第8話 髭の軍神
文字数 3,091文字
地元で遊女稼業をすることの問題点は、もう一つある。
以前からの知り合いに会ってしまうことよ。
あるとき丸山の一角で、オランダ通詞の諸家による宴席が設けられてね。お茶屋に呼ばれた数人の太夫の中に、私も入ってた。
そこで再会しちゃったの。名村多吉郎様と。
こんなことを言うのは恐れ多いんだけど、私の初恋の人よ。
向こうは両刀を腰に差し、立派な裃を身に着けてる。
片や私は苦界に堕ちた身でしょ? もう合わせる顔がないってやつよ。
名村様は私の顔を見て凍りついてたけど、私だってまともな挨拶なんかできなかった。
だけど特別な人なの。かつて恵比寿屋の商いが傾いて、お得意様とのお付き合いがどんどん少なくなっていった時、うちは名村様におすがりするような立場だった。何かしがらみがあったわけでもないのに、名村様だけはいいお客様でいてくれたのよ。うちの父、徳兵衛の目利きを、すごく信頼して下さってたの。
御用を承って父がお屋敷を訪問することが多かったけど、名村様ご自身がわざわざご来店され、商品を買い上げて下さることもあったわ。
そのとき名村様はたぶん、土井家の中で私が孤立してることに気づいて下さったのね。私を連れてぜひ遊びに来いと、父に言って下さった。
お言葉に甘えて、私たち親子はのこのこ出かけて行った。
名村様のご自宅は長崎北部の高台にあって、まわりも立派なお屋敷がずらりよ。今の私なら足を踏み入れるのもためらってしまうような地区だけど、子供にはそんなことはわからないもの。とにかく名村様の所へ行けば楽しいと思ってて、私は遠慮なくお邪魔してたわ。
お屋敷は純然たる和風だったけど、名村様はお酒をあまり召し上がらないせいかしら。蘭館で西洋菓子をよくもらってきてて、タルタとかワアフルとか、花カステイラといった異国の甘い香りがあそこではお馴染みだった。
名村様とうちの父がお座敷に飾る道具立てについて話し合ってる間、私は名村家の小さな子供達と並んでちゃっかりとそのお相伴に預かったものよ。食べ終えた後も、親戚の子のような顔をしてお庭で遊んだりしてね。
その私が今、濃い化粧をして男たちの酌をするのを、名村様は悲しそうに見つめてた。
私、他の人たちの褒めそやす言葉から分かったわ。名村様は三十代半ばの今、すでに最高位である大通詞にまで出世してるんだって。
もっともよね。名村家はオランダ通詞の家筋の中でも名門だけど、中でも多吉郎様の語学力は幼少期から抜群だって言われてたもの。
あまりにその経歴が立派で、私は名村様を直視できなかった。
でも、一方で誇らしかった。遊女になった私はどうせろくな人生を歩めないでしょうけど、こんなすごい人と接点を持っていたのよ。それだけでうれしいってもんじゃないの。
でも名村様の方は、何だか落ち着かない態度だった。私を伴って別室に移ったとき、寝所に誘おうとする私をやんわりと拒絶したの。
「今日はどがんしても断りきれんで、付き合いて思うて来ただけやけん」
名村様は明らかに、私とおかしな雰囲気になる前に逃げ出そうとなさってたわ。
「おようちの元気そうで良かった。こいは取っておけ」
花代だけくれようとするの。しかもおようち、なんて、幼児に対するような呼び方を今もして。
私は目を伏せたまま、その手を押し戻した。
寂しかったわ。ああ、触ってももらえないのかって思ったわ。
これまでだって「昔から知っているおじさん」をお客様として迎えねばならない時は何度もあったし、面白がって私の体を弄ぶ人もいたぐらいよ。その時の耐え難さ、不快さを思ったら、今なお凛々しい姿をとどめている名村様は決して嫌じゃなかった。
「名村様。うちのごたっとに遠慮なさることはなかですけん、どうぞ好いとるようになさってくれんね。そいとも、他の女がよければ交代します」
必死に言ってみたけど、いや、と名村様は即座に首を振った。
「とにかく今日は帰る。おようち、元気でな」
やっぱり幼少期から知る私に手をつける気にはなれなかったみたい。刀を腰につけ、そそくさと帰り支度をする名村様を、私は目を伏せたまま手伝うしかなかった。
もうお別れですかって聞きたかった。
できることなら引き止めたかった。今日はこんな風に偶然再会したけれど、次があるかどうか分からないもの。
名村様が玄関を出、提灯を持つお供の中間と落ち合ったところで、私は名残惜しさを抑えられなくなって、その背中に声を掛けたの。
「……名村様、申し訳ありませぬ」
名村様は、まだ全身で警戒しながら振り向いた。
「何じゃ、どがんした、おようち」
「『三国志演義』、ずっと借りっぱなしでしたけん」
名村様、一瞬驚いた顔をなさったわ。だけどすぐに吹き出し、大声でお笑いになった。
「そがんことば気にしとったんか。もうよか。あん本は、おようちにやったつもりじゃったとよ」
だけどね、先ほどの宴席でも、名村様は私の着物に刺繍された関羽を見つめてた。名村様は確かに何かを感じ取り、悲しみの滝に打たれてた。
たぶんご存知なのね。私がどんなにまぶしく名村様を見つめてたか。
もちろん単純に心の中で憧れてただけよ? でも、忍ぶれど色に出にけりってまさにこれのことだと思う。何を言わずとも、にじみ出てたのよね。
だって名村様は、私が普段目にするような町の若者とは段違いだったの。その瞳の奥に広い世界があってね。私は声を聞くだけで震えたの。その知性に少しでも近づきたかったの。
もちろん手の届かない人だった。
私だって分かってたわ。身分が違うだけでなく、名村様には当時すでに妻子がいたんだから。
でも私、そんな名村様のご家族も大好きだったのよね。ご嫡男の元次郎お坊ちゃまなんか、私のことを姉のように慕ってくれて、それこそ実の妹のおことより可愛いかったわ。
奥様は波津様とおっしゃって、それはそれはお美しく、気立ての良いお方なの。私みたいな庶民の娘をいつもあたたかく迎え入れてくれて、お裁縫や何かを教わることもあったわ。
その奥様と、名村様は今でも良い夫婦仲を保っていらっしゃるようだった。
「……実はもうすぐ、また子ぉの生まれるんじゃ。こん年になって恥ずかしかもんじゃばってん」
照れたように話しつつも、名村様は私と目を合わせてくれなかった。
そのまま話し込んだわ。とにかく、三人目とはいえ今回は高齢での出産となるので、波津様の御身が心配なんですって。
「いつになるか分からんけん、ちょっとでも家におってやりたか」
だから、早く帰らなくちゃならないんですって。
やれやれだわ。これで引き止められるわけないじゃない。
私は薄く笑って、ちょっとだけ投げやりに言った。
「そいは、おめでとうございます。どうぞ、元気なお子さんの生まれますように」
自分の言葉がちくちくと胸を刺すようだった。名村様はもともと近しい人じゃなかったけど、それにしてもなんて遠い人になっちゃったんでしょうね。
だけど私、何とか気を取り直して、笑顔で名村様を送り出したわ。
一人で部屋に戻った時、ようやく私は人目を気にせず号泣した。
泣きながら指先で関羽の顔に触れた。自分の人生って何なんだろうって思った。そうよ、この髭の軍神は私にとっての名村様だったの。私は初恋の人を、守り神にしてたのよ。
もちろん、こんな風に引きずるのが愚かだってことも分かってた。名村様も関羽も同じ。どうせ別の世界に暮らす人なのよ。現実の私のことは決して守ってはくれない。
私、黙って濡れた頬を拭ったわ。もうあのお方のことは忘れなくちゃ。
以前からの知り合いに会ってしまうことよ。
あるとき丸山の一角で、オランダ通詞の諸家による宴席が設けられてね。お茶屋に呼ばれた数人の太夫の中に、私も入ってた。
そこで再会しちゃったの。名村多吉郎様と。
こんなことを言うのは恐れ多いんだけど、私の初恋の人よ。
向こうは両刀を腰に差し、立派な裃を身に着けてる。
片や私は苦界に堕ちた身でしょ? もう合わせる顔がないってやつよ。
名村様は私の顔を見て凍りついてたけど、私だってまともな挨拶なんかできなかった。
だけど特別な人なの。かつて恵比寿屋の商いが傾いて、お得意様とのお付き合いがどんどん少なくなっていった時、うちは名村様におすがりするような立場だった。何かしがらみがあったわけでもないのに、名村様だけはいいお客様でいてくれたのよ。うちの父、徳兵衛の目利きを、すごく信頼して下さってたの。
御用を承って父がお屋敷を訪問することが多かったけど、名村様ご自身がわざわざご来店され、商品を買い上げて下さることもあったわ。
そのとき名村様はたぶん、土井家の中で私が孤立してることに気づいて下さったのね。私を連れてぜひ遊びに来いと、父に言って下さった。
お言葉に甘えて、私たち親子はのこのこ出かけて行った。
名村様のご自宅は長崎北部の高台にあって、まわりも立派なお屋敷がずらりよ。今の私なら足を踏み入れるのもためらってしまうような地区だけど、子供にはそんなことはわからないもの。とにかく名村様の所へ行けば楽しいと思ってて、私は遠慮なくお邪魔してたわ。
お屋敷は純然たる和風だったけど、名村様はお酒をあまり召し上がらないせいかしら。蘭館で西洋菓子をよくもらってきてて、タルタとかワアフルとか、花カステイラといった異国の甘い香りがあそこではお馴染みだった。
名村様とうちの父がお座敷に飾る道具立てについて話し合ってる間、私は名村家の小さな子供達と並んでちゃっかりとそのお相伴に預かったものよ。食べ終えた後も、親戚の子のような顔をしてお庭で遊んだりしてね。
その私が今、濃い化粧をして男たちの酌をするのを、名村様は悲しそうに見つめてた。
私、他の人たちの褒めそやす言葉から分かったわ。名村様は三十代半ばの今、すでに最高位である大通詞にまで出世してるんだって。
もっともよね。名村家はオランダ通詞の家筋の中でも名門だけど、中でも多吉郎様の語学力は幼少期から抜群だって言われてたもの。
あまりにその経歴が立派で、私は名村様を直視できなかった。
でも、一方で誇らしかった。遊女になった私はどうせろくな人生を歩めないでしょうけど、こんなすごい人と接点を持っていたのよ。それだけでうれしいってもんじゃないの。
でも名村様の方は、何だか落ち着かない態度だった。私を伴って別室に移ったとき、寝所に誘おうとする私をやんわりと拒絶したの。
「今日はどがんしても断りきれんで、付き合いて思うて来ただけやけん」
名村様は明らかに、私とおかしな雰囲気になる前に逃げ出そうとなさってたわ。
「おようちの元気そうで良かった。こいは取っておけ」
花代だけくれようとするの。しかもおようち、なんて、幼児に対するような呼び方を今もして。
私は目を伏せたまま、その手を押し戻した。
寂しかったわ。ああ、触ってももらえないのかって思ったわ。
これまでだって「昔から知っているおじさん」をお客様として迎えねばならない時は何度もあったし、面白がって私の体を弄ぶ人もいたぐらいよ。その時の耐え難さ、不快さを思ったら、今なお凛々しい姿をとどめている名村様は決して嫌じゃなかった。
「名村様。うちのごたっとに遠慮なさることはなかですけん、どうぞ好いとるようになさってくれんね。そいとも、他の女がよければ交代します」
必死に言ってみたけど、いや、と名村様は即座に首を振った。
「とにかく今日は帰る。おようち、元気でな」
やっぱり幼少期から知る私に手をつける気にはなれなかったみたい。刀を腰につけ、そそくさと帰り支度をする名村様を、私は目を伏せたまま手伝うしかなかった。
もうお別れですかって聞きたかった。
できることなら引き止めたかった。今日はこんな風に偶然再会したけれど、次があるかどうか分からないもの。
名村様が玄関を出、提灯を持つお供の中間と落ち合ったところで、私は名残惜しさを抑えられなくなって、その背中に声を掛けたの。
「……名村様、申し訳ありませぬ」
名村様は、まだ全身で警戒しながら振り向いた。
「何じゃ、どがんした、おようち」
「『三国志演義』、ずっと借りっぱなしでしたけん」
名村様、一瞬驚いた顔をなさったわ。だけどすぐに吹き出し、大声でお笑いになった。
「そがんことば気にしとったんか。もうよか。あん本は、おようちにやったつもりじゃったとよ」
だけどね、先ほどの宴席でも、名村様は私の着物に刺繍された関羽を見つめてた。名村様は確かに何かを感じ取り、悲しみの滝に打たれてた。
たぶんご存知なのね。私がどんなにまぶしく名村様を見つめてたか。
もちろん単純に心の中で憧れてただけよ? でも、忍ぶれど色に出にけりってまさにこれのことだと思う。何を言わずとも、にじみ出てたのよね。
だって名村様は、私が普段目にするような町の若者とは段違いだったの。その瞳の奥に広い世界があってね。私は声を聞くだけで震えたの。その知性に少しでも近づきたかったの。
もちろん手の届かない人だった。
私だって分かってたわ。身分が違うだけでなく、名村様には当時すでに妻子がいたんだから。
でも私、そんな名村様のご家族も大好きだったのよね。ご嫡男の元次郎お坊ちゃまなんか、私のことを姉のように慕ってくれて、それこそ実の妹のおことより可愛いかったわ。
奥様は波津様とおっしゃって、それはそれはお美しく、気立ての良いお方なの。私みたいな庶民の娘をいつもあたたかく迎え入れてくれて、お裁縫や何かを教わることもあったわ。
その奥様と、名村様は今でも良い夫婦仲を保っていらっしゃるようだった。
「……実はもうすぐ、また子ぉの生まれるんじゃ。こん年になって恥ずかしかもんじゃばってん」
照れたように話しつつも、名村様は私と目を合わせてくれなかった。
そのまま話し込んだわ。とにかく、三人目とはいえ今回は高齢での出産となるので、波津様の御身が心配なんですって。
「いつになるか分からんけん、ちょっとでも家におってやりたか」
だから、早く帰らなくちゃならないんですって。
やれやれだわ。これで引き止められるわけないじゃない。
私は薄く笑って、ちょっとだけ投げやりに言った。
「そいは、おめでとうございます。どうぞ、元気なお子さんの生まれますように」
自分の言葉がちくちくと胸を刺すようだった。名村様はもともと近しい人じゃなかったけど、それにしてもなんて遠い人になっちゃったんでしょうね。
だけど私、何とか気を取り直して、笑顔で名村様を送り出したわ。
一人で部屋に戻った時、ようやく私は人目を気にせず号泣した。
泣きながら指先で関羽の顔に触れた。自分の人生って何なんだろうって思った。そうよ、この髭の軍神は私にとっての名村様だったの。私は初恋の人を、守り神にしてたのよ。
もちろん、こんな風に引きずるのが愚かだってことも分かってた。名村様も関羽も同じ。どうせ別の世界に暮らす人なのよ。現実の私のことは決して守ってはくれない。
私、黙って濡れた頬を拭ったわ。もうあのお方のことは忘れなくちゃ。