第74話 遊女の祈り
文字数 3,393文字
オランダ船が完全に絶えたあの頃。
僕も仲間たちも、国外の情勢がほとんどわからなかった。その心細さと言ったら! あれは広大な砂漠か、はたまた大海原の真ん中に置き去りにされたような感覚だったよ。
それまで特別な日に食べていたバターやチーズ、肉といった贅沢を諦めたのはもちろんだが、商館では日常の食事もひどく貧しくなった。食べ物だけじゃない。暖房もない冬の寒さは、敷物を洋服に仕立て直すなどしてどうにか防ぐというみすぼらしさだ。
それでも商館が存在している以上、最低でも賃料などは発生する。日本人に対し、返す当てのない借金は増えに増えていった。
僕はそれをオランダ政府の借金ということにしたが、日本人だって馬鹿じゃない。僕たちが困っていることを察していてね。こちらが頼み事をするたび、何かと嫌味を言われたものだ。
これほどの状況になっても僕に依存し続けてくる人々を、僕は重たく感じるようになった。
生活は荒み、僕は酒に逃げた。酔っていれば不安を忘れられた。
かつてオリオノが酒に依存しているのを知った時、僕は厳しく彼女を叱りつけ、酒瓶を取り上げたものだ。なのに今度は、その僕が酒に溺れてしまうとは。
オリオノはそうやって崩れていく僕を見つめ、黙って唇を噛み締めていた。彼女が内心、悲嘆に暮れているのは分かっていたが、僕の方は話す気にもなれなかった。向こうから声をかけられれば、僕は手を振って彼女を追い払った。
そんな状況に追い打ちをかけるように、おもんが九歳で病死した。
葬儀が終わった後も、僕は連日酔っぱらって机に突っ伏していた。そんなある日、オリオノが幽鬼のような姿で部屋に入ってきて、黙って長椅子に座り込んだんだ。
「うちのような女子ば妻にしたこと、悔いとられますか……?」
つぶやくように言い、彼女はもう枯れたはずの涙をまた流し始めた。
「うち、あん時、丈吉の世話に追われとってな。おもんの異変に気付くのが遅れて……」
自分がおもんを死なせた。ごめんなさい。本当にごめんなさい。
そんなことを言いながら、オリオノは両手で顔を覆っていた。
こんな状況なのに、僕は何も言わなかった。前妻と同じように、オリオノはここを出て行くだろうなと思いながら、それでも言葉が口をついて出てくることはなかったんだ。
もちろん分かっている。おもんの死はオリオノのせいじゃない。誓って言うが、僕が彼女を責めたことは一度もない。
しかし血のつながりがないからこそ、オリオノは余計に気にしたんだと思う。おもんのことをちゃんと見ていなかったんじゃないかと、彼女は必要以上に自分を責めていた。
そして僕もまた娘の死を受け止めきれていなかった。もう気が狂いそうだった。何もかも捨ててここから逃げ出したいと、あの時はそんな思いでいっぱいだったんだ。
僕の沈黙によって、オリオノはもっと傷ついただろう。いよいよ夫婦生活もここまで。その予感はフェートン号事件の時を上回って、彼女の方にもあったはずだ。
しかし驚いた。
彼女は翌日には、けろりとしてまた笑っていたんだ。
片言のオランダ語で打ち沈む商館員たちを励まし、冗談を言い合い、そしてよちよち歩きの丈吉と一緒に何やら車を引いて土を運んでいた。
窓からぼんやりと見下ろして、僕は目を見張った。
花園の一角がいつの間にか畑として耕され、野菜が植えられている。せっせと草むしりをするオリオノのすぐ横で、丈吉が地面にぺたりと座って遊んでいた。
僕は花園に降りていき、その脇に立った。
この国では姉さんかぶりとか言うらしいが、オリオノはオランダの女性と同じように、汚れを防ぐ白い布を頭に巻いていた。その白が、目に突き刺さるほどまぶしく見えた。
「……見事やな」
声をかけると、オリオノはこちらを見上げ、照れくさそうに笑い、汗をぬぐった。頬に土の汚れがついた。
「よかですやろ。こっちがお芋で、こっちは人参ですけん」
その時、僕は卒然と思った。愚かを承知で、でも自分の心に正直に生きよう。
オリオノ、と呼びかけて、彼女のいる土の上に片膝を付く。
「僕は、腹ば決めたとよ」
海上から吹き付ける風のせいで、三色旗は頭上に強くはためいていた。
「僕たちオランダ人は、きっと祖国から見捨てられたまま、ここで死ぬ」
僕は風に吹かれるまま、彼女に語り掛けた。
これから一人、また一人と姿を消していって、やがて全員がいなくなるだろう。だが最後の一人が誰になったとしても、その者の死まで三色旗はあのまま掲揚する。今、そう決めたんだ。
「オランダ人のためだけじゃなか。日本人、ジャワ人、この商館に関わる者みんなが懸命に生きとる。その証拠として、僕は旗を上げたいと思う」
オランダはもう存在していない。つまりこれは幕府の目をあざむくことを意味する。処刑を覚悟の上でやることだ。
オリオノもその点は理解したはずだが、もはや恐れる様子は見せなかった。
「あなたの国は、もうここにあります」
手ぬぐいからはみ出た髪を風になびかせ、オリオノは力強い微笑を向けてきた。
「お気の済むまで戦うてみたらよかです。うち、きっと最後まで見届けます」
オランダは、滅んでなどいなかったのかもしれない。東の果ての、地図上に表せないほど小さな点の姿になったけれども、この出島には間違いなくオランダが存在していた。
みんな、心だけはたくましく生きていた。それこそ荒海に揉まれても沈まぬ巨艦のように、一人一人がそこに立ち、命を燃やしていた。
だがこの事実は本来、世界から忘れ去られ、煙のように消えていくはずだったんだ。祖国の再独立が達成されたがために、偶然すくい上げられたと言えるだろう。
そして商館長の僕は、まるで英雄のように扱われる事態となった。奇跡という他ない。
過ぎ去りし日々の追憶から戻り、僕がふと目を上げると、もうすっかり日が落ち、眠るオリオノの姿はほとんど闇の中に埋もれていた。
新カピタン部屋はフェートン号事件の翌年に新しく建て直しており、出会った頃とは何もかもが異なっている。だが、強い海風が吹き付けて窓掛けの布を揺らしている光景は、はじめてオリオノを呼んだあの日の夜を思わせた。
僕はつめたくなったオリオノを抱き上げると、ゆっくりと露台へ出た。
腰を下ろしたのは、何度も二人で座り、語らった椅子だ。ここにいると、今にもオリオノの笑い声が聞こえてきそうだった。
石垣に打ち付ける波の音が響く。殉教の血の匂いを今なおとどめるかのように、長崎の空はわずかに夕日の色を残している。
それでも流れゆく黒雲の合間には、ちらちらと星が瞬き出してもいた。
「見えるか、オリオノ。今夜も長崎の星はきれいだ」
僕の涙はまっすぐに滴り落ち、青白いオリオノの頬に幾筋もの跡を作る。
返ってこない妻の声の代わりに、強い風が僕の頬に吹き付けてくる。夏が衰え、秋の訪れを感じさせる風の冷たさだった。
これまで握りつぶしてきたはずの、数々の心細さが怒涛のように押し寄せてきて、僕は思わず嗚咽を漏らした。
しかしそれすらすぐに強風に持っていかれてしまう。風はたちまち薄まり、商館の藍鼠色の屋根の上で霧のように拡散していく。
やはり、この愛は永遠ではなかったと言われてしまうんだろうか。
だが僕たちは永遠を願った。人の誠意の、最上の美しさを信じた。
それがすべてではないのか。全力で歩き切った、この人生のひとときこそが愛だったんじゃないのか。
出島の空に掲げる三色旗は新しくなっているが、すべてを見つめていてくれた古い方も、まだ手元に残してある。
オリオノは折に触れ、この三色旗に手を合わせ、祈りをささげていた。何をそんなに祈っていたのか、そういえば僕は一度も聞かなかった。
だが、オランダの再独立という奇跡は起こった。
名もなき一人の遊女の祈りが、天に通じたからではないのか。今の僕にはそんな気がしてならない。だから、僕の十八年に及ぶこの国での生活の記憶とともに、それを彼女の棺の中に納めて行こうと思う。
さようなら、ヤパン。僕の愛した国。
僕は顔を上げたまま号泣した。
風は密林を越え、大量の血を吸った砂浜、各国が覇を競う商館群、おびただしい船を飲み込んできた断崖の海へと広がっていく。
それはいつしか大海原の波濤となり、飛沫となって飛び散っていった。
僕も仲間たちも、国外の情勢がほとんどわからなかった。その心細さと言ったら! あれは広大な砂漠か、はたまた大海原の真ん中に置き去りにされたような感覚だったよ。
それまで特別な日に食べていたバターやチーズ、肉といった贅沢を諦めたのはもちろんだが、商館では日常の食事もひどく貧しくなった。食べ物だけじゃない。暖房もない冬の寒さは、敷物を洋服に仕立て直すなどしてどうにか防ぐというみすぼらしさだ。
それでも商館が存在している以上、最低でも賃料などは発生する。日本人に対し、返す当てのない借金は増えに増えていった。
僕はそれをオランダ政府の借金ということにしたが、日本人だって馬鹿じゃない。僕たちが困っていることを察していてね。こちらが頼み事をするたび、何かと嫌味を言われたものだ。
これほどの状況になっても僕に依存し続けてくる人々を、僕は重たく感じるようになった。
生活は荒み、僕は酒に逃げた。酔っていれば不安を忘れられた。
かつてオリオノが酒に依存しているのを知った時、僕は厳しく彼女を叱りつけ、酒瓶を取り上げたものだ。なのに今度は、その僕が酒に溺れてしまうとは。
オリオノはそうやって崩れていく僕を見つめ、黙って唇を噛み締めていた。彼女が内心、悲嘆に暮れているのは分かっていたが、僕の方は話す気にもなれなかった。向こうから声をかけられれば、僕は手を振って彼女を追い払った。
そんな状況に追い打ちをかけるように、おもんが九歳で病死した。
葬儀が終わった後も、僕は連日酔っぱらって机に突っ伏していた。そんなある日、オリオノが幽鬼のような姿で部屋に入ってきて、黙って長椅子に座り込んだんだ。
「うちのような女子ば妻にしたこと、悔いとられますか……?」
つぶやくように言い、彼女はもう枯れたはずの涙をまた流し始めた。
「うち、あん時、丈吉の世話に追われとってな。おもんの異変に気付くのが遅れて……」
自分がおもんを死なせた。ごめんなさい。本当にごめんなさい。
そんなことを言いながら、オリオノは両手で顔を覆っていた。
こんな状況なのに、僕は何も言わなかった。前妻と同じように、オリオノはここを出て行くだろうなと思いながら、それでも言葉が口をついて出てくることはなかったんだ。
もちろん分かっている。おもんの死はオリオノのせいじゃない。誓って言うが、僕が彼女を責めたことは一度もない。
しかし血のつながりがないからこそ、オリオノは余計に気にしたんだと思う。おもんのことをちゃんと見ていなかったんじゃないかと、彼女は必要以上に自分を責めていた。
そして僕もまた娘の死を受け止めきれていなかった。もう気が狂いそうだった。何もかも捨ててここから逃げ出したいと、あの時はそんな思いでいっぱいだったんだ。
僕の沈黙によって、オリオノはもっと傷ついただろう。いよいよ夫婦生活もここまで。その予感はフェートン号事件の時を上回って、彼女の方にもあったはずだ。
しかし驚いた。
彼女は翌日には、けろりとしてまた笑っていたんだ。
片言のオランダ語で打ち沈む商館員たちを励まし、冗談を言い合い、そしてよちよち歩きの丈吉と一緒に何やら車を引いて土を運んでいた。
窓からぼんやりと見下ろして、僕は目を見張った。
花園の一角がいつの間にか畑として耕され、野菜が植えられている。せっせと草むしりをするオリオノのすぐ横で、丈吉が地面にぺたりと座って遊んでいた。
僕は花園に降りていき、その脇に立った。
この国では姉さんかぶりとか言うらしいが、オリオノはオランダの女性と同じように、汚れを防ぐ白い布を頭に巻いていた。その白が、目に突き刺さるほどまぶしく見えた。
「……見事やな」
声をかけると、オリオノはこちらを見上げ、照れくさそうに笑い、汗をぬぐった。頬に土の汚れがついた。
「よかですやろ。こっちがお芋で、こっちは人参ですけん」
その時、僕は卒然と思った。愚かを承知で、でも自分の心に正直に生きよう。
オリオノ、と呼びかけて、彼女のいる土の上に片膝を付く。
「僕は、腹ば決めたとよ」
海上から吹き付ける風のせいで、三色旗は頭上に強くはためいていた。
「僕たちオランダ人は、きっと祖国から見捨てられたまま、ここで死ぬ」
僕は風に吹かれるまま、彼女に語り掛けた。
これから一人、また一人と姿を消していって、やがて全員がいなくなるだろう。だが最後の一人が誰になったとしても、その者の死まで三色旗はあのまま掲揚する。今、そう決めたんだ。
「オランダ人のためだけじゃなか。日本人、ジャワ人、この商館に関わる者みんなが懸命に生きとる。その証拠として、僕は旗を上げたいと思う」
オランダはもう存在していない。つまりこれは幕府の目をあざむくことを意味する。処刑を覚悟の上でやることだ。
オリオノもその点は理解したはずだが、もはや恐れる様子は見せなかった。
「あなたの国は、もうここにあります」
手ぬぐいからはみ出た髪を風になびかせ、オリオノは力強い微笑を向けてきた。
「お気の済むまで戦うてみたらよかです。うち、きっと最後まで見届けます」
オランダは、滅んでなどいなかったのかもしれない。東の果ての、地図上に表せないほど小さな点の姿になったけれども、この出島には間違いなくオランダが存在していた。
みんな、心だけはたくましく生きていた。それこそ荒海に揉まれても沈まぬ巨艦のように、一人一人がそこに立ち、命を燃やしていた。
だがこの事実は本来、世界から忘れ去られ、煙のように消えていくはずだったんだ。祖国の再独立が達成されたがために、偶然すくい上げられたと言えるだろう。
そして商館長の僕は、まるで英雄のように扱われる事態となった。奇跡という他ない。
過ぎ去りし日々の追憶から戻り、僕がふと目を上げると、もうすっかり日が落ち、眠るオリオノの姿はほとんど闇の中に埋もれていた。
新カピタン部屋はフェートン号事件の翌年に新しく建て直しており、出会った頃とは何もかもが異なっている。だが、強い海風が吹き付けて窓掛けの布を揺らしている光景は、はじめてオリオノを呼んだあの日の夜を思わせた。
僕はつめたくなったオリオノを抱き上げると、ゆっくりと露台へ出た。
腰を下ろしたのは、何度も二人で座り、語らった椅子だ。ここにいると、今にもオリオノの笑い声が聞こえてきそうだった。
石垣に打ち付ける波の音が響く。殉教の血の匂いを今なおとどめるかのように、長崎の空はわずかに夕日の色を残している。
それでも流れゆく黒雲の合間には、ちらちらと星が瞬き出してもいた。
「見えるか、オリオノ。今夜も長崎の星はきれいだ」
僕の涙はまっすぐに滴り落ち、青白いオリオノの頬に幾筋もの跡を作る。
返ってこない妻の声の代わりに、強い風が僕の頬に吹き付けてくる。夏が衰え、秋の訪れを感じさせる風の冷たさだった。
これまで握りつぶしてきたはずの、数々の心細さが怒涛のように押し寄せてきて、僕は思わず嗚咽を漏らした。
しかしそれすらすぐに強風に持っていかれてしまう。風はたちまち薄まり、商館の藍鼠色の屋根の上で霧のように拡散していく。
やはり、この愛は永遠ではなかったと言われてしまうんだろうか。
だが僕たちは永遠を願った。人の誠意の、最上の美しさを信じた。
それがすべてではないのか。全力で歩き切った、この人生のひとときこそが愛だったんじゃないのか。
出島の空に掲げる三色旗は新しくなっているが、すべてを見つめていてくれた古い方も、まだ手元に残してある。
オリオノは折に触れ、この三色旗に手を合わせ、祈りをささげていた。何をそんなに祈っていたのか、そういえば僕は一度も聞かなかった。
だが、オランダの再独立という奇跡は起こった。
名もなき一人の遊女の祈りが、天に通じたからではないのか。今の僕にはそんな気がしてならない。だから、僕の十八年に及ぶこの国での生活の記憶とともに、それを彼女の棺の中に納めて行こうと思う。
さようなら、ヤパン。僕の愛した国。
僕は顔を上げたまま号泣した。
風は密林を越え、大量の血を吸った砂浜、各国が覇を競う商館群、おびただしい船を飲み込んできた断崖の海へと広がっていく。
それはいつしか大海原の波濤となり、飛沫となって飛び散っていった。