第61話 奪われた!

文字数 1,729文字

 それが合図だったのかもしれない。
 次の瞬間、にわかには信じがたいことが起こったんだ。

 異国の男たちが、隠し持っていた剣を抜き放った。そしてこっちが驚く暇もないほど素早く、わあわあと叫びながら僕たちの舟に飛び移ってきた。
 全員、目がギラギラしてて異様な雰囲気だったよ。

「な、何ばすっと!」
 僕は思わず叫んだ。とっさに日本語になってしまったけど、そもそも敵の方が興奮してるんだから聞こえるわけがない。

 僕は敵の一人に突き飛ばされた。情けないけど、櫓を持った水主たちに覆いかぶさるようにして、仰向けに倒れちゃったよ。
 少なくとも転落しなくて良かった。海に落ちたら大変だ。

 もちろん僕は、すぐに顔を上げた。必死に冷静さを保ち、今何が起きているのか把握しようと思ったんだ。

 だけどその直後、息を飲んだ。
 僕の喉元に、剣の切っ先が突きつけられてる!

 とても現実のこととは思えなかった。
 だけど恐ろしいことが、本当に起きてたんだ。

 視界の隅で、ホウゼマンさんが殴る蹴るの暴行を受けてた。大勢の男たちがたった一人を襲うんだから、抵抗なんてできるわけがない。
 いけない、このままじゃホウゼマンさんが殺されちゃうよ。

 僕に剣を突きつけた男も、それを手伝おうとしたのかもしれない。ふっと眼の前からいなくなった。
 おかげで動けるようになったから、僕は船べりに手をかけ、乱闘する集団に向かって叫んだ。
「よせ!」

 もちろんその程度で暴行をやめるような相手じゃない。
 後ろにいた水主たちが助けてくれて、僕はどうにか起き上がった。さっきまで手に持ってた書類はいつの間にかバラバラになって、海面に飛び散ってる。
 
 焦って、おろおろして、僕は辺りを見回した。
 オランダ人の二人は、すでに抱きかかえられて艀の方に移されているところだ。
 
 敵の水兵たちはそれを見極めると、ぴょんぴょんと自分たちの艀に戻っていく。
 ホウゼマンさんは観念したように大人しくうつむいてるけど、若いスヒンメルさんの方はまだ必死に抵抗してるみたいだった。彼の頭から羽付きの帽子が外れて海に落ち、紙と一緒に波間にただよっていく。

 すべてあっという間のことだ。もう、どうしようもなかった。

 他の舟は、一部始終が見えてるはずなのに、何とも言って来ない。騒ぎに気づいていながら、一体何が起きているのか分からないんだろう。

 ああもう、と僕は泣きたくなった。
 大人って普段は威張ってるくせに、どうしていざって時はこうも頼りないんだよ!

 艀が離れていく中、僕は死に物狂いで仲間の舟に叫んだ。
「おーい! 蘭人が奪われた! 助けてくれ!」

 そこで初めて目が覚めたかのように、人々が慌てて動き出すのが見て取れた。
 みんな、助けようと思ってくれたんだろう。こっちの舟に近づこうとしてる。
 いや違う。追いかけるべきは、あっちだろ!

 僕はぐんぐん離れていく敵の艀を指差し、とりあえず自分の舟の船頭に命じたよ。
「あの舟ば追え! 絶対に逃がすな!」

 水主たちはすぐに櫓を手にし、事態をつかんだ船頭も、大音声で掛け声を発した。
「よー、やー、せー」

 この時になってようやく、日本側の舟という舟が全力で漕ぎ出した。何が何でも、オランダ人の二人を取り戻さなくちゃならない。
 僕はまっすぐに前を行く敵を見つめてた。

 これほど水主たちが頑張ってくれているのに、不思議なほど追いつかない。いや、距離を縮めるどころか、敵は信じられない速さで遠ざかっていくんだ。

 船頭はふいに肩の力を抜くと、僕に首を振ってみせた。
「通詞様、無理です。あっちには、縄のつけられとるようですけん」
「そがんことば、言わんでくれ。頼む」
 
 僕が泣き出しそうになってすがってるのに、水主たちはもう追跡を諦め、櫓を置いてしまった。
 こうなったら、僕には何もできない。

 見れば、確かに艀はいち早く本船にたどり着いたようだった。そして新たに下された別の縄も取り付けられ、するすると引き上げられていく。
 
 信じられない思いで、僕は揺れる小舟の縁をつかんでいる。

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