第58話 愚かな願い
文字数 1,963文字
ついに夏が巡ってきた。
なのに、どうしてかしら? オランダ船はまだ来航しない。
長崎中が苛立ってるみたい。まだ来ないのか。いや今日こそ来るんじゃないか。そんなことを言い合って、人々はひたすら水平線に目を凝らしてるわ。
商館内のオランダ人は余計にそうよ。船が来たらすぐに仕事に取り掛かるべく、今か今かと待ち構えてたのに、いつまで経っても来ないんだもの。鬱屈をぶつけ合うかのように、時おり誰かが言い争う声が聞こえてるわ。
ヘンドリックも元気がなくて、ここ数日は珍しく風邪をひいて寝込んでる。
私のせい?
私はせり出してきた腹をさすりながら、激しい後ろめたさと戦ってる。
思い出してるの。気温が上がり、陽射しの量が増してくる頃、長崎の町はどんどん活気づいていくのに、私は逆に打ち沈んでいった。
だってヘンドリックとの別れの日が、刻々と近づいてるんだもの。そうよ、分かってた。覚悟していたわ。だけどいざその時がやってくると思うと、やっぱり悲しみで気が狂いそうだったの。
お腹の子は順調に育ってるようで、威勢よく私のお腹を蹴り上げてくる。私はそのたびに体をさすって、この子の興奮を静めねばならないぐらいよ。
こんなにも命の鼓動は強くなっているというのに、南方から現れるその船は、私の愛する夫を奪いにくる。理不尽で無情なその船を、私は憎まずにいられなかった。
船よ、どうか来ないで。
海に向かってそう念じてしまう自分がいたの。いけないと思いつつ、私は船が嵐で沈没したり、敵国の船に捕まったりすることを願ったわ。
そんな愚かな願いが叶ってしまったのだとしたら、どうしよう。ヘンドリックにも他の皆さんにも、どう謝って良いのか分からない。
おかしい、と商館員たちは騒いでる。
これまでだって船が来ない年はあったそうだけど、今年は来るはずだっていうの。バタヴィアは例年通り船を出す意向だって、唐船経由で知らされてたから。
入れ替わり立ち替わり、誰かが何かを陳情しにカピタン部屋へ来てる。
今日なんか五人も連れだって来てるわ。ヘンドリックだって、どうにもできないのに。
いいえ、皆さんもそのぐらい分かってるはずだけど、カピタンの所には何か情報が来てるんじゃないかと思うのかもしれない。それこそ、すがるような気持ちなのよ。
私も少しはオランダ語が聞き取れるようになってて、詳しいことまでは分からずとも、感じ取れることはたくさんある。
彼らの間にどんな信頼関係が横たわってるのか。何に対して不満を抱いているのか。
ヘンドリックは、仲間の心配を少しでも和らげてあげようと思うんでしょうね。まだ熱があるのに無理して起き出して、うんうんって聞いてあげてるわ。
とにかく辛抱強く付き合ってあげてる。彼がそういう人だって私はもちろん知ってるけど、つらい時にまだ甘えて来ようとする皆さんの態度に、私は横で見ていてイライラしちゃう。
「……バタヴィア沖に敵の船が出没しているのではないかな」
と、ヘンドリックは自分なりの推測を述べてる。
「何か、出航できない理由があるんだろう。途中で難破したり、襲われて沈められたりした場合には、たぶん別の船が知らせてくれると思う。こちらが焦っても仕方がない。もう少し待とう。な?」
これが精一杯の言葉なんだと思う。もうヘンドリックは倒れそうだわ。
いい加減にしてよ。
早く皆さんに帰ってもらいたくて、私は横からにらみつけちゃった。
皆さん、そんな私に辟易したみたいで、納得しかねる顔のまま、ぞろぞろと出て行ったわ。
気を取り直し、私は台所で薬湯を用意する。葛に麻黄 、大棗 に桂枝 。日本のお薬ってオランダ人にも効くのかしら? これで少しでも楽になってくれればいいんだけど。
お盆を持って、もう一度ヘンドリックの机に向かったわ。
頭痛のためか憔悴のためかわからないけれど、ヘンドリックは机の上で頭を抱えてた。責任感で押しつぶされそうになってるのが、私にもわかる。
そうよね。
ヘンドリックの任務は、交易の成果を挙げてオランダに利益をもたらすこと。それができないのなら、彼は日本を去らねばならない。
船は、やっぱり来てもらわねばならないの。なのに私は……。
私はたまらなくなって、お盆を脇へ置き、ヘンドリックの頭を抱きしめたわ。
「ごめんなさい、ヘンドリック」
ん? とヘンドリックはぼんやりした顔を上げた。
「どがんした。なして、オリオノが泣く?」
いつも几帳面なほど身ぎれいにしているヘンドリックなのに、今日はひげを剃る余裕がなかったのね。髪と同じ色の栗色のあごひげが、うっすらと顔を覆ってる。
私は涙に濡れたままの顔を、そのチクチクする頬に寄せたわ。ずっとこうしていられますようにって、叶わぬ願いを彼の肌に沁み込ませるように。
なのに、どうしてかしら? オランダ船はまだ来航しない。
長崎中が苛立ってるみたい。まだ来ないのか。いや今日こそ来るんじゃないか。そんなことを言い合って、人々はひたすら水平線に目を凝らしてるわ。
商館内のオランダ人は余計にそうよ。船が来たらすぐに仕事に取り掛かるべく、今か今かと待ち構えてたのに、いつまで経っても来ないんだもの。鬱屈をぶつけ合うかのように、時おり誰かが言い争う声が聞こえてるわ。
ヘンドリックも元気がなくて、ここ数日は珍しく風邪をひいて寝込んでる。
私のせい?
私はせり出してきた腹をさすりながら、激しい後ろめたさと戦ってる。
思い出してるの。気温が上がり、陽射しの量が増してくる頃、長崎の町はどんどん活気づいていくのに、私は逆に打ち沈んでいった。
だってヘンドリックとの別れの日が、刻々と近づいてるんだもの。そうよ、分かってた。覚悟していたわ。だけどいざその時がやってくると思うと、やっぱり悲しみで気が狂いそうだったの。
お腹の子は順調に育ってるようで、威勢よく私のお腹を蹴り上げてくる。私はそのたびに体をさすって、この子の興奮を静めねばならないぐらいよ。
こんなにも命の鼓動は強くなっているというのに、南方から現れるその船は、私の愛する夫を奪いにくる。理不尽で無情なその船を、私は憎まずにいられなかった。
船よ、どうか来ないで。
海に向かってそう念じてしまう自分がいたの。いけないと思いつつ、私は船が嵐で沈没したり、敵国の船に捕まったりすることを願ったわ。
そんな愚かな願いが叶ってしまったのだとしたら、どうしよう。ヘンドリックにも他の皆さんにも、どう謝って良いのか分からない。
おかしい、と商館員たちは騒いでる。
これまでだって船が来ない年はあったそうだけど、今年は来るはずだっていうの。バタヴィアは例年通り船を出す意向だって、唐船経由で知らされてたから。
入れ替わり立ち替わり、誰かが何かを陳情しにカピタン部屋へ来てる。
今日なんか五人も連れだって来てるわ。ヘンドリックだって、どうにもできないのに。
いいえ、皆さんもそのぐらい分かってるはずだけど、カピタンの所には何か情報が来てるんじゃないかと思うのかもしれない。それこそ、すがるような気持ちなのよ。
私も少しはオランダ語が聞き取れるようになってて、詳しいことまでは分からずとも、感じ取れることはたくさんある。
彼らの間にどんな信頼関係が横たわってるのか。何に対して不満を抱いているのか。
ヘンドリックは、仲間の心配を少しでも和らげてあげようと思うんでしょうね。まだ熱があるのに無理して起き出して、うんうんって聞いてあげてるわ。
とにかく辛抱強く付き合ってあげてる。彼がそういう人だって私はもちろん知ってるけど、つらい時にまだ甘えて来ようとする皆さんの態度に、私は横で見ていてイライラしちゃう。
「……バタヴィア沖に敵の船が出没しているのではないかな」
と、ヘンドリックは自分なりの推測を述べてる。
「何か、出航できない理由があるんだろう。途中で難破したり、襲われて沈められたりした場合には、たぶん別の船が知らせてくれると思う。こちらが焦っても仕方がない。もう少し待とう。な?」
これが精一杯の言葉なんだと思う。もうヘンドリックは倒れそうだわ。
いい加減にしてよ。
早く皆さんに帰ってもらいたくて、私は横からにらみつけちゃった。
皆さん、そんな私に辟易したみたいで、納得しかねる顔のまま、ぞろぞろと出て行ったわ。
気を取り直し、私は台所で薬湯を用意する。葛に
お盆を持って、もう一度ヘンドリックの机に向かったわ。
頭痛のためか憔悴のためかわからないけれど、ヘンドリックは机の上で頭を抱えてた。責任感で押しつぶされそうになってるのが、私にもわかる。
そうよね。
ヘンドリックの任務は、交易の成果を挙げてオランダに利益をもたらすこと。それができないのなら、彼は日本を去らねばならない。
船は、やっぱり来てもらわねばならないの。なのに私は……。
私はたまらなくなって、お盆を脇へ置き、ヘンドリックの頭を抱きしめたわ。
「ごめんなさい、ヘンドリック」
ん? とヘンドリックはぼんやりした顔を上げた。
「どがんした。なして、オリオノが泣く?」
いつも几帳面なほど身ぎれいにしているヘンドリックなのに、今日はひげを剃る余裕がなかったのね。髪と同じ色の栗色のあごひげが、うっすらと顔を覆ってる。
私は涙に濡れたままの顔を、そのチクチクする頬に寄せたわ。ずっとこうしていられますようにって、叶わぬ願いを彼の肌に沁み込ませるように。