、片手で私の背中をしっかりと取り押さえた。
「頼むけん、大人しゅうせんね。こっちも売り物に傷ばつけとうはないけん」

 母さんのすすり泣きの声が店中に響いている。彦助さんはそれを味方にしたかのように私を助け起こし、こんどは懇々と諭しにかかってきたわ。
「わいの騒げば、親は余計につらかよ。こい以上、家族ば苦しめてどがんすっとね」

 何よ、と私は涙を流しながらつぶやいたわ。
 みんなは一家離散して世間に恥をさらすより、娘一人をこっそり犠牲にする方を選ぶのね? 自分たちだけは安全に暮らしたい。それが本音なのね?

 私は怒りと悲しみとで狂い死にしそうだった。
「みんな、うちのことなんて、どうでんよかでしょ。こん家には、おことちだけいれば十分じゃけん……!」
 そうよ、ずっと前からそうだった。もっと早く、こうなることに気づいて家出でもすべきだったんだ。
 私は仁王立ちをして、思い切り叫んだわ。
「みんな死んじまえ! こがん店のごたっと、潰れっちまえ!」

 ぱん、と私の頬が鳴った。叔父さんの平手打ちが飛んできたの。
「甘ったれんじゃなか。早よ覚悟ば決めんかね!」
 叔父さんもこうなったら容赦なかった。
「わいとて、そがん家にしがみついて生きてきたじゃろうが。何を偉そうに」

 私は震えながら頬を押さえるだけよ。
 私の方が間違ってるって言われた。怒りはまだ収まってないけど、一方でそうなのかもしれないって思った。自らすすんで遊女になるような娘こそ、親孝行で偉いのよ。
 それに叔父さんにしてみれば、血縁であるばかりにずるずると私たちに引きずられちゃったんだもの。その怒りだってもっともかもしれない。

 彦助さんが見かねたのか、そこで間に入ってくれた。
「まあまあ、力ずくは駄目じゃ。こがん場合はじっくり、とくと説得せんば」
 小声で叔父さんに何か言ってるけど、ちゃんと聞こえてるんだから。
 本人が早まって自殺でもしたら元も子もないって。ほんと、馬鹿にしてるわよね。

 だけど彦助さんは抜かりなく、私にも優しく語りかけてきたの。
「なあ、向こうではちゃんと食わしてもらえるし、きれいな着物ば着せてもらって、決して悪うなかよ。みんな、結構楽しんでやっとるけん」
 これにははっとさせられた。

 もちろん私、その程度で納得したわけじゃない。
 でもね、数多くの遊女を見てきたこの人が言うならそうなのかなっていう気もしたの。そうであって欲しいとも思ったの。

 黙ってたら、それが回答になっちゃったみたい。
 私が運命を受け入れた瞬間だった。
 
 彦助さんに付いて外に出たら、近所中に騒ぎが聞こえてたんでしょうね。すっかり人だかりができてたわ。
「まあまあ、かわいそうにねえ」
 そんな声が漏れてくる。同情を装ってるけど、好奇心の方が勝ってるのが分かる。

 へえ。うちの事情、もうバレちゃってるんだ。
 私はうつむいたまま、淡々と思った。
 迷惑よ。どうせ誰も助けてはくれないんでしょ?
 だったらもう見ないでよ!

「さ、行こうか」
 彦助さんはそう促してきた。ぴたっと私の背に張り付いてくるのは、たぶん逃さないという意思表示ね。私はもう自分の人生を好きにはできないんだ。
 私は歯を食いしばり、自暴自棄という感じで足を踏み出した。

 今は固唾を呑んでこっちを見てる人たち。でもどうせみんな、すぐに何事もなかったかのように普段の生活に戻っていくんでしょ。そして今日、恵比寿屋の店先で何を見たのかはきれいさっぱり忘れてしまうのよ。

 今の私の胸にあるのは覚悟じゃなくて、たぎるような怒りだわ。
 こういう冷たい世間のことを、私は絶対に許さない。
 とりわけ、あの裏切り者の妹のことは許さない。
 覚えてなさい。のうのうと生きてられるのも今のうちよ!

「彦助さん」
 私が道を歩きながら挑発的に声をかけたら、彦助さんはうん? と背後で返事をした。
「うち、高う売れる?」
「どうかな」
 ふっと彦助さんが笑ったのがわかった。そこがこの人の腕の見せ所なんだから、何とも言えないんでしょうね。
「ただ、おいの直感やばってん、わいはきっと運の強か女たい。そんな気ぃのすっとよ」
 ふうん、と私は鼻で笑った。運が強かったらこうはなってないでしょって、心の中で突っ込んでみたけど。
 
 良い子はこの先に行っちゃいけないと言われてきたその道に、私はまっすぐに入っていく。
 その先は、丸山。女の苦界と言われる所よ。

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