第60話 戦艦あらわる
文字数 2,427文字
親船を囲むように、十艘の小早 が順に海に漕ぎ出した。
まもなく僕の乗った舟だけが列を離れ、出島の水門前に近づいていく。
あれ、体調でも悪いのかな? カピタンのヘンドリック・ドゥーフさん、少し厚着をしてるみたいだ。岸壁の石段の上で、いかにも寒そうにして立ってる。
その斜め後ろに商館員のディルク・ホウゼマンさんとゲルリッツ・スヒンメルさんがいる。そうか、この二人が行くんだな。
うちの父、名村多吉郎もその後ろで控えてる。心配なのか、硬い表情だ。
僕が行くことをすでに聞いてたみたいで、オランダ人たちが小早に乗り込む間、僕の方に寄って耳打ちしてきたよ。
「初めてやな。大丈夫か?」
心配をかけたくないから、僕はすぐにうなずいた。
「丸暗記しましたけん、何とか!」
自分の頭を指さして、元気いっぱいに答えたよ。
父はおかしそうにくくっと肩を揺らし、僕にうなずいて見せた。
「ま、もし何かあったとしても、ホウゼマン殿の一緒やけん、大丈夫や。しっかりな」
確かにホウゼマンさんって人は、二ヶ国語を自由に操る熟練商館員で、日本人以上に日本のやり方を分かってるらしい。検使が問題ありと判断した時には、ホウゼマンさんが完璧な日本語で商館と奉行所に知らせてくれる。僕の出番なんか、ないかもしれないよね。
でも僕だってこれまで頑張って練習してきたんだし、去年は伊藤さんに同行して手続きの一部始終を見せてもらったんだ。ちゃんとお役目は果たすよ。
折からの強風で海上には三角波が立ってる。
漕ぎ出される舟はいずれも揺れ続けた。
同じ舟に乗ったオランダ人の二人は、海を眺めながらうれしそうに会話してる。バタヴィアからやってくる乗組員の中で、知り合いは何人いるか、ということを気にしてるみたいだ。
だけど今回もアメリカの傭船だとしたら、オランダ人は二人しか乗船してないんじゃないかなあ? 確か去年もそうだったはずだよ?
いや。
それでもいいのかもしれない、と僕はすぐに考え直した。
たった二人であっても、彼らにとってその再会の瞬間は、涙が出るほどのものであるに違いない。遠く離れた故国の匂いを感じられるひとときなんだ。
そのとき、日本人の船頭がまっすぐに沖を指さした。
「あいじゃな」
全員がそちらを見た。
確かに異国船の姿がある。まだ遠いけど、はっきり見えるよ。
オランダ人がパーペンベルクと呼ぶ高鉾島 と小瀬戸の海岸の間にいて、帆はすでに畳まれてるし、錨も下ろしてるみたいだ。
オランダ人の二人は、所定の位置に三色旗がはためいているのを見つけると、もはや興奮を抑えきれなくなったようだった。
二人とも立ち上がって拳を突き上げ、歓喜の雄叫びを上げたよ。
「Nederland, cheers! Nederland, cheers!」
安全を預かる立場の船頭は、もちろん怒り心頭だ。こらーっと声を荒げたよ。
「二人とも座れ! 海に落っちゃげるぞ」
でも当のオランダ人は、怒鳴られようが何だろうが気にする素振りもない。水主たちが櫓を持ったまま、くすくすと笑ってるよ。
悪いけど僕も笑っちゃったよ。長崎中の喜びを、この二人が代弁してくれてるような気がしたから。
船頭も本気で怒ったわけじゃない。舟の空気は実に和やかだった。
だけど船の姿が大きくなるにつれ、相手の巨大さとものものしさが目についた。
一同、気圧されたように沈黙したよ。
「……すごか」
僕もごくりと唾を飲み込んだ。
これ、装甲艦ってやつだよな? 船体が鉄で覆われてる。しかも舷側から外に向けられた砲口の数が異様に多い。イギリスの襲撃から逃れるため、カピタン様が装備の充実を求めたような話は聞いてるけど、僕、こんな本格的な戦艦は初めてみたよ。
先方の船もこちらに気づいたようだった。
巨大な船から、するすると一艘の艀 が海面に下ろされていく。艀とは言ってもこちらの細長い小早と違って、大きくずんぐりしている。十二、三人は乗っているみたいだ。
「何だ、どうしたんだ?」
ホウゼマンさんが目を細め、相手を注視しながらつぶやいた。
確かに何か妙だった。
いつもは日本側の役船が相手側の本船に接舷し、縄梯子をつたって乗り込んでいくんだ。向こうが舟を出すのは異例のことだよ。
「おかしいですね。何かあったんでしょうか」
スヒンメルさんもそう言った。
黙って見つめてたら、艀はびっくりするような速さで僕たちの舟に漕ぎ寄せてきた。
辺りに漂う小早のうち、オランダ人が乗っている舟を見定めたんだと思う。
日本側の他の舟に乗っている人々も、みんな状況がつかめないらしくて、ぽかんと口を開けてこっちを見てる。
どうしよう。どうしたらいいんだ?
いいや、僕は通詞だ。こんな時こそしっかりしなきゃ。
相手が横付けしてくると同時に、僕は思い切って膝立ちになった。
そして、オランダ語で声を掛けたんだ。
「Waar kom je vandaan?(どちらから来られたか)」
これは定められた文言だ。艀の漕ぎ手の一人が僕と同じように膝立ちになって、これまたしっかりとオランダ語で答えてきた。
「Ik kom uit Batavia.(バタヴィアからだ)」
ならば問題はないよね?
僕がそう思ったその時、その漕ぎ手はオランダ人に命令した。
「お前たち二人、本船に来い」
ホウゼマンさんたちは不安げに視線を交わし合い、明らかにためらっていた。次いですがるように僕を見上げてきたのは、この僕に指示を求めたかったからだろう。
だけど、僕だってどうすればいいのか全然分かんないよ。
ホウゼマンさんはさすが一番の年長者だ。すぐに落ち着いて、答えを返したよ。
「この舟の後から検使が来ます。到着したら、その者たちと一緒に本船へ伺いましょう」
そうだ、そうだ、と僕も思った。もちろんその通りだ。そういう手はずになってるんだから。
だけどその時、艀の中から不思議な喚声が上がったんだ。
まもなく僕の乗った舟だけが列を離れ、出島の水門前に近づいていく。
あれ、体調でも悪いのかな? カピタンのヘンドリック・ドゥーフさん、少し厚着をしてるみたいだ。岸壁の石段の上で、いかにも寒そうにして立ってる。
その斜め後ろに商館員のディルク・ホウゼマンさんとゲルリッツ・スヒンメルさんがいる。そうか、この二人が行くんだな。
うちの父、名村多吉郎もその後ろで控えてる。心配なのか、硬い表情だ。
僕が行くことをすでに聞いてたみたいで、オランダ人たちが小早に乗り込む間、僕の方に寄って耳打ちしてきたよ。
「初めてやな。大丈夫か?」
心配をかけたくないから、僕はすぐにうなずいた。
「丸暗記しましたけん、何とか!」
自分の頭を指さして、元気いっぱいに答えたよ。
父はおかしそうにくくっと肩を揺らし、僕にうなずいて見せた。
「ま、もし何かあったとしても、ホウゼマン殿の一緒やけん、大丈夫や。しっかりな」
確かにホウゼマンさんって人は、二ヶ国語を自由に操る熟練商館員で、日本人以上に日本のやり方を分かってるらしい。検使が問題ありと判断した時には、ホウゼマンさんが完璧な日本語で商館と奉行所に知らせてくれる。僕の出番なんか、ないかもしれないよね。
でも僕だってこれまで頑張って練習してきたんだし、去年は伊藤さんに同行して手続きの一部始終を見せてもらったんだ。ちゃんとお役目は果たすよ。
折からの強風で海上には三角波が立ってる。
漕ぎ出される舟はいずれも揺れ続けた。
同じ舟に乗ったオランダ人の二人は、海を眺めながらうれしそうに会話してる。バタヴィアからやってくる乗組員の中で、知り合いは何人いるか、ということを気にしてるみたいだ。
だけど今回もアメリカの傭船だとしたら、オランダ人は二人しか乗船してないんじゃないかなあ? 確か去年もそうだったはずだよ?
いや。
それでもいいのかもしれない、と僕はすぐに考え直した。
たった二人であっても、彼らにとってその再会の瞬間は、涙が出るほどのものであるに違いない。遠く離れた故国の匂いを感じられるひとときなんだ。
そのとき、日本人の船頭がまっすぐに沖を指さした。
「あいじゃな」
全員がそちらを見た。
確かに異国船の姿がある。まだ遠いけど、はっきり見えるよ。
オランダ人がパーペンベルクと呼ぶ
オランダ人の二人は、所定の位置に三色旗がはためいているのを見つけると、もはや興奮を抑えきれなくなったようだった。
二人とも立ち上がって拳を突き上げ、歓喜の雄叫びを上げたよ。
「Nederland, cheers! Nederland, cheers!」
安全を預かる立場の船頭は、もちろん怒り心頭だ。こらーっと声を荒げたよ。
「二人とも座れ! 海に落っちゃげるぞ」
でも当のオランダ人は、怒鳴られようが何だろうが気にする素振りもない。水主たちが櫓を持ったまま、くすくすと笑ってるよ。
悪いけど僕も笑っちゃったよ。長崎中の喜びを、この二人が代弁してくれてるような気がしたから。
船頭も本気で怒ったわけじゃない。舟の空気は実に和やかだった。
だけど船の姿が大きくなるにつれ、相手の巨大さとものものしさが目についた。
一同、気圧されたように沈黙したよ。
「……すごか」
僕もごくりと唾を飲み込んだ。
これ、装甲艦ってやつだよな? 船体が鉄で覆われてる。しかも舷側から外に向けられた砲口の数が異様に多い。イギリスの襲撃から逃れるため、カピタン様が装備の充実を求めたような話は聞いてるけど、僕、こんな本格的な戦艦は初めてみたよ。
先方の船もこちらに気づいたようだった。
巨大な船から、するすると一艘の
「何だ、どうしたんだ?」
ホウゼマンさんが目を細め、相手を注視しながらつぶやいた。
確かに何か妙だった。
いつもは日本側の役船が相手側の本船に接舷し、縄梯子をつたって乗り込んでいくんだ。向こうが舟を出すのは異例のことだよ。
「おかしいですね。何かあったんでしょうか」
スヒンメルさんもそう言った。
黙って見つめてたら、艀はびっくりするような速さで僕たちの舟に漕ぎ寄せてきた。
辺りに漂う小早のうち、オランダ人が乗っている舟を見定めたんだと思う。
日本側の他の舟に乗っている人々も、みんな状況がつかめないらしくて、ぽかんと口を開けてこっちを見てる。
どうしよう。どうしたらいいんだ?
いいや、僕は通詞だ。こんな時こそしっかりしなきゃ。
相手が横付けしてくると同時に、僕は思い切って膝立ちになった。
そして、オランダ語で声を掛けたんだ。
「Waar kom je vandaan?(どちらから来られたか)」
これは定められた文言だ。艀の漕ぎ手の一人が僕と同じように膝立ちになって、これまたしっかりとオランダ語で答えてきた。
「Ik kom uit Batavia.(バタヴィアからだ)」
ならば問題はないよね?
僕がそう思ったその時、その漕ぎ手はオランダ人に命令した。
「お前たち二人、本船に来い」
ホウゼマンさんたちは不安げに視線を交わし合い、明らかにためらっていた。次いですがるように僕を見上げてきたのは、この僕に指示を求めたかったからだろう。
だけど、僕だってどうすればいいのか全然分かんないよ。
ホウゼマンさんはさすが一番の年長者だ。すぐに落ち着いて、答えを返したよ。
「この舟の後から検使が来ます。到着したら、その者たちと一緒に本船へ伺いましょう」
そうだ、そうだ、と僕も思った。もちろんその通りだ。そういう手はずになってるんだから。
だけどその時、艀の中から不思議な喚声が上がったんだ。