第18話 彼の子ども

文字数 2,711文字

 雷に打たれたような気がしたわ。
 何を怒られるのかわからないけど、お客様をお待たせすることは許されない。私はすぐに馳せ参じ、ヘンドリックの前で頭を垂れたわ。

「……はい。何でございましょう」
 言いながら、私は鳥肌が立つ思いだった。どんな恐ろしい事態になるんだろうって、もし殴られるなら咄嗟に目はつぶろうって、そのぐらいに思ってた。

 だけどヘンドリックはニコニコしてて、ただ娘の頭を撫でて指し示すのよ。
「おもん。僕、の娘」
「はい……」

 私は恐る恐る目を上げ、女の子に向かって笑おうとしたけど、どうしても顔が引きつっちゃったわ。
 だってそうでしょ? 遊女がどんな顔をして、客の子供と向き合えばいいって言うのよ。

 だけどヘンドリックはなぜか子供向けの赤本を持ってて、私にそれを押し付けてくるの。
 私は意味が分からないまま、反射的に受け取ってしまった。

 表紙を見て、あらっと思った。
 日本の昔話よ。ヘンドリックはこんなの、どこで買ったのかしら。
 すると彼は、長椅子を親指で示してこんなことを言い出したの。
「あ〜、オリオノ、読む。おもん、言葉、覚える。ね?」

 私は目を見開いたわ。
 この人、あそこで絵本の読み聞かせをしろって言ったのよ。
 信じられる? 丸山の太夫に向かって子守をしろ、ですって!

 何てことでしょ。ヘンドリックは、遊女には何を命じてもいいと思ってるのかしら。お金さえ払えば何でも許されると思ってるのかしら。
 違うのよ? 同じ遊女でも大夫となれば、客の方が敬意を払うべきなの。まったく異人は常識がなってないんだから。

 それに、男の身勝手ってやつよね。どこの国の男も、女が子供を可愛がるのは当たり前と思うのかしら。私は子供なんて大嫌いだし、子供を欲しいと思ったこともないのに。

 でも、ヘンドリックがちょっとの間、仕事に集中したいっていうのは分かる。それに私の方だって、ぶらぶらしてても仕方がなかった。一定の役目が与えられた方が楽かもしれない。

 ここは女中になったつもりで、この親子に仕えてみるのもいいかって思ったの。馬鹿みたいだけど、客の機嫌を取れるのならこれも仕事のうちよ。
 ま、いいわ、読み聞かせぐらい。
 そう思って、私は優しさを装って子供に話しかけたわ。

「……では、お嬢様。こちらへどうぞ」
 するとまあ生意気なこと! おもんは少し警戒するような目で、じろっと見上げてきたわ。
 私が子供慣れしてないのを見抜いたのね。何て可愛げのない子かしら。

 私は内心苛立ちながら、それでも手を差し出したわ。さすがにヘンドリックの目の前で抵抗されたら立場がないもの。
 だけどおもんが素直に従い、私の手を握り返してきた時、そのふにゃっとした感触に私は息が止まりそうになった。

 子供の手って、こんなに小さかったっけ。
 
 それは温かくて、柔らかくて、とにかく生きていることを実感させるものだった。この子は間違いなく、今ここに生きてたわ。触れるだけで心が救われるような強さがそこにあったわ。

 私が命を奪ってきた子供たちのことを思った。彼らはまるで生命というものを感じさせなかった。その生命力が立ち上がる前に、私が断ち切ってしまったから。それが改めて、言い知れぬ痛みとして私の胸にせり上がってくる。

 ヘンドリックは子供から解放されて、ほっとしたように仕事に戻っていったわ。
 私の方は、面倒を押し付けてくるヘンドリックに対して、わずかに憤りを覚えた。
 
 ひどいものよね。あの人、おもんに日本語習得を求めてるのよ。日本で生きていくための力を身に着けさせようとしてるのよ。
 それは一つの厳しい現実を意味してる。彼に帰国命令が出たそのとき、この子は日本に置いていかれるのよ。

 これまた残酷な話だわ。
 ヘンドリックは長く日本にいるのよね? だったら日本で生まれた子が出国できないことも、混血児が差別されながら一人ぼっちで生きていかねばならないことも、知ってたわよね?
 いいえ、知らなかったとは言わせない。自分が面倒を見られないなら、産ませるべきじゃなかったのよ。

 将来この子はまず遊女にされるわ。今の丸山にも何人かいるけど、西洋人に近い容姿の娘はおあつらえ向きの「オランダ行き」なのよ。
 そう、この子だってやがては良い稼ぎ手として重宝されるでしょうよ。

 だけど長椅子に腰かけると、そんな寒々しいことを考え続けてはいられなかった。
 当のおもんは早く読んでくれとばかりに、期待を込めたまなざしを私に向けてくるんだもの。

 仕方がないわよね。私は彼女に微笑みかけ、表紙から声に出して読み始めたわ。

 それは「鉢かづき」の物語だった。
 鉢が頭から取れなくなって苦労して育った娘が、裕福な宰相の御曹司に出会って恋に落ちる。そのとき奇跡が起きて鉢が割れ、娘は美しい女に成長してる。二人は結婚して幸せに暮らす。
 ああ、馬鹿らしい。ありえない話よね? くだらなくて笑っちゃうわ。

 でもヘンドリックは娘の幸せを願ってこの本を選んだんだなって思った。沁みるようにそう感じたわ。
 女の子の父親ってそういうものかしら?
 いや、違った。うちの父みたいな、ふざけた父親もいるんだった。

 雑念は努めて振り払い、私は最後まで丁寧に読み進めた。
 おもんは熱心に聞き入ってくれたわ。ぴたっと私に体をくっつけて、これでもかってぐらい、本の世界に入り込もうとしてた。
 それは不思議と暖かくて、くすぐったいひとときだった。
 
 読み終えると、私は手を伸ばしておもんのやわらかな髪を撫でた。父親のまっすぐ過ぎる剛毛とは違う、艶のある巻き毛だわ。
 彼女はきらきらした目で私を見上げてきたけど、その美しさが余計に残酷に思われた。いつかこの子はその澄んだ瞳を、自分を踏みにじる相手に向けなくちゃならないんだから。

「四さい」
 何も聞いてないのに、おもんは突然、四本の指を見せて答えたわ。私が自分を見てるから、そうすべきだと思ったんでしょう。
「そ、そう。四歳なの」
 私はまたぎこちなく、笑顔を作った。
「日本語、上手ね」

 そう言った途端、胸が震えて泣き出しそうになってしまった。私がもし普通の年頃で嫁に行くなり、婿を取るなりしていたら、このぐらいの子がいてもおかしくないんだもの。

 私だって。
 ありったけの声で、私はそう叫びたくなった。

 私だって、好きな人と結婚して、可愛い赤ちゃんをこの手に抱きたかったわ。毎日毎日その子を抱きしめ、その子を見守り、小さな成長の一つ一つを喜びたかったわ。病気の時は本気で心配して、代わりに死んであげたいと思うほど苦しんで、それでもその苦しみが喜びだと思えるような日々を送りたかったわ。

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