第76話 丈吉の墓
文字数 1,609文字
シーボルト氏が蘭日辞書を出版すると聞いた時、僕は妙だなと思いました。
彼は医師としての仕事に加え、さまざまな学術調査にいそしんだわけで、辞書の編纂までする余裕はなかったはずです。
それでちょっと調べたんです。帰国した他の元商館員たちの証言などから、氏はやはり僕の残した『ドゥーフ・ハルマ』を使っていたとわかりました。
僕は、出版差し止めを求めて提訴しました。
後で知ったんですが、シーボルト氏ご自身は、写本を貸してくれたフィッセル氏の使用許可を得ていたため盗作という自覚はなかったようです。ただ日本にあった不完全な辞書に自身の手を入れ、より完成度の高い本として世に出そうとした、というのが真相だったようですね。
それでも僕、これだけは譲れませんでした。だって『ドゥーフ・ハルマ』は日本の若手通詞たちと一緒に作り上げた、僕自身の集大成ですから。
僕は日本における自分の功績を主張しなければならなくなり、それで執筆したのが『オランダ獅子士勲章を賜りし出島の元商館長ヘンドリック・ドゥーフの日本回想録』という本です。
裁判所は僕の主張を認めてくれました。完全な勝訴です。
だけどその後、しばらく経ったある日のことですよ。
僕が杖をついて、アムステルダムの石畳の道を前かがみに歩いていると、行く手にすっくと立ちはだかった男がいましてね。
顔を上げたら、シーボルト氏でした。
恨み言をぶつけてくるのかと思いましたが、違いました。
「……私は、またヤパンに行きます。難しいことですが、何年かかってもきっと行きます」
私に挑戦状でも叩きつけるかのように、そう宣言するんですよ。
しかも憎々し気に、こう付け加えました。
「妻子をヤパンに残してきましたから」
要するに、私への嫌味のつもりだったんでしょうね。
長崎のシーボルト氏は医師として、丈吉を何度も診察してくれたそうです。その中で、オリオノの存在も聞いたでしょう。勲章だけもらって、日本の妻子のことを隠している僕を、許しがたいと思っても不思議ではありません。
言い訳のように聞こえるかもしれませんが、隠したというわけではないんですよ。ただ、その時の僕には別の家庭がありましたからね。家族を傷つけたくなかった。有為転変は世の習いというそうですが、まさにそれです。
シーボルト氏の方はさすが、潔い態度でしたね。日本に妻子がいることを公表していました。まことに堂々としたものでした。
育ちが良いだけに、そしてあれだけの賞賛を浴びていただけに、誰にも非難されないとの自信があったのかもしれませんね。結局、彼の方も賞賛ばかりというわけにはいかず、厳しい人々からお前はそれでもキリスト教徒かと言われてしまったようですが。
僕はこの時、シーボルト氏でさえも、再び日本へ行くという希望を叶えるのは簡単なことじゃないんだと初めて気づきました。
お金持ちでも、身分が高くても。そして日本の妻子が生きていても、です。そういう時代だったんです。
それでも僕から見て、彼の若さはまぶしいものでした。
「きっと行けますよ」
僕は微笑を返しました。
「無事に着いたら、どうぞ、長崎の皆さんによろしくお伝え下さい」
日本に僕の子孫は存在しません。道富丈吉は長崎の人々に後見してもらい、約束どおり十五歳で長崎会所の唐物目利 という役職に取り立てて頂いたんですが、間もなく病を得、人々に見守られながら十七歳で他界したそうです。
僕はオランダでその知らせを受け取りました。
ええ、そうです。長崎の通詞たちとは、死ぬまで文通を続けたんですよ。
晧台寺 に丈吉の墓が残っているそうですね。墓石にはヘンドリック・ドゥーフのイニシャル「HD」と、遊女瓜生野の紋である蝶が彫られていると聞きました。
それから、その墓にはオランダ通詞の名村家の墓が隣接しているのだとか。
丈吉の墓の建立に、名村家が尽力してくれたんでしょう。
了
彼は医師としての仕事に加え、さまざまな学術調査にいそしんだわけで、辞書の編纂までする余裕はなかったはずです。
それでちょっと調べたんです。帰国した他の元商館員たちの証言などから、氏はやはり僕の残した『ドゥーフ・ハルマ』を使っていたとわかりました。
僕は、出版差し止めを求めて提訴しました。
後で知ったんですが、シーボルト氏ご自身は、写本を貸してくれたフィッセル氏の使用許可を得ていたため盗作という自覚はなかったようです。ただ日本にあった不完全な辞書に自身の手を入れ、より完成度の高い本として世に出そうとした、というのが真相だったようですね。
それでも僕、これだけは譲れませんでした。だって『ドゥーフ・ハルマ』は日本の若手通詞たちと一緒に作り上げた、僕自身の集大成ですから。
僕は日本における自分の功績を主張しなければならなくなり、それで執筆したのが『オランダ獅子士勲章を賜りし出島の元商館長ヘンドリック・ドゥーフの日本回想録』という本です。
裁判所は僕の主張を認めてくれました。完全な勝訴です。
だけどその後、しばらく経ったある日のことですよ。
僕が杖をついて、アムステルダムの石畳の道を前かがみに歩いていると、行く手にすっくと立ちはだかった男がいましてね。
顔を上げたら、シーボルト氏でした。
恨み言をぶつけてくるのかと思いましたが、違いました。
「……私は、またヤパンに行きます。難しいことですが、何年かかってもきっと行きます」
私に挑戦状でも叩きつけるかのように、そう宣言するんですよ。
しかも憎々し気に、こう付け加えました。
「妻子をヤパンに残してきましたから」
要するに、私への嫌味のつもりだったんでしょうね。
長崎のシーボルト氏は医師として、丈吉を何度も診察してくれたそうです。その中で、オリオノの存在も聞いたでしょう。勲章だけもらって、日本の妻子のことを隠している僕を、許しがたいと思っても不思議ではありません。
言い訳のように聞こえるかもしれませんが、隠したというわけではないんですよ。ただ、その時の僕には別の家庭がありましたからね。家族を傷つけたくなかった。有為転変は世の習いというそうですが、まさにそれです。
シーボルト氏の方はさすが、潔い態度でしたね。日本に妻子がいることを公表していました。まことに堂々としたものでした。
育ちが良いだけに、そしてあれだけの賞賛を浴びていただけに、誰にも非難されないとの自信があったのかもしれませんね。結局、彼の方も賞賛ばかりというわけにはいかず、厳しい人々からお前はそれでもキリスト教徒かと言われてしまったようですが。
僕はこの時、シーボルト氏でさえも、再び日本へ行くという希望を叶えるのは簡単なことじゃないんだと初めて気づきました。
お金持ちでも、身分が高くても。そして日本の妻子が生きていても、です。そういう時代だったんです。
それでも僕から見て、彼の若さはまぶしいものでした。
「きっと行けますよ」
僕は微笑を返しました。
「無事に着いたら、どうぞ、長崎の皆さんによろしくお伝え下さい」
日本に僕の子孫は存在しません。道富丈吉は長崎の人々に後見してもらい、約束どおり十五歳で長崎会所の
僕はオランダでその知らせを受け取りました。
ええ、そうです。長崎の通詞たちとは、死ぬまで文通を続けたんですよ。
それから、その墓にはオランダ通詞の名村家の墓が隣接しているのだとか。
丈吉の墓の建立に、名村家が尽力してくれたんでしょう。
了