第32話 軍隊か、植民地か
文字数 3,119文字
「早くしろ、ヘンドリック。来ちまうぞ!」
アントンが大きく手を振って、もどかしそうに僕を呼んでいる。
大荷物を持っていた僕はみんなほど早く走れなくて、激しく肩を上下させながらようやく仲間に追いついた。だって立てこもるんなら、最低限の水や食料は必要じゃないか。
「そんな物、いるか?」
「まったくお前は心配症だなあ」
友人たちは僕をさんざん笑い、風車小屋に続々と入っていく。
見物は禁止されていた。
だが少年たちは、禁止事項など破るためにあるものだと思っていた。僕は仲間内でも一番大人しい方だったけど、その僕でさえ羽目を外さずにはいられなかったんだから、十代後半という年頃はそういうものなのかもしれない。
外から見れば、風車小屋の小さな窓から少年たちの顔がぎゅうぎゅうに覗いて、おかしなことになっていたんじゃないだろうか。
僕も正体の分からない興奮に包まれ、胸を高鳴らせていた。歴史的瞬間はもうすぐだった。
かすかに笛や太鼓の音が聞こえ出す。
華やかな騎兵や歩兵の姿が、堤に沿ったオランダの田舎道に現れる。規則正しい足音は、次第に大きくなっていく。
フランスの革命軍だ。
僕は密かに拳を握った。ついに彼らは、オランダの地へやってきたんだ。
数年前、隣国フランスで市民たちが蜂起し、バスティーユの牢獄を襲撃した。
民衆の怒号はたちまちオランダにも波及し、あちこちで小さな衝突が起きた。
不穏な空気だ、と言って村の大人はおびえた顔をしてたよ。
若者は別だ。世の中がひっくり返る予感に、むしろわくわくしてた。
積極的に暴動などには加わらない者も、伝統的な価値観には常に反発していたものだ。友人たちはみんなそろって、親や祖父母の世代から得られる人生訓なんて役に立たないと言ってたよ。
やっと革命軍が来てくれた。そう思って僕らは一部始終を見つめていた。
その長い長い行列は、静まり返った村を通過し、氷を踏みしめてアムステルダムへと入城していった。スケートができるほど運河が結氷しているので、橋を渡る必要すらなかったんだ。
「さあ、新しい時代が始まるぞ!」
アントンがそう言ったのを皮切りに、少年たちは拳を突き上げ、わっと歓声を上げた。歌ったり踊ったりしている奴らもいた。僕も感動で胸がはちきれそうだった。
反抗的な少年たちも、この時だけは周囲の大人の言葉を真に受けていたんだと思う。
村には数人の知識人がいてね、親切に説明してくれるんだ。オランダにも今後は自由主義の風が吹く。フランスの軍隊は憎きオランダの都市貴族、レヘントを倒してくれるだろう。既存の権力は打破され、富は分配されるだろうと。
彼らがやって来た時、誰が国辱だなんて思っただろう。あの時は、多くのオランダ人が明るい未来を思い描いていた。
残念ながら、そうはならなかった。
この時から半年もたたないうちに、僕たちは再び絶望することになる。
オランダはこの時、ジャン=シャルル・ピシュグリュ率いるフランス軍の侵攻に屈し、全市が無血開城させられたんだ。アムステルダムでも親フランス派が政権を握り、総督のオラニエ公ウィレム五世は家族とともにイギリスへ逃亡。ネーデルラント連邦共和国は、バタヴィア共和国と名を変えた。
要するに、オランダはフランスの傀儡国家に成り下がったんだ。まったくあんな喜び方をするなんて、勘違いもいいところだよ。誤った認識をばらまいた人々は、その後すっかりなりをひそめてしまったけどね。
だからレヘントを中心とした門閥特権階級は、その後もしっかりと存続している。
オランダの庶民が厳しい暮らしを強いられているのも同じだ。むしろあれからアッシニアなどという訳の分からない紙幣がフランスから導入されて、オランダの経済は混乱を極め、急上昇した物価に人々は苦しむようになった。
さらに重い税が課せられるようになった。僕らを取り巻く世相は、暗い方へ暗い方へと舵を切るばかりだ。
中でもフランスの軍隊は、僕たちの夢を裏切った一番の張本人だった。
二年後、その軍隊に入るかどうか悩まねばならなくなるなんて、オランダの若者に降りかかるのは何という理不尽な運命だろう。
「どうする?」
僕とアントンは額を突き合わせるようにして、死ぬ気で悩んでいる。
「軍隊か、植民地か」
恐らくどっちも地獄だ。だが、どちらかを選ばねばならない。家を出なければならない次三男にとって、究極の選択だ。
以前はあれほど憧れのまなざしを向けたフランス軍だけど、その実態はひどいものらしかった。
このところ、村では兵士になる若者が続出してる。表向きは自分から志願したことになっていても、実態はそうじゃないってみんな知ってるよ。
彼らはほとんど、帰ってきていない。家族に遺品や髪の毛が届けば良い方だってさ。
事実上この国を掌握しているフランスが、オランダの若者をどう扱っているのか、そこに表れていると言っていいんじゃないだろうか。フランス軍の消耗を防ぐため、オランダ人の戦列歩兵が最前線に行かされ、真っ先に敵の砲弾にやられる。行けば、爆死はほぼ確実だ。
僕も運河で舟を繰り、城内へ織り上がった反物を運ぶことがある。その帰りにヨールダン地区のうらぶれた酒場などに行くと、腕がなくなったり、顔が潰れたりした元兵士がたむろしているのを見かけるんだ。
生き残った者でさえああだ、と思う。
そしてそんな彼らの向こうの壁を見れば、いがみ合っているはずの陸海軍とVOCが仲良く兵士募集の張り紙を並べたりしている。皮肉なもんだよな。
では、植民地行きはどうか。
正直なところ、東インドは遠すぎて、情報が入って来ないんだ。
村の中にもこれまで何人か植民地へと旅立った者はいる。ただそれは、犯罪に手を染めるなど、それなりの理由があった者たちだ。まともな奴が行く所なのかどうかも分からない。
もう頭を抱えたくなるような事態だよね。
かといって、ずっと黙っているわけにもいかず、僕は自分なりの考えを述べてみた。
「ねえアントン。戦争はきっと向こうにもあるよ。ヨーロッパで戦うかインドで戦うかの違いだけなんじゃないか? 植民地から帰って来られる者は、実に三分の一だって聞いたこともある」
だけど声に自信のなさが表れていたのかもしれない。アントンは腕組みをして聞いているだけで、すぐに返事をしなかった。
僕はアントンの家の彼の部屋で椅子に腰掛け、前のめりになって考えている。アントンは逆に窓の外を眺めたり、部屋の中を歩き回ったりと忙しい。
植民地。
僕は改めて、その言葉を頭の中で反芻する。
そこがどんなに遠くとも、感じるものがある。陰気な暴力の匂いはそこはかとなく、いや確かにここまで漂ってきているんだ。
「いや、ヘンドリック。それはちょっと違うんじゃないか」
今になってようやく僕の言葉が耳に届いたらしく、アントンは僕の方を振り返った。
「帰って来ない者が多いのは、向こうの暮らしが気に入って住み着いてしまうからさ」
何か考えがあるらしい。アントンは改めて、僕の目の前の椅子に座り直した。
「もちろん向こうにだって戦争はあるだろう。でも、何も水夫や兵士に志願しようってわけじゃない。おれは商務員の試験を受けようって言ってるんだ」
聞きなれない言葉が出てきて、僕は身を起こした。
「商務員って何?」
「交易とか、徴税をやる奴らだよ。VOCの社員だよ。何だお前、そんなことも知らなかったのか」
アントンは生一本な僕をちょっと責めるような口調だ。
「社内に知り合いがいるんだ。読み書きが一通りできるなら受験させてくれるってさ。この村で出来そうな奴はお前しかいないんだよ」
アントンが大きく手を振って、もどかしそうに僕を呼んでいる。
大荷物を持っていた僕はみんなほど早く走れなくて、激しく肩を上下させながらようやく仲間に追いついた。だって立てこもるんなら、最低限の水や食料は必要じゃないか。
「そんな物、いるか?」
「まったくお前は心配症だなあ」
友人たちは僕をさんざん笑い、風車小屋に続々と入っていく。
見物は禁止されていた。
だが少年たちは、禁止事項など破るためにあるものだと思っていた。僕は仲間内でも一番大人しい方だったけど、その僕でさえ羽目を外さずにはいられなかったんだから、十代後半という年頃はそういうものなのかもしれない。
外から見れば、風車小屋の小さな窓から少年たちの顔がぎゅうぎゅうに覗いて、おかしなことになっていたんじゃないだろうか。
僕も正体の分からない興奮に包まれ、胸を高鳴らせていた。歴史的瞬間はもうすぐだった。
かすかに笛や太鼓の音が聞こえ出す。
華やかな騎兵や歩兵の姿が、堤に沿ったオランダの田舎道に現れる。規則正しい足音は、次第に大きくなっていく。
フランスの革命軍だ。
僕は密かに拳を握った。ついに彼らは、オランダの地へやってきたんだ。
数年前、隣国フランスで市民たちが蜂起し、バスティーユの牢獄を襲撃した。
民衆の怒号はたちまちオランダにも波及し、あちこちで小さな衝突が起きた。
不穏な空気だ、と言って村の大人はおびえた顔をしてたよ。
若者は別だ。世の中がひっくり返る予感に、むしろわくわくしてた。
積極的に暴動などには加わらない者も、伝統的な価値観には常に反発していたものだ。友人たちはみんなそろって、親や祖父母の世代から得られる人生訓なんて役に立たないと言ってたよ。
やっと革命軍が来てくれた。そう思って僕らは一部始終を見つめていた。
その長い長い行列は、静まり返った村を通過し、氷を踏みしめてアムステルダムへと入城していった。スケートができるほど運河が結氷しているので、橋を渡る必要すらなかったんだ。
「さあ、新しい時代が始まるぞ!」
アントンがそう言ったのを皮切りに、少年たちは拳を突き上げ、わっと歓声を上げた。歌ったり踊ったりしている奴らもいた。僕も感動で胸がはちきれそうだった。
反抗的な少年たちも、この時だけは周囲の大人の言葉を真に受けていたんだと思う。
村には数人の知識人がいてね、親切に説明してくれるんだ。オランダにも今後は自由主義の風が吹く。フランスの軍隊は憎きオランダの都市貴族、レヘントを倒してくれるだろう。既存の権力は打破され、富は分配されるだろうと。
彼らがやって来た時、誰が国辱だなんて思っただろう。あの時は、多くのオランダ人が明るい未来を思い描いていた。
残念ながら、そうはならなかった。
この時から半年もたたないうちに、僕たちは再び絶望することになる。
オランダはこの時、ジャン=シャルル・ピシュグリュ率いるフランス軍の侵攻に屈し、全市が無血開城させられたんだ。アムステルダムでも親フランス派が政権を握り、総督のオラニエ公ウィレム五世は家族とともにイギリスへ逃亡。ネーデルラント連邦共和国は、バタヴィア共和国と名を変えた。
要するに、オランダはフランスの傀儡国家に成り下がったんだ。まったくあんな喜び方をするなんて、勘違いもいいところだよ。誤った認識をばらまいた人々は、その後すっかりなりをひそめてしまったけどね。
だからレヘントを中心とした門閥特権階級は、その後もしっかりと存続している。
オランダの庶民が厳しい暮らしを強いられているのも同じだ。むしろあれからアッシニアなどという訳の分からない紙幣がフランスから導入されて、オランダの経済は混乱を極め、急上昇した物価に人々は苦しむようになった。
さらに重い税が課せられるようになった。僕らを取り巻く世相は、暗い方へ暗い方へと舵を切るばかりだ。
中でもフランスの軍隊は、僕たちの夢を裏切った一番の張本人だった。
二年後、その軍隊に入るかどうか悩まねばならなくなるなんて、オランダの若者に降りかかるのは何という理不尽な運命だろう。
「どうする?」
僕とアントンは額を突き合わせるようにして、死ぬ気で悩んでいる。
「軍隊か、植民地か」
恐らくどっちも地獄だ。だが、どちらかを選ばねばならない。家を出なければならない次三男にとって、究極の選択だ。
以前はあれほど憧れのまなざしを向けたフランス軍だけど、その実態はひどいものらしかった。
このところ、村では兵士になる若者が続出してる。表向きは自分から志願したことになっていても、実態はそうじゃないってみんな知ってるよ。
彼らはほとんど、帰ってきていない。家族に遺品や髪の毛が届けば良い方だってさ。
事実上この国を掌握しているフランスが、オランダの若者をどう扱っているのか、そこに表れていると言っていいんじゃないだろうか。フランス軍の消耗を防ぐため、オランダ人の戦列歩兵が最前線に行かされ、真っ先に敵の砲弾にやられる。行けば、爆死はほぼ確実だ。
僕も運河で舟を繰り、城内へ織り上がった反物を運ぶことがある。その帰りにヨールダン地区のうらぶれた酒場などに行くと、腕がなくなったり、顔が潰れたりした元兵士がたむろしているのを見かけるんだ。
生き残った者でさえああだ、と思う。
そしてそんな彼らの向こうの壁を見れば、いがみ合っているはずの陸海軍とVOCが仲良く兵士募集の張り紙を並べたりしている。皮肉なもんだよな。
では、植民地行きはどうか。
正直なところ、東インドは遠すぎて、情報が入って来ないんだ。
村の中にもこれまで何人か植民地へと旅立った者はいる。ただそれは、犯罪に手を染めるなど、それなりの理由があった者たちだ。まともな奴が行く所なのかどうかも分からない。
もう頭を抱えたくなるような事態だよね。
かといって、ずっと黙っているわけにもいかず、僕は自分なりの考えを述べてみた。
「ねえアントン。戦争はきっと向こうにもあるよ。ヨーロッパで戦うかインドで戦うかの違いだけなんじゃないか? 植民地から帰って来られる者は、実に三分の一だって聞いたこともある」
だけど声に自信のなさが表れていたのかもしれない。アントンは腕組みをして聞いているだけで、すぐに返事をしなかった。
僕はアントンの家の彼の部屋で椅子に腰掛け、前のめりになって考えている。アントンは逆に窓の外を眺めたり、部屋の中を歩き回ったりと忙しい。
植民地。
僕は改めて、その言葉を頭の中で反芻する。
そこがどんなに遠くとも、感じるものがある。陰気な暴力の匂いはそこはかとなく、いや確かにここまで漂ってきているんだ。
「いや、ヘンドリック。それはちょっと違うんじゃないか」
今になってようやく僕の言葉が耳に届いたらしく、アントンは僕の方を振り返った。
「帰って来ない者が多いのは、向こうの暮らしが気に入って住み着いてしまうからさ」
何か考えがあるらしい。アントンは改めて、僕の目の前の椅子に座り直した。
「もちろん向こうにだって戦争はあるだろう。でも、何も水夫や兵士に志願しようってわけじゃない。おれは商務員の試験を受けようって言ってるんだ」
聞きなれない言葉が出てきて、僕は身を起こした。
「商務員って何?」
「交易とか、徴税をやる奴らだよ。VOCの社員だよ。何だお前、そんなことも知らなかったのか」
アントンは生一本な僕をちょっと責めるような口調だ。
「社内に知り合いがいるんだ。読み書きが一通りできるなら受験させてくれるってさ。この村で出来そうな奴はお前しかいないんだよ」