第3話 ひねくれもん

文字数 2,649文字

 だから、そう。そんなに特別なことではないって、私は自分に言い聞かせてる。
 ならばどうして怖がるのかって……?
 うん。そうね。たぶん実際に名附女郎をやった人を見てるからよ。

 近所におまさちゃんっていう、きれいなお姉さんがいたの。しばらくおまさちゃんの顔を見ないと思ってたら、ある日突然大きなお腹を抱えて帰ってきた。
 そして白い肌の赤ん坊を産んだの。それだけで薄気味悪い話よ。しかもその赤ん坊、すぐに死んじゃったみたい。

 その時のおまさちゃんやその家族がどれほど嘆いたか、どれほど苦しんだか。
 私はそれを知らないし、知りたいとも思わない。だけど近所の人は噂好きだもん、ひそひそとやってたわ。嫌でも耳に入ってきたわ。
 その後のおまさちゃんは、すごく遠い所にお嫁に行ったみたいね。たぶん、事情を知らない人たちの所へ行かなくちゃならなかったんだと思う。

 ああ、やっぱり嫌!
 考えただけで鳥肌が立っちゃう。私だってやらずに済むならそうしたいわ。

 本当に、どうしてこんなことになっちゃったんだろうって思う。
 確かに骨董って趣味性の高い商売だし、それで儲けようっていうのは難しいんでしょうね。うちの父は学者肌の頭でっかちな人だし、お店の経営には向いてなかったのかも、と思うこともあるわ。
 それでも景気の良かった頃は、書画の類がよく売れたんですって。私も覚えてるわ。私たち姉妹が小さいころは結構お客さんも来てて、それなりに繁盛してたのよ。

 だけど叔父さんが言うには、寛政の頃のご改革が契機だったって。
 異国との交易が減って、この町の景気はすっかり冷え込んじゃったのね。だから店の経営も厳しくなったみたい。

 それまでみたいに、父が偉い人のお屋敷に出向いて訪問販売することがなくなったの。そこへ追い打ちをかけるように、父は体調を崩してね。今は母が中心となって、店を訪れてくれた客に古道具を売るだけの商いに縮小してる。

 でも、それさえもさっぱり振るわないの。私も大きくなってきてからは店を手伝うようになったけど、その程度で追いつくわけがなかった。土井家は蓄えを切り崩し、借りられる所からは全部借りまくって、どうにか食いつないで来たけれど、もう限界。借金はこれ以上できないし、今は食べ物にも事欠くような有様よ。
 何か思い切ったことをしなければ、一家心中することになる。そう、死ぬことを思えば、ちょっと体を売るぐらいは何でもないはずよ。

 ここに至ってぐずぐず考えてたって仕方ないわよね。
 私たち、ちょっとだけ嫌なお勤めに耐えたらそれで終わるはずよ。大したことないはずよ。今はそう信じて、もう考えないことにする。



 片付け物がようやく終わったと思ったら、もうすっかり夜だった。
 さっきから茶の間ですすり泣きの声がしてる。私は濡れた手を拭きながら、その声にイライラしてる。
 おことったら手伝いもしないで、母さんの膝にすがりついてるのよ。何考えてんのかしら。小さい子じゃないんだから、いつまでも甘えんじゃないって言ってやりたい。

 おことの声は、暗い廊下にも漏れ聞こえてるわ。
「やっぱり、うちは嫌じゃ……作次郎さん、待っとってくれるかどうか、わからんけん」
 あらあら、まだあんなことを言ってる。

 おことはまだ十五歳なのに、呆れたもんよね。新大工町に住む作次郎っていう桶職人とちゃっかり恋仲なの。
 でも母さんも父さんもそれを咎めないの。それどころか相手の若者を気に入って、何やかやと褒めちぎってる。最近までおことをそのまま嫁がせるつもりだったのよ? 
 信じられないわよね。うちはそんな状況じゃないっていうの。

 母さんも母さんよ。おことの背を撫でて、自分も涙を拭ってる。私だって心が折れそうなのは同じなのに、そこはこれっぽっちも考えないんだから。
 ま、どうせこの二人には関係ないんでしょうけど。

 私は黙って二階の自室に上がろうとしたけど、やっぱり足を止めた。
「いつまで泣きようと」
 わざわざ茶の間を覗き込んで、私はおことを怒鳴りつけたわ。
「しょうがなかやろ。うちらは普通に嫁に行けるような身分やなかったんよ」

 妹はわっと声を上げ、余計に激しく泣いちゃった。母さんは怒りの目を向けてくる。
「およう! なしてそがん言い方ばするのね」
 私は答える気にもなれず、二人をにらみつけただけでその場を離れたわ。
 だけどそうやって怒る母さんは、娘の目から見てもまだまだきれいだった。母さんは三十代の後半で、二人の娘はこの通りもう大きくなってるけど、人はそれを知ると驚くのよ。

 でも母さんが愛してるのは、おことだけ。
 きれいな方の娘だけ。
 妹は母さんにすごく似てて、私はそうでもないから。

 父さんも同じよ。ずっとずっと、おことだけを可愛がってきたの。
「お姉ちゃんなんやけん、我慢せい」
「妹に譲ってやれんのか」

 もちろんどこの家でも、多かれ少なかれ兄弟姉妹間の不公平はあるでしょう。そのぐらい我慢すべきだと私も思ってきた。
 でも土井家は特にひどかったの。
 私の性格がひねくれてるのは親のせいよ。いつも素直な妹と比較されて、あいつはひねくれもんじゃ、暗い娘じゃって言われながら大きくなった。
 だからたぶん、この先はもっと虐げられて生きていくことになるんだと思う。
 


 心が沈んでどうしようもない時、私は高台に上がることにしてる。
 長崎の海を眺めると、心の澱が吹き飛んでいくような気がするの。
 ほら見て。唐国の黒い船には、大きな目玉が描かれてるでしょ。あれ、魔よけなんですって。
 夏の間はここから、たくさんの帆を張ったオランダ船も見えるのよ。

 この風景を眺めるだけで、気持ちがふっと楽になるのは不思議よね。
 今までだって苦しくなること、世の中のすべてを否定したくなることは何度もあった。でも、もう耐えきれないと思う時に限って、なぜか遠い異国の風がそれをなだめてくれる。ここが港町で良かった、長崎に生まれて良かったって、その時だけは思えるの。
 
 だけど、次にこの景色を眺めるときには、もう同じようには見えないかもしれない。二度とは戻れない過去を思って、ただ涙するだけなのかもしれない。
 そう思ったら、もうこれ以上見てても仕方がないような気がしてきた。

 もういいわ、今日はこれで帰ろう。
 こんな状況でも、やることは山のようにあるのよね。帰宅後は家事がたまってると思うと、それだけで気分がどんよりする。ほんと家族は頼りないし、私がしっかりしなくちゃ何も回らないんだから。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み