第15話 露台にて
文字数 3,012文字
気がついたのは、かなりの深更だった。
私はぼんやりと目を開いて天井を見上げ、次いで傍らを見ると誰もいなかった。
慌てて起き上がったわ。私ったら、ヘンドリックをそっちのけで寝ちゃったのね。
部屋は蒸し暑いけど、窓は開け放たれてる。窓にかけられた白い布が強い風に揺れてて、蚊帳を通してもその風を感じられるほどだった。
すでに私の「居続け」は決まってるの。夕刻に一度は帰り支度をしたんだけど、ヘンドリックは私を手放してくれなかった。私を抱きしめ、口づけをして、そのまま「ここで待っていろ」とばかりに手で制して部屋を出ていったわ。
京屋の旦那様に、居続けの件を相談しに行ってくれたことはすぐに分かった。
してやったり、ってとこよ。
私は露台に出て、ほくほく顔で帰って行く京屋のみんなと手を振り合った。
いろはは泣いて悔しがるでしょうけど、私の知ったことじゃないわ。本当に悔しかったら実力でヘンドリックを取り返せばいいのよ。
ヘンドリックは今、その露台にいるみたいだった。私は襦袢を羽織り、自分もそこに出て行くことにした。
ヘンドリックは眠れないのかしら。一人で欄干にもたれて外を眺めてたわ。
声をかけてよいものか、私はためらった。
ものすごく孤独な背中だったの。
さっきだって、ヘンドリックはずっと快楽に耽るふりをしてたような気がする。抱かれている私は内心、これは駄目だと思ってたわ。相手が悲しみの淵に立っているのが分かるのに、あと一歩、どうにも引き寄せることができないんだから。
迷ってその場にたたずんでたら、ヘンドリックの方が私に気が付いてくれた。そして、笑って手招きをしてくれたの。
良かった。ほっとして私も出て行き、ヘンドリックの横に並んでみたわ。
「申し訳なか。うちだけ眠ってしまおったと」
海は黒々としてるけど、水平線の上には粉をこぼしたような無数の星が瞬いてる。ヘンドリックがもたれかかってる欄干を両手でつかんだら、海風がどっと吹き付けてきたわ。
「ああ、風の、気持ちよか」
私は目を細め、乱れて風に舞う自分の髪を押さえつけた。
確かに蒸し暑い部屋より、ここの方がよっぽどいいわ。ヘンドリックはいつもこの海風に吹かれて考え事をしてるのね。
ヘンドリックが乱暴な男じゃなくて良かったと思う。相手が気遣いのできる人であるかどうか、肌を触れてる私たちには当然分かるわ。
たぶんこの人、寂しさのために心に穴が開きそうで、それを紛らわすために時に女が欲しくなるんじゃないかしら。普段は一人ぼっちで、ひたすら孤独に耐えてるんじゃないかしら。
さもあろうと思うの。彼らの故国は本当に本当に、遠く離れているそうだから。
「ヘンドリックは、どなたか、想う人のおありね」
私はそっと語りかけた。ヘンドリックは答えないけど、どうせ言葉は通じないんだもの。こっちは最初から答えなんか期待してない。
「お国に大切な人の、おありなんやろうか。そいとも、お母様かどなたかかしら。うちじゃ不足やろうばってん、そいでも、うちで良ければ、いつでも代わりば務めますけん」
日本語で話しかけたって仕方ないんだけど、私ね、とにかく落ち込んでる人には声をかけた方がいいと思ってるの。生まれたばかりの赤ん坊に話しかけるのと同じよ。声を聞かせるだけでも、何かが通じ合えるかもしれないじゃない?
ヘンドリックがいきなり、たどたどしい日本語を発したのはその時よ。
「なぜ、そう、思う」
聞き違いかと思った。
私はまだ半信半疑で、風に暴れる髪を押さえて振り仰いだ。
だけどヘンドリックは本当に、何かを伝えようとしてたわ。人差し指を立て、口をパクパクさせて、懸命にしゃべってる。
「U bent niet iemands zondebok……」
あ〜、えっと、その、と日本語を織り交ぜておろおろしてるみたいだった。
うまく言葉が出てこないんだなって思った。でもその声には間違いなく、含むような優しさがあったわ。
失礼にならないかしら、と心配しつつ、私の方もおずおずと聞いてみたわ。
「ヘンドリック、言葉がお分かりなんか?」
すると彼は照れ臭そうに笑って、今度は親指と人差し指で隙間を作って見せるの。
「Beetje……あ〜、ほんの、ちょっと。むずかしいの、ムリ」
私はちょっとだけ苦笑しちゃった。
だったら早くそう言ってよって感じ。でも確かに六年も日本に暮らしていれば、多少は分かるようになってるものかもね。
しかも改めてこの人の素朴な笑顔を見たとき、あらって思った。
この人、意外と若いわよ? そういえば私と五つぐらいしか違わないんだっけ。
ヘンドリックはおもむろに傍らの椅子を引き寄せ、そこに私を座らせた。
何をするつもりなんでしょうね。自分は部屋に入っていくの。
彼はしばらくして戻ってきたわ。お酒の入っているらしい瓶と、透明なびいどろの杯を二つ手にしてる。
そして彼は、目の前で私の分まで入れてくれたの。
「アラキ酒。バタヴィアの、酒。どうぞ」
「うわぁ、ありがとぉ」
気持ちがぱっと上向いたわ。こんな風にしてもらうのは初めて。自分がすごく大事にされてるような気がしたわ。
ヘンドリックが先に透明な酒に口をつけた。もちろん私もお酒が好きよ。
と思ったら、すぐに吹き出しそうになっちゃった。
何よ、これ! 穀物のお酒だとは思うけど、発酵臭がやたらと強くて、とても飲めたものじゃない。
だけどヘンドリックはまったく平気なようだった。むしろ香りを楽しむように杯の持ち手を揺らし、ゆったりと酒を転がしてるわ。
「……オリオノ」
つぶやくような小さな声だったから、私はすぐに反応できなかった。少し経ってからようやく自分の名が呼ばれたことに気づいて、慌てちゃったわ。
「はいっ。何でしょう?」
即座に姿勢を正したわ。
ヘンドリックはびいどろの杯を傾ける。
「オリオノ、なぜ、オリオノ?」
カピタン様のお言葉を聞き漏らすまいとして、私は注意深く耳を傾けてた。
だけどこれまた妙な質問だったわ。
「……おとしゃまからもらった名ぁですけん。ばってん、ヘンドリックのお気に召さんのなら、およう、でもかんまん」
「いや、オリオノ、よか。オリオノて呼ぼう」
ヘンドリックは少しだけ背もたれから身を離し、私の目をじっとのぞき込んできたわ。
「オリオノ、目、きれい。目ん、中に、星ある」
そういえば昔、そんなことを言われたような気もする。
だけどそれがいつのどんな時だったか思い出せなくて、私は小首を傾けたわ。
「そう……と?」
ヤーと言って、ヘンドリックはうなずいた。
「ケーシェー、美しか。Echter(しかし)女たち、みな、目、死んでる」
つっかえつっかえの言葉であっても、それはどこか核心を突いてたわ。思わず全身に力を込めて聞き入っちゃった。
「オリオノ、違う。オリオノは、強か」
私は思わずヘンドリックの顔に見入った。この人、褒めてくれてるのかしら。私がつらい稼業にもちゃんと耐えているって、そう思ったのかしら。
それはどうでしょうね。
私はどうにか微笑を保ちつつ、黙って手元のお酒を見下ろした。
強いわけないじゃない。
遊女は地獄に生きてるのよ。お酒で現実逃避をして、嘘でも何でもとにかく笑っていなければ、明日にも死んじゃうぐらいだわ。もし私が強く見えるとしたら、たぶん他の女たちより少し意地っ張りなだけよ。
私はぼんやりと目を開いて天井を見上げ、次いで傍らを見ると誰もいなかった。
慌てて起き上がったわ。私ったら、ヘンドリックをそっちのけで寝ちゃったのね。
部屋は蒸し暑いけど、窓は開け放たれてる。窓にかけられた白い布が強い風に揺れてて、蚊帳を通してもその風を感じられるほどだった。
すでに私の「居続け」は決まってるの。夕刻に一度は帰り支度をしたんだけど、ヘンドリックは私を手放してくれなかった。私を抱きしめ、口づけをして、そのまま「ここで待っていろ」とばかりに手で制して部屋を出ていったわ。
京屋の旦那様に、居続けの件を相談しに行ってくれたことはすぐに分かった。
してやったり、ってとこよ。
私は露台に出て、ほくほく顔で帰って行く京屋のみんなと手を振り合った。
いろはは泣いて悔しがるでしょうけど、私の知ったことじゃないわ。本当に悔しかったら実力でヘンドリックを取り返せばいいのよ。
ヘンドリックは今、その露台にいるみたいだった。私は襦袢を羽織り、自分もそこに出て行くことにした。
ヘンドリックは眠れないのかしら。一人で欄干にもたれて外を眺めてたわ。
声をかけてよいものか、私はためらった。
ものすごく孤独な背中だったの。
さっきだって、ヘンドリックはずっと快楽に耽るふりをしてたような気がする。抱かれている私は内心、これは駄目だと思ってたわ。相手が悲しみの淵に立っているのが分かるのに、あと一歩、どうにも引き寄せることができないんだから。
迷ってその場にたたずんでたら、ヘンドリックの方が私に気が付いてくれた。そして、笑って手招きをしてくれたの。
良かった。ほっとして私も出て行き、ヘンドリックの横に並んでみたわ。
「申し訳なか。うちだけ眠ってしまおったと」
海は黒々としてるけど、水平線の上には粉をこぼしたような無数の星が瞬いてる。ヘンドリックがもたれかかってる欄干を両手でつかんだら、海風がどっと吹き付けてきたわ。
「ああ、風の、気持ちよか」
私は目を細め、乱れて風に舞う自分の髪を押さえつけた。
確かに蒸し暑い部屋より、ここの方がよっぽどいいわ。ヘンドリックはいつもこの海風に吹かれて考え事をしてるのね。
ヘンドリックが乱暴な男じゃなくて良かったと思う。相手が気遣いのできる人であるかどうか、肌を触れてる私たちには当然分かるわ。
たぶんこの人、寂しさのために心に穴が開きそうで、それを紛らわすために時に女が欲しくなるんじゃないかしら。普段は一人ぼっちで、ひたすら孤独に耐えてるんじゃないかしら。
さもあろうと思うの。彼らの故国は本当に本当に、遠く離れているそうだから。
「ヘンドリックは、どなたか、想う人のおありね」
私はそっと語りかけた。ヘンドリックは答えないけど、どうせ言葉は通じないんだもの。こっちは最初から答えなんか期待してない。
「お国に大切な人の、おありなんやろうか。そいとも、お母様かどなたかかしら。うちじゃ不足やろうばってん、そいでも、うちで良ければ、いつでも代わりば務めますけん」
日本語で話しかけたって仕方ないんだけど、私ね、とにかく落ち込んでる人には声をかけた方がいいと思ってるの。生まれたばかりの赤ん坊に話しかけるのと同じよ。声を聞かせるだけでも、何かが通じ合えるかもしれないじゃない?
ヘンドリックがいきなり、たどたどしい日本語を発したのはその時よ。
「なぜ、そう、思う」
聞き違いかと思った。
私はまだ半信半疑で、風に暴れる髪を押さえて振り仰いだ。
だけどヘンドリックは本当に、何かを伝えようとしてたわ。人差し指を立て、口をパクパクさせて、懸命にしゃべってる。
「U bent niet iemands zondebok……」
あ〜、えっと、その、と日本語を織り交ぜておろおろしてるみたいだった。
うまく言葉が出てこないんだなって思った。でもその声には間違いなく、含むような優しさがあったわ。
失礼にならないかしら、と心配しつつ、私の方もおずおずと聞いてみたわ。
「ヘンドリック、言葉がお分かりなんか?」
すると彼は照れ臭そうに笑って、今度は親指と人差し指で隙間を作って見せるの。
「Beetje……あ〜、ほんの、ちょっと。むずかしいの、ムリ」
私はちょっとだけ苦笑しちゃった。
だったら早くそう言ってよって感じ。でも確かに六年も日本に暮らしていれば、多少は分かるようになってるものかもね。
しかも改めてこの人の素朴な笑顔を見たとき、あらって思った。
この人、意外と若いわよ? そういえば私と五つぐらいしか違わないんだっけ。
ヘンドリックはおもむろに傍らの椅子を引き寄せ、そこに私を座らせた。
何をするつもりなんでしょうね。自分は部屋に入っていくの。
彼はしばらくして戻ってきたわ。お酒の入っているらしい瓶と、透明なびいどろの杯を二つ手にしてる。
そして彼は、目の前で私の分まで入れてくれたの。
「アラキ酒。バタヴィアの、酒。どうぞ」
「うわぁ、ありがとぉ」
気持ちがぱっと上向いたわ。こんな風にしてもらうのは初めて。自分がすごく大事にされてるような気がしたわ。
ヘンドリックが先に透明な酒に口をつけた。もちろん私もお酒が好きよ。
と思ったら、すぐに吹き出しそうになっちゃった。
何よ、これ! 穀物のお酒だとは思うけど、発酵臭がやたらと強くて、とても飲めたものじゃない。
だけどヘンドリックはまったく平気なようだった。むしろ香りを楽しむように杯の持ち手を揺らし、ゆったりと酒を転がしてるわ。
「……オリオノ」
つぶやくような小さな声だったから、私はすぐに反応できなかった。少し経ってからようやく自分の名が呼ばれたことに気づいて、慌てちゃったわ。
「はいっ。何でしょう?」
即座に姿勢を正したわ。
ヘンドリックはびいどろの杯を傾ける。
「オリオノ、なぜ、オリオノ?」
カピタン様のお言葉を聞き漏らすまいとして、私は注意深く耳を傾けてた。
だけどこれまた妙な質問だったわ。
「……おとしゃまからもらった名ぁですけん。ばってん、ヘンドリックのお気に召さんのなら、およう、でもかんまん」
「いや、オリオノ、よか。オリオノて呼ぼう」
ヘンドリックは少しだけ背もたれから身を離し、私の目をじっとのぞき込んできたわ。
「オリオノ、目、きれい。目ん、中に、星ある」
そういえば昔、そんなことを言われたような気もする。
だけどそれがいつのどんな時だったか思い出せなくて、私は小首を傾けたわ。
「そう……と?」
ヤーと言って、ヘンドリックはうなずいた。
「ケーシェー、美しか。Echter(しかし)女たち、みな、目、死んでる」
つっかえつっかえの言葉であっても、それはどこか核心を突いてたわ。思わず全身に力を込めて聞き入っちゃった。
「オリオノ、違う。オリオノは、強か」
私は思わずヘンドリックの顔に見入った。この人、褒めてくれてるのかしら。私がつらい稼業にもちゃんと耐えているって、そう思ったのかしら。
それはどうでしょうね。
私はどうにか微笑を保ちつつ、黙って手元のお酒を見下ろした。
強いわけないじゃない。
遊女は地獄に生きてるのよ。お酒で現実逃避をして、嘘でも何でもとにかく笑っていなければ、明日にも死んじゃうぐらいだわ。もし私が強く見えるとしたら、たぶん他の女たちより少し意地っ張りなだけよ。