第62話 名村(父親)の話
文字数 3,160文字
長崎奉行、松平図書頭 康英 様が、仁王立ちしている。
「そのほうら、それでおめおめと引き下がって参ったのか! この馬鹿者が!」
お奉行様は極めて温和な人物だ。こんなに激した姿を見たのは、私も初めてである。
「武士がそのような狼藉を目の当たりにしながら、腰の刀を抜きもせなんだのか。何のための刀と思うておる」
容赦のない罵声が頭上から降り注がれる。
私、名村多吉郎と同輩の馬場為八郎は、必死に頭を畳に押し付けている。
我々の前には、二人の旗本も同様にしている。検使として親船に乗り込んでいた、菅谷様と上川様だ。
「臨検の責任者はそのほうらであるぞ。近くにいながら、二人とも何じゃ。ぼんやりと見物でもしておったか」
お奉行様は、ご自身の就任中にこのような事件が起きたことが許せないのだろう。だが、あくまで幕臣二人の責任のみを追及しようとなさっている。そのことがずしりと胸にのしかかる。
長崎の地役人は名字帯刀を許されているが、実は士分ではない。あくまで町人なのだ。
それが理由なのかどうかは分からないが、お奉行様も他の方も、この私をお責めになろうとはしない。そのことが、かえって心苦しかった。
私は大通詞 としての責任を免れようとは思わない。
事件現場にいたのが実の息子だった、という理由からではない。誰が行っていたところで、ほとんど何もできなかっただろう。無論、元次郎は自宅で謹慎させているが、腹を切るのはこの私以外にないと思うのだ。
お奉行様は立ち上がり、我々に厳しく言い渡した。
「蘭国商館員は我が国が預かった大事な客人であるぞ。今すぐ異船に向かい、人質を生きたまま取り返すように。救出できなくば、二度と長崎市中へ戻ること許さぬ」
四人はさらに頭を低くし、ははあっと声を発した。
お奉行様は席を蹴り立つようにして退出なさり、その足音が消えてから、我々四人はようやく顔を上げ、互いに顔を見合わせた。
呼吸もできないほどの、重苦しい空気だった。
検使のお二人は完全に血の気を失っている。話し合いのためにこちらを振り向きはしたが、しばらくは声を発することもできないようだった。
「とにかくお奉行様の命にございます。もう一度、異船に向かいましょう。ね? ね?」
為八郎が熱心に話しかけてくれ、上川様がようやっとお返事なさった。
「……さよう。今は人質奪還が最優先じゃ」
ひとまず四人とも、うなずき合う。
一方の菅谷様はといえば、忌々しそうに膝を揺すって、落ち着きのない様子だった。
「何ゆえ、佐賀の家中は何も申して来ぬのじゃ?」
誰にともなく言い、ぱしん、と自分の膝を打つ。
「今年の長崎警備はあやつらであろう。その長崎が荒らされておるというに、何も動かぬとはいかなるわけじゃ。ご公儀より賜った重責を何と心得る?」
誰も答えないが、それはこっちが聞きたいぐらいだった。私か為八郎が何か知っていると思ったのかもしれないが、あいにく理由は聞いていない。
全員が沈黙したまま、というわけにもいかず、仕方なく私がお答え申し上げる。
「……恐れながら、先ほど下役を五、六人ばかり、佐賀藩のお屋敷へ問い合わせに向かわせましてございます。そろそろ、戻って来るかと存じますが」
ふん、と菅谷様は気に入らない様子で鼻を鳴らした。長崎の人間など役に立たないと思ったのかもしれない。
庭先で人の声がしたのはその直後である。
私が立って行って襖を開けると、悄然とした男たちの姿があった。まさに先ほど出て行った奉行所詰めの男たちだ。
「おい、いかがした。佐賀の兵どもはどこじゃ?」
菅谷様が私の背後で、鋭い声を発した。
「一刻も早う、異船を叩きに参らねばならんのだぞ」
「それが……その……」
下役の歯切れは何とも悪いものだった。
「佐賀のお屋敷は、もぬけの殻にございました」
屋敷には留守番の藩士が数人いたが、誰一人としてまともに状況を説明できなかったそうだ。
下役たちも黙って引き下がってきたわけではない。佐賀藩士を問いただし、相手の要領を得ない説明から、どうにか一つの事実を導き出したという。
「おそらく佐賀は今、この長崎に兵を置いておらぬものと思われます」
下役の一人が恐る恐るといった感じで述べた。
どうやら佐賀藩の家中では、もう夏も終わったから軍は必要ないだろうという結論に至り、勝手に帰国してしまったようなのである。
「な、なに? 奉行所に黙って帰国したと申すか」
菅谷様がさらに蒼白になった。
「こちらに一言の相談も、報告もなく!」
それに呼応するかのように、他の者も膝立ちになって叫び出した。
「お奉行様のお許しもなく、勝手な真似を」
「何たる失態じゃ。佐賀の奴ら!」
何の罪もない哀れな下役たちは、恐懼してひれ伏している。
口を出す権限のない我々は、その脇でただ黙って見ているしかなかった。
今どき、どこの御家も財政窮乏に苦しんでいる。軍の駐留には多額の費用がかかるものであり、佐賀藩の事情は分からぬでもない。それをまったく把握していなかったのなら、むしろ奉行所側に落ち度があるのではないか?
いや、と私は密かに首を振った。今は責任のありかを云々している場合ではない。人質の二人は、今この時にも殺されてしまうかもしれないのだ。
カーン、カーンという半鐘の音が聞こえ出したのはそのときだった。
今度は何が起こったのか。
為八郎とともに庭へ出ると、練塀 の外で悲鳴や怒声が折り重なっているのがより大きく聞こえた。
複数の中間が、砂利を跳ね上げるようにして走り抜けていく。
私は顔見知りの一人を見つけ、彼を捕まえた。
「何じゃ。火事か?」
いいえ、と男は首を振った。
「敵が、うろついとるんばい」
三艘の舟が長崎湾に漕ぎ出して、町の様子を探っているようだという。それぞれに武装した十四、五人の男が乗っていて、見物に出てきた長崎の町人に銃口を向けてきたという。
「それで、大勢がおびえて騒いで、まったく手がつけられんのや」
次の瞬間、遠くでダーンと銃声らしきものが響いた。
この時ばかりは全員が反射的に肩をすくめた。
「何じゃ、今のは。威嚇か? それとも誰ぞ撃たれたか」
人々は血相を変えてバラバラと走り去って行った。
もしかしたら本当に砲撃が始まったのかもしれない。為八郎が深刻な目つきでこちらを振り向いた。
「多吉郎、出島が危険じゃ。蘭人ば、早う避難させた方が良か」
その通りだった。この日の本の地形は極秘情報で、異国では知られていないはずだが、出島だけは扇形をし、海に突き出ているという特異な姿をしているだけに、かなり知られているという。いざ戦闘開始となれば、まっさきに標的になるだろう。
思い出すのは、かつての大火事の時のことだ。
あのとき、若き日の私は当時のお奉行様に必死に訴えた。緊急事態の下では国法を曲げるべきだと。ただちにオランダ人を市中へ避難させるべきだと。
だが、お許しはどうしても頂けなかった。
オランダ人は空き地に突っ立ったまま、焼け落ちるカピタン部屋をなすすべもなく見つめていた。さらに雨が降ってきたが、それでも彼らは焼け残った倉庫の一角で身を寄せ合っている以外にどうしようもなかったのである。
危険な上に、惨めな思いをさせてしまった。私は日本人として、今でも申し訳なく思っている。
今回、松平図書頭様も拒絶なさるかもしれない。だが今度こそ彼らを助けるべきではないか。
「お奉行様に、お願いしてくる」
同じことを考えていたのだろう。為八郎も即座にうなずいてくれた。
「おいも行く」
二人で駆け出した。
お奉行様がどう判断されるか分からなかった。彼が自身の立場よりも、人命を優先してくれるかどうかにかかっている。
殺伐とした空気が、長崎の夜空にみなぎっている。
「そのほうら、それでおめおめと引き下がって参ったのか! この馬鹿者が!」
お奉行様は極めて温和な人物だ。こんなに激した姿を見たのは、私も初めてである。
「武士がそのような狼藉を目の当たりにしながら、腰の刀を抜きもせなんだのか。何のための刀と思うておる」
容赦のない罵声が頭上から降り注がれる。
私、名村多吉郎と同輩の馬場為八郎は、必死に頭を畳に押し付けている。
我々の前には、二人の旗本も同様にしている。検使として親船に乗り込んでいた、菅谷様と上川様だ。
「臨検の責任者はそのほうらであるぞ。近くにいながら、二人とも何じゃ。ぼんやりと見物でもしておったか」
お奉行様は、ご自身の就任中にこのような事件が起きたことが許せないのだろう。だが、あくまで幕臣二人の責任のみを追及しようとなさっている。そのことがずしりと胸にのしかかる。
長崎の地役人は名字帯刀を許されているが、実は士分ではない。あくまで町人なのだ。
それが理由なのかどうかは分からないが、お奉行様も他の方も、この私をお責めになろうとはしない。そのことが、かえって心苦しかった。
私は
事件現場にいたのが実の息子だった、という理由からではない。誰が行っていたところで、ほとんど何もできなかっただろう。無論、元次郎は自宅で謹慎させているが、腹を切るのはこの私以外にないと思うのだ。
お奉行様は立ち上がり、我々に厳しく言い渡した。
「蘭国商館員は我が国が預かった大事な客人であるぞ。今すぐ異船に向かい、人質を生きたまま取り返すように。救出できなくば、二度と長崎市中へ戻ること許さぬ」
四人はさらに頭を低くし、ははあっと声を発した。
お奉行様は席を蹴り立つようにして退出なさり、その足音が消えてから、我々四人はようやく顔を上げ、互いに顔を見合わせた。
呼吸もできないほどの、重苦しい空気だった。
検使のお二人は完全に血の気を失っている。話し合いのためにこちらを振り向きはしたが、しばらくは声を発することもできないようだった。
「とにかくお奉行様の命にございます。もう一度、異船に向かいましょう。ね? ね?」
為八郎が熱心に話しかけてくれ、上川様がようやっとお返事なさった。
「……さよう。今は人質奪還が最優先じゃ」
ひとまず四人とも、うなずき合う。
一方の菅谷様はといえば、忌々しそうに膝を揺すって、落ち着きのない様子だった。
「何ゆえ、佐賀の家中は何も申して来ぬのじゃ?」
誰にともなく言い、ぱしん、と自分の膝を打つ。
「今年の長崎警備はあやつらであろう。その長崎が荒らされておるというに、何も動かぬとはいかなるわけじゃ。ご公儀より賜った重責を何と心得る?」
誰も答えないが、それはこっちが聞きたいぐらいだった。私か為八郎が何か知っていると思ったのかもしれないが、あいにく理由は聞いていない。
全員が沈黙したまま、というわけにもいかず、仕方なく私がお答え申し上げる。
「……恐れながら、先ほど下役を五、六人ばかり、佐賀藩のお屋敷へ問い合わせに向かわせましてございます。そろそろ、戻って来るかと存じますが」
ふん、と菅谷様は気に入らない様子で鼻を鳴らした。長崎の人間など役に立たないと思ったのかもしれない。
庭先で人の声がしたのはその直後である。
私が立って行って襖を開けると、悄然とした男たちの姿があった。まさに先ほど出て行った奉行所詰めの男たちだ。
「おい、いかがした。佐賀の兵どもはどこじゃ?」
菅谷様が私の背後で、鋭い声を発した。
「一刻も早う、異船を叩きに参らねばならんのだぞ」
「それが……その……」
下役の歯切れは何とも悪いものだった。
「佐賀のお屋敷は、もぬけの殻にございました」
屋敷には留守番の藩士が数人いたが、誰一人としてまともに状況を説明できなかったそうだ。
下役たちも黙って引き下がってきたわけではない。佐賀藩士を問いただし、相手の要領を得ない説明から、どうにか一つの事実を導き出したという。
「おそらく佐賀は今、この長崎に兵を置いておらぬものと思われます」
下役の一人が恐る恐るといった感じで述べた。
どうやら佐賀藩の家中では、もう夏も終わったから軍は必要ないだろうという結論に至り、勝手に帰国してしまったようなのである。
「な、なに? 奉行所に黙って帰国したと申すか」
菅谷様がさらに蒼白になった。
「こちらに一言の相談も、報告もなく!」
それに呼応するかのように、他の者も膝立ちになって叫び出した。
「お奉行様のお許しもなく、勝手な真似を」
「何たる失態じゃ。佐賀の奴ら!」
何の罪もない哀れな下役たちは、恐懼してひれ伏している。
口を出す権限のない我々は、その脇でただ黙って見ているしかなかった。
今どき、どこの御家も財政窮乏に苦しんでいる。軍の駐留には多額の費用がかかるものであり、佐賀藩の事情は分からぬでもない。それをまったく把握していなかったのなら、むしろ奉行所側に落ち度があるのではないか?
いや、と私は密かに首を振った。今は責任のありかを云々している場合ではない。人質の二人は、今この時にも殺されてしまうかもしれないのだ。
カーン、カーンという半鐘の音が聞こえ出したのはそのときだった。
今度は何が起こったのか。
為八郎とともに庭へ出ると、
複数の中間が、砂利を跳ね上げるようにして走り抜けていく。
私は顔見知りの一人を見つけ、彼を捕まえた。
「何じゃ。火事か?」
いいえ、と男は首を振った。
「敵が、うろついとるんばい」
三艘の舟が長崎湾に漕ぎ出して、町の様子を探っているようだという。それぞれに武装した十四、五人の男が乗っていて、見物に出てきた長崎の町人に銃口を向けてきたという。
「それで、大勢がおびえて騒いで、まったく手がつけられんのや」
次の瞬間、遠くでダーンと銃声らしきものが響いた。
この時ばかりは全員が反射的に肩をすくめた。
「何じゃ、今のは。威嚇か? それとも誰ぞ撃たれたか」
人々は血相を変えてバラバラと走り去って行った。
もしかしたら本当に砲撃が始まったのかもしれない。為八郎が深刻な目つきでこちらを振り向いた。
「多吉郎、出島が危険じゃ。蘭人ば、早う避難させた方が良か」
その通りだった。この日の本の地形は極秘情報で、異国では知られていないはずだが、出島だけは扇形をし、海に突き出ているという特異な姿をしているだけに、かなり知られているという。いざ戦闘開始となれば、まっさきに標的になるだろう。
思い出すのは、かつての大火事の時のことだ。
あのとき、若き日の私は当時のお奉行様に必死に訴えた。緊急事態の下では国法を曲げるべきだと。ただちにオランダ人を市中へ避難させるべきだと。
だが、お許しはどうしても頂けなかった。
オランダ人は空き地に突っ立ったまま、焼け落ちるカピタン部屋をなすすべもなく見つめていた。さらに雨が降ってきたが、それでも彼らは焼け残った倉庫の一角で身を寄せ合っている以外にどうしようもなかったのである。
危険な上に、惨めな思いをさせてしまった。私は日本人として、今でも申し訳なく思っている。
今回、松平図書頭様も拒絶なさるかもしれない。だが今度こそ彼らを助けるべきではないか。
「お奉行様に、お願いしてくる」
同じことを考えていたのだろう。為八郎も即座にうなずいてくれた。
「おいも行く」
二人で駆け出した。
お奉行様がどう判断されるか分からなかった。彼が自身の立場よりも、人命を優先してくれるかどうかにかかっている。
殺伐とした空気が、長崎の夜空にみなぎっている。