第39話 ジャワ料理を食べながら

文字数 2,790文字

 その後も激務は変わらなかった。

 同僚たちが次々に倒れ、入院を余儀なくされていく。だが仕事は減らないので、残った者には余計にしわ寄せが来てしまう。

 僕はいずれ自分にも同じ運命が降りかかるだろうと思いつつ、どうにか踏みとどまっていた。自分が強いと思ったことは一度もないけど、意外とそこそこの体力はあったということだろうか。

 とはいえ常に意識がもうろうとし、会話の中で相槌を打つ余裕さえないこともしばしばだった。我に返ると、また書類を作成する。早く早く、と僕の頭の中では急き立てる声が常にしている。もう何が何だか分からなくなっているような状態だというのに、僕は力任せに羽ペンを握りしめている。

 ワルデナールさんからは、時折思い出したように手紙が来た。
「語学だけでなく、できればジャワのコーヒーやセイロンの茶葉など、少しでも商品知識を蓄えておきなさい」
 だってさ。その親切はありがたいけど、どこにそんな暇があるのかって言いたいよ。

 ある日そのワルデナールさんが、突然現れた。
 机に向かう僕の肩に、後ろから手を置いたんだ。
「顔色が悪いぞ。大丈夫か」

 夢かうつつか、という感じだったけど、どうやらワルデナールさんは本当にそこにいるみたいだ。ヘンドリック、ヘンドリックと繰り返し僕の名を呼んでいる。

 ああ、バタヴィアに戻って来られたんですね。
 僕はそう答えようとしたんだけど、実際には声も出なかった。目の焦点が合わなくて、彼の像が二つにも三つにもなってしまう。

 ワルデナールさんは即座に部屋の扉を指し示した。
「さ、約束通り外で食事をしよう」

 ちゃんと覚えていてくれたんだ。有難い。
 とは思ったけれど、現実の僕はそれどころじゃなかった。力なく首を振るばかりだ。
「……いえ、まだ仕事が終わっていませんから」
「いいから来い」

 ワルデナールさんは強引だった。他の人間の目など気にする風もなく、僕の手から羽根ペンを取り上げ、二の腕を引っ張る。そうなれば従うしかなかった。

 行った先は、城外で中国系移民向けに現地ジャワ料理を安く提供する店だった。ここならオランダ人が来ないというわけだ。

「いいか。外国に来たら、現地の物を食え。それが体力温存の秘訣だ」
 その言葉通り、ワルデナールさんは発酵した豆や、バナナの葉で包んだ米料理を平気な顔で口に入れていく。しかも船旅の疲れなんて微塵も見せず、ぽんぽんと威勢よく語るんだ。

「砂漠の国でも密林の国でも、傲然と紅茶やサンドウィッチを注文する奴らがいる。出てこないと、ここは非文明国だとか何とか言って騒ぐんだ。だがね、私の知る限り、そういう奴らが真っ先に倒れる。むしろ原住民に学べ。彼らこそ生きる手本だよ」
 久々に人間らしい話を聞いたような気がして、僕は涙が出そうになった。

 ふと、ワルデナールさんなら少しは甘えさせてくれるんじゃないかと思った。
 気づけば僕は、他の人にはとても言えないような弱音を口にしていたよ。
「……僕、要領が悪いんです。優秀な人は次から次へと報告書を完成させるのに、僕ときたら間違ってばかりで、直属の上司に毎日どやされて……」

 僕は泣きたくなった。すっかり自信をなくしてしまった。やっぱり職人の子が商務員になろうなんて無理だったんだろうか。
 アントンがいたら少しは慰め合うこともできたかもしれないけど、今の同僚にそこまで気を許せる相手はいなかった。

「あまり根を詰めるな」
 ワルデナールさんは魔法のように早く食べ終わり、口元を上品に拭いている。
「ヘンドリック、君は真面目で一途だからそう思うのだろうが、報告書なんて間に合わなくてもいいんだよ」

 考えてもみろ、とワルデナールさんは言う。
「本国でのうのうと暮らしている門閥の奴らが、植民地の細かい収支なんていちいち気にすると思うか? どうせ、ろくに読まれもせずに書庫に収められる。過去の記録を取っておくだけの目的なら、送付が来年の船になったところで、別に支障はないだろうが」

 いや、そんな怠慢を許してくれるような職場の雰囲気ではないんですけど。
 僕はそう反論しかけたが、やっぱりその言葉は飲み込んだ。確かに僕は、割り当てられた仕事の意味がよく分かってなかったような気がする。

「ヘンドリック、ここだけの話にしてくれ」
 ワルデナールさんは周囲をさりげなく確認すると、唐突に僕に顔を近づけてきた。

「……会社は末期症状を呈している。たぶん、もうすぐ解散する」
「ええっ」
 あんまり重大な話だから、僕は匙に乗っていた米粒を取り落とした。

「しっ。静かに」
 ワルデナールさんは注意深く、目を周囲に走らせた。
「私も重役会議に出られる身ではないし、詳しいことは分からない。だが経営状態が良くないのは確かだ。バタヴィア市民にも独占貿易の評判はすこぶる悪い」

 バタヴィア市民とは、オランダ本国からの移住民を指す。多くは元VOCの社員だ。彼らは個人貿易に乗り出す機会を欲しているため、喜望峰以東の交易特権がたった一つの会社にしか与えられない現状を以前から批判してるらしい。

 ワルデナールさんは小声で続けた。
「VOCのずさんな会計処理は、本国でも問題視されているんだ。近く、何かが起こるのは間違いない」
 わかりやすく噛み砕いて説明してくれるのが、ワルデナールさんらしいところだった。

 この会社は、黄金時代には本国の株主に信じられないような高配当をばらまいてきた。だが今や植民地を維持する経費すらまかなえず、本国にとっては交付金ばかりを要求する、厄介な代物でしかない。

 本国側は何度も組織改革を試みたものの、会社側の抵抗によって挫折を繰り返してきた。植民地で巨人が勝手に動き回っているようなものだ。
 業を煮やした本国は、ついにVOCを処分した上、植民地は国の直営にすると決定したという。

「ネーデルラントは、この会社の力で世界の覇権を握ってきた。だからこそ今まで会社存続ということで粘ってきたが、もはや限界ではないかということなんだよ」

 ワルデナールさんは背もたれに身を預けて覆い布の外に広がる夜空を見上げたが、僕は逆にもう冷めてしまった料理に目を落とした。

 すんなり納得できてしまうのが、悲しいところだ。
 17世紀に燦然と輝く夏を迎えたオランダは、早くも秋の衰えを通り抜け、今は冬の木枯らしに震えている。僕たち庶民の男は活路をこの会社に求めるしかなかったのに、それさえも消えようとしているのか。

 僕が最後まで食べ終えるのを確認すると、ワルデナールさんは大きくうなずいて立ち上がった。
「とにかく栄養と睡眠だけはしっかり取れ、ヘンドリック。自分の身は自分で守らねばならん。判断力を失うような状況に自分を追い込むな」

 帰り道、僕はワルデナールさんの下で働く奴らが心底羨ましいと思った。こういう上司と一緒なら、気持ちよく働けることだろうな。


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