第37話 熱帯の豪雨

文字数 3,021文字

 南側の掘割にかかる跳ね橋を渡ると、バタヴィアの城内だった。

 街並みは急ごしらえの感はあるが、想像していたよりずっと整然としていた。考えてみれば、すでに二百年もの間、植民地はその歴史を刻んできたんだ。広い目抜き通りがまっすぐに伸びているのも、当然かもしれない。

 各庁舎の建物は威厳を保ち、必要な商店もだいたいそろっているようだ。
「教会には、マホガニー製の大きなオルガンもありますよ」
 案内の男がこちらを振り向き、得意げに言った。

 大通りは活気にあふれ、多くの人間が行き交っていた。
 オランダ人、ジャワ人がごちゃまぜに歩いている。長い三編みを背に垂らしているのは清人だそうだ。
 狭い路地はさらに混雑していて、すれ違いも難しそうだった。食べ物や煙草の匂いが立ち込め、猥雑な空気が充満している。

 それに気を取られていたとき、急に周囲が暗くなった。
 魔法をかけられたように、大勢の人影が消えていく。
 ぽつん、ぽつんと雨粒が落ちてくる。

 僕たちは慌てて手荷物を頭の上に掲げて走ったが、それをあざ笑うかのように天を切り裂く稲妻が走り、瀑布さながらの雨が地面をたたきつけてくる。この天候の急変には、驚くより他なかった。

「そこだ! その建物に入ろう」
 誰かが叫び、商店の軒先に全員で駆け込んだ。

 椰子の葉が大揺れし、一面に水柱が立っている。
 これが熱帯の豪雨か。見たことのない激しい天象に絶句した。僕はようやく、本国とはまったく違う土地へやってきたことを実感したんだ。

 宿舎で一休みした後に、再び集合することになった。
 
 大広間に社員一同が集まり、待っていると、やがて階段の上に東インド総督ピーテル・ファン・オーフェルストラーテンが側近を伴って現れた。大時代な銀髪巻き毛のかつらをかぶっているので、本国から到着したばかりの若者たちは、たちまち度肝を抜かれてしまった。

 総督は拳をかざし、力強い訓示を垂れた。
「我々は極めて厳しい時代に直面しているが、こんな時こそ誇り高きネーデルラントの底力が発揮されることは、歴史が証明している」
 
 総督は教養をひけらかすように、ゲーテの戯曲『エフモント』の引用を話の中に盛り込み、その昔スペインの圧政に立ち向かったオランダの英雄のようになれと、社員一同を激励した。
 僕は何となく、死んだ祖母に雰囲気が似ているなあと思った。努めて厳粛な気持ちで聞くようにはしたけど、本当は退屈だった。隣では別の若い商務員があくびを噛み殺してたよ。
 
「外の空気は悪い菌だらけだ。出ない方がいいぜ」
 と忠告されたけれど、僕は解放されるとすぐに外出した。何だか建物の中は風通しが悪くて、閉じこもっている方がよほど病気になりそうだった。
 
 雨のやんだ市街地をぶらぶらと歩いた。
 到着時は慌ただしくて、港や中華街の様子をゆっくりと見られなかった。だからそちらにも足を伸ばし、自分の目に収めておこうと思ったんだ。
 
 だがオランダ人がいない地区を目にしたとき、僕は愕然とした。

 城壁の外は、洗濯物のはためく貧民街だ。
 足場の悪い道。排水が滞っていて、腐った食べ物か何かが落ちたままだ。建物に続く階段では一人の老婆が赤ん坊を抱いていたが、その赤ん坊はぐったりとしていて病気ではないかと思われた。

 海の方に目を向ければ、おびただしい数の奴隷が浚渫に動員され、鞭を打たれている。
 そういえば、バタヴィアの港は泥の流れ込みやすい河口付近に造らざるを得なかったと聞いた。ああでもしなければ大型船が入港できないんだろう。
 
 チリウン河には汚物が投げ込まれているのか、辺りには悪臭が漂っている。動物の死骸が川面に浮き、少しずつ流れているさまは地獄そのものだった。
 
 僕が言葉を失い、見入っていると、ふいに背後から声を掛けられた。
「どうだ? ヘンドリック。初めて見る植民地は」
 振り向くと、同じ船に乗ってきた上級商務員のウィレム・ワルデナールさんだった。白髪交じりの巻き毛を風に揺らし、僕と同じように一人で飄々と出歩いている。
 
 ワルデナールさんはもちろんレヘントに属するし、名門レイデン大学出身で、この会社には珍しい学者風の人だ。でも話してみると実に気さくで、僕はこの人になら何でも話せるという気がした。
 
 長い船旅の道中、アントンが倒れてしまったこともあって、僕は誰よりもこのワルデナールさんと話すようになっていた。一口にレヘントと言ってもいろいろだと思う。

「……暑いですね」
 それしか言葉にできなかった。さっきから汗が絶え間なく首筋を流れている。
「さっき雨が降ったのに、全然気温が下がりません」

 ワルデナールさんは、今さら何を言ってるんだとばかりに苦笑した。
「ジャワはちょうど雨期に入ったところだ。これでも暑さはましな方だよ。君も早くこの気候に慣れるんだな」

 聞くからにうんざりだった。というのも、当分の間、僕はここにいると決定しているからだ。
「僕、さっそく総督府に配属となりました。徴税事務の部署だそうです。がっかりです。あなたと一緒に商館勤務をしたかったのに」

 そう言えば喜んでくれるかと思ったのに、ワルデナールさんは表情を変えなかった。
「いや、ヘンドリック。それは幸運だぞ。君の職歴のためには本部詰めの方が有利じゃないか」

 ワルデナールさんは傍の石にどっかりと腰を下ろして言うんだ。
「ドサ回りはヤクザ者のすることだよ。君のような真面目で大人しい若者が行くものではない」

 僕はうつむいてそれを聞いていた。どこか納得できなかった。
 各国に散らばる商館は、金儲けにガツガツしている者が行く所。命がけの仕事であることを、納得ずくで行く所。
 確かにそんな話を聞いたことがあるけど、そういうワルデナールさんご自身も、商館勤務の方をやっているんじゃないか。僕にはやるなって、何だか矛盾しているよな。

 僕はちょっぴり不貞腐れて、正直なところを口にした。
「本部はぬるま湯に浸かってるみたいなもんだって、同期の奴に馬鹿にされました」
「そりゃ、単なるやっかみだな」
 ワルデナールさんはくすくすと笑った。
「ヘンドリック。せっかくの機会なんだから、君はまず植民地経営の全体像を学びなさい。商館回りに出るのはそれからでも遅くはないよ」

「だけど、なるべく早く行きたいんです」
 すがりつく思いでそう言った。
「同じことを言ってる人は、他にもいます。命がけでも東インドに行こうと思ったのは、商館勤務をしたいからであって……」

 つまり私貿易をしたい、財産を作りたいからであって、バタヴィアで病気に倒れるためなんかじゃない。そう言いたかったけど、さすがに口をつぐんだ。総督府もまた労働力を必要としてるんだから、これ以上言ったら印象が悪くなっちゃうかもしれない。

「まあ、希望を出していれば、いつかは通ることもあるだろう。しかし……」
 ワルデナールさんは顎をさすりつつ、僕に釘をさしてきた。
「いずれ第三国に乗り込んで行くつもりなら、覚悟はしておけ。未知の国を探検するようなものだぞ。バタヴィアより死ぬ確率は高いと思った方がいい」

「そんなに危険なんですか」
 僕はあまり信じていなかった。危険、危険と言われるのは、新参者に金儲けをさせまいとする意図がそこにあるんじゃないか?
 だけど、ワルデナールさんは表情を変えなかった。
「危険な事例で分かりやすいのは、バンダレ・アッバースの事件だ。君は聞いたことがあるか」


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