第51話 文化露寇

文字数 3,065文字

 タミファチローを見送った後も、僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

 考えないようにしようと思っても、つい考えてしまう。地面から湧き出す水のように、不安がじわじわと僕の心を浸していくんだ。

 ずっと引きずってきた、この一抹の不安。僕のことを信じてもらえばもらうほど、その陰は濃くなっていく。
 ああ、オランダ本国の凋落という事実を知った時、あの二人はどれほどがっかりするだろう。想像するだけで僕の周りの空気が青ざめ、みぞおちが冷たくなっていくようだ。
 
 オランダがこの国にやってきたばかりの、はるか昔のことを思う。
 日本は初代国王イエヤスによる、天下泰平が成ったばかりの時代だった。そしてオランダの方もまた、まさに黄金時代の真っ只中。繁栄の階段を登り詰めたところだったんだ。

 当時の日本は、ヨーロッパ諸国による植民地政策に脅威を感じ、日本人の奴隷化を懸念していたようだ。ポルトガルはキリスト教の布教という美しい理念の背後で、そうした危険を運んでくる厄介な国だった。幕府ができるだけ早く追放したいと考えたのも当然だと思う。
 
 他方、オランダ人はといえば身も蓋もないほど金儲け主義である。他のどんなことより交易のもたらす利益が大切で、日本にはキリスト教の布教をしないと誓っていた。その上ポルトガルと敵対している。幕府にとって大いに利用価値があったんだよな。

 そして、折しも起こった島原の乱だ。
 オランダ人は幕府に命じられるまま、反乱軍の陣地に向かって大砲を撃ちこんだ。

 宗派は違うものの、敵は同じキリスト教徒だった。十字架に向かって、武力行使をしたわけだ。これは恐ろしいことだよ。いくら当時のオランダ人が強欲だったとしても、決して踏みやすい踏み絵ではなかったと思う。

 ヨーロッパ中の非難を浴びたこの行動。しかしオランダは幕府の圧倒的な信頼を勝ち取った。敬虔な日本のキリスト教徒の犠牲の上に、オランダはこの国で特別な地位を手に入れるに至ったわけだ。

 もう二百年も前の話だから、そのことで胸を痛めるかと問われれば、僕としては正直否と答えざるを得ない。

 だけどその後、日本が世界を見る目をオランダ一国に依存してしまったのは、初代国王の意図とかけ離れたものだったんじゃないだろうか?

 いや、僕は密かにそう思ってるよ。だってイエヤスほどの人物なら、一国の繁栄が永遠じゃないことぐらい見抜いてたと思うんだ。

 しかしその後の日本人は彼を「神君」などと呼び、生前に発したその命令を盲目的に守ることに徹してしまった。オランダもそれを良しとして、自分たちに都合の悪いことは一切語らなくなった。

 実はそんな裏の事情を、僕も商館長になって初めて知ったんだよね。それまでは聞いたこともなかった。
 ワルデナールさんからも、引継ぎの時にさんざん言い聞かされたよ。
「日本人は我々を世界帝国だと思うからこそ、大切にしてくれる。彼らが実情を知れば、お前らにはもう来てもらわずとも良いと言い出すだろう。死んでも隠し通せ」

 つまりオランダの凋落は、歴代商館長の間で引き継がれた伝統の秘密というわけなんだ。
 
 タキチローやタミファチローに嘘はつきたくないけど、僕は立場上そうせざるを得ない。
 どんなに日本人と一緒に笑っていても、僕は内心常にハラハラしてる。だって僕の代で日蘭交易が途絶えれば、それは僕の責任だろ?
 
 だけどレザノフ応接の件で、その心配が急に現実の色を帯びてきた。
 あの親切なタミファチローだって、ロシアとのやり取りで何か感じ取れば、態度を豹変させるかもしれない。タキチローは余計にそうだ。
 
 二人に裏切り者呼ばわりされる夢を見ては、僕は真夜中に汗だくで跳ね起きるようになった。いつその時がやってくるかと思うと、気が気ではなかった。

 他のオランダ人の仲間は、詳しいことを知らない。もちろん本国の地位の低下を認識している者はいるし、それを商売相手の日本人には黙っているべきだと本能的に悟ってもいるようだけど、当然ながら責任の重さは商館長の比じゃないもんな。ほとんど他人事だよ。
 僕は一人で悶々としていたと言っていい。
 そしてロシアがやってきてから、半年もの間、それが続いた。
 
 幸い、と言うべきだろうか。幕閣はロシアに対し、国交拒否を貫いてくれた。
 レザノフはさんざん長崎に留め置かれた挙句、例の信牌(しんぱい)も取り上げられ、失意のうちに帰国していったそうだ。
 それを聞いたとき、僕は大きく安堵のため息をついた。レザノフには悪いけど、僕は助かったんだ。これでようやく一つの波を越えたと思った。

 しかし次の波は、すぐに襲ってきた。
 
 去年の暮れから今年の初めにかけて、樺太の松前藩の番所や択捉港の小屋などがロシア人によって放火され、略奪の憂き目に遭ったという。
「おろしや国の報復じゃ……!」
 日本人の多くはそう言っておびえていた。自分たちの冷淡な対応に対し、ロシアが戦争を仕掛けてきたと思ったようだ。
 
 だけど僕には、奇妙に思えた。レザノフがそんな乱暴なことをするとは思えなかったから。
 
 ある日、長崎の奉行所で流れている噂が、僕の元にもたらされた。
 案の定だ。レザノフの部下にニコライ・フヴォストフというチンピラみたいな男がいて、そいつが暴発し、単独で事件を起こしたんだって。

 レザノフがそれを命じたのかどうか、またそれが本気で日本に開国を迫るためだったのかどうかは現時点では定かじゃないけど、とにかくロシアという国による軍事行動じゃなさそうだった。

 しかし当然ながら、幕府としては放置しておけない事件だよな。捕らえられたロシア人は江戸へ護送されたらしいと、これも僕は長崎人の噂で知ったよ。

 そしてここから先が、僕にとって重大な事態だ。
 下手人の聴取をするに当たり、幕府は長崎在住のオランダ通詞、名村多吉郎と馬場為八郎に対し、江戸へ来るよう命じたんだ。先日のフランス語通訳の様子から、彼らはロシア人と話ができると判断されたようだった。
 
 一連の流れを聞いて、僕はぞっとした。
 特にタキチローだ。彼には相手の表情や視線から、様々な情報を読み取る能力がある。北方で大暴れしたロシア人はロシア語しか話さないかもしれないが、たとえそうだったとしても、タキチローは相手と意思の疎通ができてしまうだろう。

 せっかくレザノフをやり過ごしたのに、と僕は心臓が凍り付くような思いがした。
 別のロシア人が、オランダの現状を日本人に知らせてしまうかもしれないじゃないか。オランダの秘密は、ついに白日の下にさらされてしまうんだ。

 しかし江戸へ向かう二人を、僕が止められるわけがなかった。
 わずかな供連れでタキチロー達が旅立つ際、長崎の多くの人々が沿道にまで出、満面の笑みで手を振り、見送っていた。この長崎は、江戸の公方様に頼られるほどの人物を輩出したのだと、その誇りを胸に、皆がその旅立ちを祝していたよ。

 僕も形だけその場に出向いた。オランダ人もまた長崎の人々と同じ空気を吸ってるんだって、そこを商館長として示さなきゃならなかったから。

 だけど、せっかくの華やかな見送りだというのに、情けないな。僕はぽつんと喧噪の外で立ち尽くしてた。タキチローとタミファチローに、道中気をつけろと声をかけることもできなかった。

 匂い立つ梅の香りを楽しむ余裕もなく、底意地の悪さをたたえた春の強風に吹かれながら、僕はその場に動かずにいた。
 そしてただ、小さくなっていく通詞たちの後ろ姿を見送っていたんだ。

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