第54話 沈黙

文字数 3,027文字

 なぜ彼女は、オリオンの名を冠して僕の前に現れたんだろう。
 なぜあんなに自信に満ちた目で僕を見るんだろう。

「私が導いてあげます」と言わんばかりの態度で、彼女は理不尽なほどに僕を翻弄する。
 僕は怒りに近いものさえ覚えつつ、それでも彼女の中の奥深くにあるものに耽溺した。そこに確固とした航海図があるように思えてならなかった。
 迷ってばかりのこの僕に、彼女は進むべき方向を示してくれるような気がする。オリオンは、やっぱり僕の羅針盤だったのだと思う。

 そもそも、この国の恋愛作法は不可解だ。
 あれは僕が日本に来て間もない頃だっただろうか、出島乙名(おとな)の誰かが言ってきたんだ。人気のある娼婦は他の客との競合となっているから、同じ女を呼びたければぜひとも恋文を送るべきだって。お前たちが手紙を書けば、自分たちが間違いなくその女に渡してやるって。

 オランダ人一同は、ぽかんと口を開けてその説明を聞いていた。
 意味が分からなかった。極めて個人的な内容のその手紙を通詞たちが読んで、愛のささやきまで逐語訳してしまうんだろうか?
 
 僕たちは仲間内で密かに視線を交わし合い、やがて誰かが遠慮がちに手を上げた。
「……オランダ語で手紙を書いても、当該の女性は読めないのではないですか?」

「そういう問題ではありません」
 乙名はぴしゃりと否定した。
「ヤパンには、愛は手紙で伝えるという伝統があります。あなた方が手紙を出さないと、もうその気がないという意思表示になってしまうばかりか、手紙も書けない、教養のない男だと思われてしまうかもしれません」

 それは深刻な事態であると言わざるを得ない。
 オランダ人同士、顔を見合わせた。

 ところでオランダ人の仲間たちは、日本人の女について概ね慎ましやかであるとの印象を抱いている。要するに、
「恥ずかしそうにしてるから、逆にそそるんだよな」
 だそうである。

 別にそれに対して異論を唱えようというのではないが、なぜか僕に割り当てられる女は自分から男を押し倒し、きゃっきゃっと笑いながら男の体にまたがって脱いでいくような女ばかりだった。
 そういえば一番最初に乙名から「どのような女がお好みですか」と聞かれ、何だか面倒臭いというか、気が進まなくて「別に好みなどない。お任せする」と言ってしまったんだっけ。

 それを思えばオリオノはおとなしい方だったと思う。むしろ淡泊で、何に対しても強い興味を示すようなことはなく、その表情は人形のように冷たく見えることすらあった。
 自分は何も考えてなどいない。感情すら持っていない。そう言っているかのように、黙ってそこに立っている女だ。

 だけど、そうであればこそ、僕はオリオノの力で深い淵に引きずり込まれ、あっけなく溺れてしまったんだ。
 彼女が感情を表に出さないからこそ、僕はその奥に何か神聖で侵しがたいものがあるような気がした。不安であればこそ、その強さにすがり付きたかった。

 狂ったようにオリオノと唇を合わせながら、僕は内心怒り、そして泣いていた。
 だって高い買い物じゃないか。日本は、長崎は、確かにオランダに銅を渡してくれる。だがその代価はバタヴィア船が運んでくる貨物なんかじゃない。遠国から三色旗を掲げてやってきた男の魂なんだ。

 だけど結果として、オリオノは僕を迷いの闇の中から救い上げてくれた。

 僕は前妻に逃げられた後も、娘を死に物狂いで育て、正義感のみで突っ走ってきた。
 だけどやっぱり壁には何度もぶち当たった。子育ては僕が思っていたよりはるかに難しくて、日々体力を消耗するものだったから。

 よくやってるよな、という視線には、同情や共感というより蔑むような色合いが濃いと思う。
 僕はどうしていいかわからなくなった。うまく子育てをしているとは到底言えなかった。これ以上何をどう頑張ったら良いのか、父親としてどこを目指していけばいいのか、どこにも指針などありはしない。

 周囲には同じ問題を抱えている者が見当たらなかった。どの道を選べばいいのか、いや、それ以前に道すら存在しない砂漠や密林へと足を踏み入れてしまったような、心細く頼りない毎日を送っていた。

 オリオノは、ただ一緒に重荷を背負ってくれただけだ。それでも僕の孤独は癒された。状況の悪さはさほど変わらなかったのに、僕は大きく救われたんだ。
 大海原で絶望しかけて、ふと満天の星空に気づいた時のように、僕は確固とした道しるべを見つけることができたのかもしれない。

 そんな彼女と一緒に暮らせば、幸せになれると思った。
 だがその矢先のことだ。

 僕の目の前に、別の問題が立ちはだかった。いや、もともとあった悪い予感が、現実のものとなっただけかもしれない。
 江戸から帰ってきた二人の通詞の様子は、やはりおかしかったんだ。

 タミファチローは少なくとも表面的には、以前と変わらぬ笑顔で僕に接してくれるが、タキチローは明らかによそよそしく、目も合わせてくれなくなっていた。日本という国がまた遠ざかっていくようだった。

 実は離日前のレザノフから、葉巻がもう一箱送られてきていた。まだ手元に残っていたから、僕はそれを口実にタキチローを誘ってみた。
「カピタン部屋に来ないか? 一緒に吸おうよ」
 だけど話にならない。タキチローは何だかんだと理由をつけて、まったく応じてくれなかった。今までと違い、僕と距離を置こうとしてるのが明らかだったよ。

 寂しいとは思ったが、そういう時は仕方がない。去っていく者を追いかけるような真似はしない方がいいと、僕は自分に言い聞かせた。

 ところが、そんなある日のこと。逆にタキチローの方から声をかけてきた。
 気が変わったのかな、と僕はうれしくなったが、すぐにその喜びは消えてしまった。

 タキチローは、日本人の仲間を数人引き連れてたんだ。
「カピタン」
 と不穏な声を彼は発した。羽織袴に二本差しの男たちが、ずらりと僕を取り囲み、冷たい目を向けてくる。

 日本人の仲間に見せつけるかのように、タキチローはオランダ語で僕に迫ってきた。
「中立国の傭船の実態について、正直に語って下さい」

 それはほとんど尋問だった。
 まるで僕一人が彼らの目を欺いてでもきたかのように、タキチローはオランダ側の情報操作を非難してきた。
「もしご公儀への報告に嘘があるなら、その責任はあなたにあります」

 日本人一同の厳しい視線が僕に突き刺さる。
「すでに、江戸のご老中様方も懸念を示しておられます。私の発言はすべてご公儀の意を受けてのことであるとご承知おき下さい」

 もちろん僕は必死に言い返したさ。
「誓って言うが、オランダは一度とて嘘をついたことはないよ。君たちとの取り決め通り、幕府のやり方に従って、長崎に入港させてもらってる」
 ほら、と言って、僕は沖に停泊する船を指さした。
「三色旗を掲げてるだろう? ネーデルラントの船だ。船籍が別の国であっても、乗組員にオランダ人がいれば問題ない。そういう約束じゃないか」

 もちろん、タキチローは何かを見抜いてる。簡単には許してくれなかった。
「明確な虚偽報告がなくとも、黙っているだけで嘘になることもありますよ」

 僕は悲しかった。
 だってこの沈黙は愛の歌なんだ。日本人が絶対的に寄せてくれるその信頼を失いたくないから、黙っているより他ないんだ。

 だが、そんな言い訳は日本人に受け入れられるものではなさそうだった。

 三色旗は、今日も変わらず長崎の空に翻っている。

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