第7話 瓜生野誕生
文字数 2,352文字
私が見世女郎、そして太夫にまで駆け上がるのに年数はかからなかった。
あるとき私は旦那様に呼ばれ、こう告げられたのよ。
「瓜生野の名跡を継ぐことば許す」
京屋では瓜生野という名を持つ者が、最も格式の高い遊女とされてるの。だから驚いたし、私なんかでいいのかしらって思ったけど、いつの間にか私はそれだけ店の売り上げに貢献してたみたいね。
いつもは意地悪な女の子たちも、この日だけは私のために喜んでくれたわ。
太夫ともなれば、もう張り見世には出ない。今度は客の指名が入り次第、揚屋や待合茶屋へ派遣されるの。そのとき店の若い衆や禿 を引き連れて、華やかな道中を披露するのよ。
その手の行列を見たことはもちろんあったけど、自分がやってみると思いのほか難しかった。だってあの黒塗り下駄、三枚歯の重たいやつだもん。美しく歩くのは至難の業よ。
私は旦那様や遣り手のおぎんさんに叱られながら、これでもかっていうほど足の運びを練習して、ようやっと本番に臨んだ。
でもいざやってみたら、たちまちその快感を覚えたわ。何しろ町を行く誰も彼もが、この私にあこがれの眼差しを向けてくるんだから。
「見て。当代の瓜生野たい」
「美しかねえ」
私、それらを軽くいなす自分に酔ってさえいたわ。
私に入れあげて、前後の見境をなくす男たちが出てきた。
何人かは、私に身請けをちらつかせたわ。献身的に仕えてくれるなら、金を出してやってもいいって。
そうね、と私は冷ややかに相手を観察した。
当たり前だけど、正式な奥さんにしてもらえるわけじゃない。
この人のお妾さんになってあげてもいいかしら? この人の用意した妾宅に囲われて、この人の訪れを待つだけの日々になってもいいかしら?
たいていの場合、私の結論は「勘弁してよ」だった。
そりゃ目先の遊女奉公から解放されるとなれば、それだけで有難いわ。でもその代わり、その人に何もかも縛られることになる。はっきり言って、私の方は相手にそこまでの魅力を感じてないわけよ。お金だけが問題なら、そのうちもっといい男が現れるんじゃないかって、そう思えて仕方がなかった。
でもね、そうやって足を洗わずにいたら、当然のことながら、この稼業の黒い部分と無縁ではいられなくなってくる。どんなに華やかな日々を送り、笑顔を作っていても、暗い現実は足元にひたひたと忍び寄ってくるわ。
丸山では遊女の外出、外泊はおおらかに認められてるの。お客様がお金さえ出してくれれば遠国に旅行もできるし、遊女たちはほとんど地元出身だから、人によっては実家にちょくちょく帰ってる。
聞けば、吉原や島原の女は幽閉されて籠の鳥だっていうじゃない? だからそれに比べれば、丸山は気楽と言えるのかもしれない。
だけど地元を離れないってことは、地元に縛られ続けることでもあるの。
丸山には家族を養ってる遊女は多いけど、私も例外じゃなかった。母のおすえは、何度も京屋へ金の無心にやって来たわ。私はいつも身綺麗にして空腹でもなかったから、母にしてみれば家族の中で一番楽をしているように見えたんでしょうね。
「お父しゃんが、思わしゅうなくてなあ」
母はそう言ってせびってきたわ。父の薬代が家計に重くのしかかっていること、店は又五郎と自分がどうにか切り盛りしているが、それも危ういこと。妹のおことの所帯はさらに困窮してて、作次郎さんとの間に二人の子供を授かったものの、子供たちには満足に食べさせることもできずにいること。
だから数年の間、私はためらうことなく小引き出しの巾着袋を母に差し出してきたわ。家族がそんなに困ってるなら、どんなことをしてでも助けなきゃって思ったから。
気持ちに余裕にあるうちはそれができたのよ。でもだんだん厳しい現実が見えてくると、話は違ってくる。
先輩たちを見れば明らかだった。どんなに人気のある遊女でも、だいたい十代のうちに絶頂を迎え、その後はじわじわと下がるばかりよ。
そして現実に、私も同じ道をたどりつつあったのよね。
今後はあまり稼げなくなる。そう思うと慎重にならざるを得なかった。こんな風に援助することが、本当に家族のためになるのかってことも、つい考えちゃう。
母は二人の孫が可愛くて仕方がないみたいで、その自慢話をする時はとにかくうれしそうだった。
そしてある日、この私の前で、おことを無邪気に褒めたのよ。
「おことはちゃんと所帯ば持って、子ぉば産んで、ほんとに親孝行な娘たい」
その瞬間、冷ややかな風が私の胸をすり抜けたわ。
この人には分からないのよ。私は結婚や出産といった幸せを全部捨てて働いてるのに。家族のために、心も体も取り返しのつかないほど傷ついているのに。
絶縁した方がいい。その方がお互いのため。
私は決断した。
いつも通り金子を差し出したら、母は形ばかりのためらいを見せつつ、結局押しいただくようにしてお礼を述べた。
ま、これが目的で来たんだから当然よね。
「……ばってん、お母しゃん」
私は後ろめたさを振り切るように、母から目を背けたわ。
「こいが最後じゃけん。もう、ここへは来んでくれんね」
何を意味するかは分かったんでしょうね。母は初めて深刻な顔になって、おろおろと混乱し始めたわ。
「親に向かってもう来るなて、ひどかじゃなかね。なしてそんげんことば言うのね」
「ここはまともな人間の来っとこじゃなか。おようはもう死んだて思うて、忘れてくれんね」
私は母を追い出して、見送ることもなく、ぴしゃりと襖を閉めたわ。
とにかく逃げたかった。身軽になろうと思ったの。
でも不思議ね。
私は解放されるどころか、かえって痛みにも似た苦しみに苛まれることになった。家族を捨てたという事実は、今後もずっと私につきまとうんでしょう。
あるとき私は旦那様に呼ばれ、こう告げられたのよ。
「瓜生野の名跡を継ぐことば許す」
京屋では瓜生野という名を持つ者が、最も格式の高い遊女とされてるの。だから驚いたし、私なんかでいいのかしらって思ったけど、いつの間にか私はそれだけ店の売り上げに貢献してたみたいね。
いつもは意地悪な女の子たちも、この日だけは私のために喜んでくれたわ。
太夫ともなれば、もう張り見世には出ない。今度は客の指名が入り次第、揚屋や待合茶屋へ派遣されるの。そのとき店の若い衆や
その手の行列を見たことはもちろんあったけど、自分がやってみると思いのほか難しかった。だってあの黒塗り下駄、三枚歯の重たいやつだもん。美しく歩くのは至難の業よ。
私は旦那様や遣り手のおぎんさんに叱られながら、これでもかっていうほど足の運びを練習して、ようやっと本番に臨んだ。
でもいざやってみたら、たちまちその快感を覚えたわ。何しろ町を行く誰も彼もが、この私にあこがれの眼差しを向けてくるんだから。
「見て。当代の瓜生野たい」
「美しかねえ」
私、それらを軽くいなす自分に酔ってさえいたわ。
私に入れあげて、前後の見境をなくす男たちが出てきた。
何人かは、私に身請けをちらつかせたわ。献身的に仕えてくれるなら、金を出してやってもいいって。
そうね、と私は冷ややかに相手を観察した。
当たり前だけど、正式な奥さんにしてもらえるわけじゃない。
この人のお妾さんになってあげてもいいかしら? この人の用意した妾宅に囲われて、この人の訪れを待つだけの日々になってもいいかしら?
たいていの場合、私の結論は「勘弁してよ」だった。
そりゃ目先の遊女奉公から解放されるとなれば、それだけで有難いわ。でもその代わり、その人に何もかも縛られることになる。はっきり言って、私の方は相手にそこまでの魅力を感じてないわけよ。お金だけが問題なら、そのうちもっといい男が現れるんじゃないかって、そう思えて仕方がなかった。
でもね、そうやって足を洗わずにいたら、当然のことながら、この稼業の黒い部分と無縁ではいられなくなってくる。どんなに華やかな日々を送り、笑顔を作っていても、暗い現実は足元にひたひたと忍び寄ってくるわ。
丸山では遊女の外出、外泊はおおらかに認められてるの。お客様がお金さえ出してくれれば遠国に旅行もできるし、遊女たちはほとんど地元出身だから、人によっては実家にちょくちょく帰ってる。
聞けば、吉原や島原の女は幽閉されて籠の鳥だっていうじゃない? だからそれに比べれば、丸山は気楽と言えるのかもしれない。
だけど地元を離れないってことは、地元に縛られ続けることでもあるの。
丸山には家族を養ってる遊女は多いけど、私も例外じゃなかった。母のおすえは、何度も京屋へ金の無心にやって来たわ。私はいつも身綺麗にして空腹でもなかったから、母にしてみれば家族の中で一番楽をしているように見えたんでしょうね。
「お父しゃんが、思わしゅうなくてなあ」
母はそう言ってせびってきたわ。父の薬代が家計に重くのしかかっていること、店は又五郎と自分がどうにか切り盛りしているが、それも危ういこと。妹のおことの所帯はさらに困窮してて、作次郎さんとの間に二人の子供を授かったものの、子供たちには満足に食べさせることもできずにいること。
だから数年の間、私はためらうことなく小引き出しの巾着袋を母に差し出してきたわ。家族がそんなに困ってるなら、どんなことをしてでも助けなきゃって思ったから。
気持ちに余裕にあるうちはそれができたのよ。でもだんだん厳しい現実が見えてくると、話は違ってくる。
先輩たちを見れば明らかだった。どんなに人気のある遊女でも、だいたい十代のうちに絶頂を迎え、その後はじわじわと下がるばかりよ。
そして現実に、私も同じ道をたどりつつあったのよね。
今後はあまり稼げなくなる。そう思うと慎重にならざるを得なかった。こんな風に援助することが、本当に家族のためになるのかってことも、つい考えちゃう。
母は二人の孫が可愛くて仕方がないみたいで、その自慢話をする時はとにかくうれしそうだった。
そしてある日、この私の前で、おことを無邪気に褒めたのよ。
「おことはちゃんと所帯ば持って、子ぉば産んで、ほんとに親孝行な娘たい」
その瞬間、冷ややかな風が私の胸をすり抜けたわ。
この人には分からないのよ。私は結婚や出産といった幸せを全部捨てて働いてるのに。家族のために、心も体も取り返しのつかないほど傷ついているのに。
絶縁した方がいい。その方がお互いのため。
私は決断した。
いつも通り金子を差し出したら、母は形ばかりのためらいを見せつつ、結局押しいただくようにしてお礼を述べた。
ま、これが目的で来たんだから当然よね。
「……ばってん、お母しゃん」
私は後ろめたさを振り切るように、母から目を背けたわ。
「こいが最後じゃけん。もう、ここへは来んでくれんね」
何を意味するかは分かったんでしょうね。母は初めて深刻な顔になって、おろおろと混乱し始めたわ。
「親に向かってもう来るなて、ひどかじゃなかね。なしてそんげんことば言うのね」
「ここはまともな人間の来っとこじゃなか。おようはもう死んだて思うて、忘れてくれんね」
私は母を追い出して、見送ることもなく、ぴしゃりと襖を閉めたわ。
とにかく逃げたかった。身軽になろうと思ったの。
でも不思議ね。
私は解放されるどころか、かえって痛みにも似た苦しみに苛まれることになった。家族を捨てたという事実は、今後もずっと私につきまとうんでしょう。