第21話 メリケンの船
文字数 2,542文字
元次郎様は小首を傾けた。
「カピタン様、本当んことばおっしゃっとるんやろうか」
ここへきて不穏なものを感じ、私はちょっぴり身構えた。
何が始まるの? どうしてこの子、ヘンドリックを疑うような言い方をするの?
元次郎様は首を伸ばし、何かを確かめるように二、三歩進み出た。気は進まないけど、私もそれに従ったわ。
倉庫の壁と壁の隙間から、長崎湾が見えた。そして遠目ながら、二隻の船の姿も。
あれはどう見てもオランダの船よ。突端に突き出た柱に、しっかりと三色旗がぶら下がってるもの。
だけど元次郎様はまだ続けるの。
「水夫たちの宿舎も出島にちゃんとあるとに、奴らのことば船に留め置くとは、いささか不自然じゃというわけですたい。とにかく日本人と話のできんようにしとる。たぶん、メリケンの船じゃろうて父は申しとりますばってん、メリケンのことば隠そうとするカピタン様のお考えが分からんとよ。おようさん、何か聞いとられませんか?」
そんなこと、私に分かるわけないじゃない。
よほど元次郎様にそう言ってやろうかと思ったけど、やっぱりやめておいた。だって元次郎様は昔と変わらず、こんな私に接して下さるんだもの。あまり邪険にはしたくない。
それより今の話、私が気になることは他にあったの。だから遠慮なく質問させてもらうわ。
「名村様。メリケンって何ですの?」
「え……ええっ?」
元次郎様は明らかに面食らって、大きく口を開けたわ。
あら私、何か変なことを言った?
だけど元次郎様は、私が知らずとも無理はないと思ってくれたんでしょうね。すぐに気を取り直し、ちゃんと説明してくれた。
「メリケンは海の向こうの大国で、オランダ人はフェー・エスとも呼んどります。エゲリスの植民地から独立したばっかいの、まだ若か国じゃそうです。オランダは戦の最中ですけん、あん国旗ば洋上で掲げとっては攻撃される恐れもありますけん、時にはメリケンのような中立国の船ば雇うことのあっとですよ」
元次郎様は私を馬鹿にすることなく、丁寧に説明してくれたわ。
だけど、ごめんね。残念ながら、私には何のことやらさっぱり。
ただ、この子の声をぼんやり聞いてたら、メリケン、メリケンって繰り返されるその響きから、そういえばと急に思い至ったことがあった。
「ね、デヴィットソン様てゆうお人のおるでしょ? 船長さん。こうゆう、ひげもじゃの」
私は自分の頬に両手で触れて、元次郎様にもじゃもじゃした顎髭を示してみた。
「あん人、アメリカーンて皆さんに呼ばれとりますよ」
案の定と言うべきかしら。元次郎様、はっと目を見開いたわ。
「船長がメリケン人? なら、やっぱりメリケンの船なんじゃろうか」
そういうことは私には分からないけど、とにかくジョン・デヴィットソンって男は厄介よ。いつも酒瓶を片手に酩酊してて、赤ら顔で、私たち遊女に何だかんだとちょっかいを出してくるの。
本当に迷惑よ。こっちは体を触られても抵抗できないから、なるべく彼の居場所を探知してササっと逃げるしかないのよね。あのだらしなさで船長が務まるのかって、女たちはみんな不思議がってるわ。
ヘンドリックや他の商館員の皆さんだってそうよ。表向きは丁重に接してるけど、内心この船長を軽蔑してる。そういうことは私たちにも、すごくよく分かるのよね。
「ついでに申し上げれば、もう一隻の船の方は、デーネマルケンて呼ばれとりますよ。ブレーメンてゆう名前もよく出てきますよ。こうゆうのも国の名前かしらね?」
「おようさん、すごか!」
元次郎様は目を輝かせた。
「言葉の分からんのに、ようそこまで聞いとられますね」
「だって〜。皆さん、声のふとかですもん」
私は肩をすくめてふふっと笑っちゃったけど、一方でああそうか、とも思ったわ。
位の高い通詞様たちも、出島ではほとんど単独行動が許されてないみたいなの。たいていは出島乙名や何かの、他の地役人と連れ立って歩いてるわ。互いの監視の下で、短時間しかオランダ人に会えないようになってるみたい。
それに比して、私たち出島の遊女は彼らと寝食をともにしてるんだもの。確かに会話は不自由だけど、何となく感じ取れることはたくさんあるわ。それこそお役人様たちの比じゃないぐらい。
「また何かあったら教えてくれんね、おようさん」
元次郎様が頭を下げるもんだから、こっちは恐縮しちゃったわ。
「うちなんか、何のお役にも立てません」
「そがんこと、なかですよ」
元次郎様と別れて歩き出した時、私も少しぐらいオランダ語を覚えたいなって思った。ヘンドリックだって、その方がきっと喜んでくれる。
そう思ったまさにその時、頭上から彼の声が降ってきた。
「オリオノ!」
いつの間にか、私は遊技場の前まで来てたの。
仕事が一段落したのか、ヘンドリックが露台に出て手を振ってる。
私は見上げ、そして呼吸を止めた。
愛しくてたまらない、彼の姿だった。
そう、認めるわ。私も今、ヘンドリックに夢中になってる。姿かたちのまるで違う異国の男に、生娘みたいにのめり込んでる。こんな気分、久しぶりよ。
分かってる。恋が燃え立つのは一瞬のこと。はかないものよ。
でもそうであるからこそ、私は今この喜びを噛み締めたいの。自分が今生きてることを実感したいの。
私は彼がどこから来て、どこへ行く人なのか知らない。知らないけれど、私たちの人生は今ここで交錯してる。その奇跡を思うの。信じられないことだって思うの。
だから全身で喜んだっていいでしょう? あとで泣いたっていい。傷ついたっていいから、私は今この人を愛したいの。
曇り空がいつしか晴れ渡り、周囲の緑が燃え立ってる。何もかもが光を浴びて輝き、私にもその光がまっすぐに降り注いでる。
着物の裾をたくしあげて玄関に飛び込んで、私は呼吸も忘れる勢いで階段を駆け上がった。
ヘンドリックの声。ヘンドリックの匂い。すべてが胸を締め付けるの。泣きたいような気持ちになるの。
ヘンドリックは部屋の扉を開け、笑顔で待っててくれた。
私は駆け上がってすぐにその首に飛びついた。彼は少し後ろによろめきつつも、しっかりと抱きとめてくれたわ。
扉が閉まるまで待つこともできず、私たちは夢中で唇を交わし合ってる。
「カピタン様、本当んことばおっしゃっとるんやろうか」
ここへきて不穏なものを感じ、私はちょっぴり身構えた。
何が始まるの? どうしてこの子、ヘンドリックを疑うような言い方をするの?
元次郎様は首を伸ばし、何かを確かめるように二、三歩進み出た。気は進まないけど、私もそれに従ったわ。
倉庫の壁と壁の隙間から、長崎湾が見えた。そして遠目ながら、二隻の船の姿も。
あれはどう見てもオランダの船よ。突端に突き出た柱に、しっかりと三色旗がぶら下がってるもの。
だけど元次郎様はまだ続けるの。
「水夫たちの宿舎も出島にちゃんとあるとに、奴らのことば船に留め置くとは、いささか不自然じゃというわけですたい。とにかく日本人と話のできんようにしとる。たぶん、メリケンの船じゃろうて父は申しとりますばってん、メリケンのことば隠そうとするカピタン様のお考えが分からんとよ。おようさん、何か聞いとられませんか?」
そんなこと、私に分かるわけないじゃない。
よほど元次郎様にそう言ってやろうかと思ったけど、やっぱりやめておいた。だって元次郎様は昔と変わらず、こんな私に接して下さるんだもの。あまり邪険にはしたくない。
それより今の話、私が気になることは他にあったの。だから遠慮なく質問させてもらうわ。
「名村様。メリケンって何ですの?」
「え……ええっ?」
元次郎様は明らかに面食らって、大きく口を開けたわ。
あら私、何か変なことを言った?
だけど元次郎様は、私が知らずとも無理はないと思ってくれたんでしょうね。すぐに気を取り直し、ちゃんと説明してくれた。
「メリケンは海の向こうの大国で、オランダ人はフェー・エスとも呼んどります。エゲリスの植民地から独立したばっかいの、まだ若か国じゃそうです。オランダは戦の最中ですけん、あん国旗ば洋上で掲げとっては攻撃される恐れもありますけん、時にはメリケンのような中立国の船ば雇うことのあっとですよ」
元次郎様は私を馬鹿にすることなく、丁寧に説明してくれたわ。
だけど、ごめんね。残念ながら、私には何のことやらさっぱり。
ただ、この子の声をぼんやり聞いてたら、メリケン、メリケンって繰り返されるその響きから、そういえばと急に思い至ったことがあった。
「ね、デヴィットソン様てゆうお人のおるでしょ? 船長さん。こうゆう、ひげもじゃの」
私は自分の頬に両手で触れて、元次郎様にもじゃもじゃした顎髭を示してみた。
「あん人、アメリカーンて皆さんに呼ばれとりますよ」
案の定と言うべきかしら。元次郎様、はっと目を見開いたわ。
「船長がメリケン人? なら、やっぱりメリケンの船なんじゃろうか」
そういうことは私には分からないけど、とにかくジョン・デヴィットソンって男は厄介よ。いつも酒瓶を片手に酩酊してて、赤ら顔で、私たち遊女に何だかんだとちょっかいを出してくるの。
本当に迷惑よ。こっちは体を触られても抵抗できないから、なるべく彼の居場所を探知してササっと逃げるしかないのよね。あのだらしなさで船長が務まるのかって、女たちはみんな不思議がってるわ。
ヘンドリックや他の商館員の皆さんだってそうよ。表向きは丁重に接してるけど、内心この船長を軽蔑してる。そういうことは私たちにも、すごくよく分かるのよね。
「ついでに申し上げれば、もう一隻の船の方は、デーネマルケンて呼ばれとりますよ。ブレーメンてゆう名前もよく出てきますよ。こうゆうのも国の名前かしらね?」
「おようさん、すごか!」
元次郎様は目を輝かせた。
「言葉の分からんのに、ようそこまで聞いとられますね」
「だって〜。皆さん、声のふとかですもん」
私は肩をすくめてふふっと笑っちゃったけど、一方でああそうか、とも思ったわ。
位の高い通詞様たちも、出島ではほとんど単独行動が許されてないみたいなの。たいていは出島乙名や何かの、他の地役人と連れ立って歩いてるわ。互いの監視の下で、短時間しかオランダ人に会えないようになってるみたい。
それに比して、私たち出島の遊女は彼らと寝食をともにしてるんだもの。確かに会話は不自由だけど、何となく感じ取れることはたくさんあるわ。それこそお役人様たちの比じゃないぐらい。
「また何かあったら教えてくれんね、おようさん」
元次郎様が頭を下げるもんだから、こっちは恐縮しちゃったわ。
「うちなんか、何のお役にも立てません」
「そがんこと、なかですよ」
元次郎様と別れて歩き出した時、私も少しぐらいオランダ語を覚えたいなって思った。ヘンドリックだって、その方がきっと喜んでくれる。
そう思ったまさにその時、頭上から彼の声が降ってきた。
「オリオノ!」
いつの間にか、私は遊技場の前まで来てたの。
仕事が一段落したのか、ヘンドリックが露台に出て手を振ってる。
私は見上げ、そして呼吸を止めた。
愛しくてたまらない、彼の姿だった。
そう、認めるわ。私も今、ヘンドリックに夢中になってる。姿かたちのまるで違う異国の男に、生娘みたいにのめり込んでる。こんな気分、久しぶりよ。
分かってる。恋が燃え立つのは一瞬のこと。はかないものよ。
でもそうであるからこそ、私は今この喜びを噛み締めたいの。自分が今生きてることを実感したいの。
私は彼がどこから来て、どこへ行く人なのか知らない。知らないけれど、私たちの人生は今ここで交錯してる。その奇跡を思うの。信じられないことだって思うの。
だから全身で喜んだっていいでしょう? あとで泣いたっていい。傷ついたっていいから、私は今この人を愛したいの。
曇り空がいつしか晴れ渡り、周囲の緑が燃え立ってる。何もかもが光を浴びて輝き、私にもその光がまっすぐに降り注いでる。
着物の裾をたくしあげて玄関に飛び込んで、私は呼吸も忘れる勢いで階段を駆け上がった。
ヘンドリックの声。ヘンドリックの匂い。すべてが胸を締め付けるの。泣きたいような気持ちになるの。
ヘンドリックは部屋の扉を開け、笑顔で待っててくれた。
私は駆け上がってすぐにその首に飛びついた。彼は少し後ろによろめきつつも、しっかりと抱きとめてくれたわ。
扉が閉まるまで待つこともできず、私たちは夢中で唇を交わし合ってる。