第42話 オリオン

文字数 3,008文字

 要塞内に、打ち捨てられた武器庫があった。
 薄暗くて、蜘蛛の巣だらけ。長い間、掃除もなされていないような場所だったが、人目につかないのは好都合だった。
 僕はその一角に蚊帳を張り、少年を寝かせることにした。

 要塞に駐留する医師は口が堅くて、信用できる人だった。だから僕、こっそり事情を打ち明けてみたんだ。
 この人は相手の身分が低かろうと、分け隔てなく診てくれる。僕がどうすべきか的確な助言をくれるはずだった。

 思った通り、彼はちゃんと診察に来てくれたよ。これだけで、僕は感謝の思いでいっぱいになった。少年は助かるんじゃないかと、根拠のない希望を持ったぐらいだ。

 それでも、やはりと言うべきだろうか。彼の診察時の様子は、オランダ人を診る時より明らかに冷たかったんだ。
 この件にはあまり関わりたくない様子で、僕のこともどこか軽蔑のまなざしで見てるみたいだった。余計なことを、と内心では思ってたのかもしれない。

「この子、熱帯熱のマラリアだぞ。どうするんだ。ずっとここで匿う気か」
 他人事のように言われ、僕はうまく答えられなかった。
 少年はやはり助からないだろうと思った。
 世の中ってこんなもんだ。このぐらいの冷たさが普通なのかもしれない。

 だけど、この件でかえって覚悟ができたよ。今さら誰かを恨んだりはしない。自分がやったことだ。何かあったら自分で責任を取るしかないもんな。

 僕はただ、今自分にできる範囲のことをやるのみだった。高熱に苦しむ少年の額の汗を拭い、神に祈り、意識が戻れば水を飲ませた。
 何をどうするっていう見通しもない。ただ看取ってやるつもりだった。それがごく普通のオランダ人にできる、精一杯の行動なんじゃないだろうか。
 
 だけど、奇跡は起きた。
 少年の熱は日に日に下がり、目に光を取り戻していったんだ。
 気づけばある朝、彼は起き上がって自力で水を飲んでいた。傍らでうつらうつらしていた僕は、はっと気づいて身を起こしたんだが、最初は夢でも見てるのかと思ったよ。

 そこには信じがたいほどの命のしぶとさがあった。神のお導きに違いない。
 僕はありったけの思いで感謝をささげたよ。斜めに差し込む日光に向かい、何度十字を切ったか分からない。

「おお神よ、感謝します。病気を通して魂をさまし、祈りの人へと変え……」
 あまりに感無量で、言葉が途中で出てこなくなった。
 あれ? 祖国では幾度となく唱えていた祈りの言葉を忘れてしまうなんて。
 いやいや、すぐに思い出したさ。ここでは病気が治った本人の名を唱えるんだ。

 僕は少年の顔を覗き込んだ。
「ええと、君の名を聞いていなかったね?」

 ところが、少年は可愛らしい声で答えたんだ。
「ムハマッド」

 僕はぎょっとした。それって異教の聖人の名じゃないか!
 
 これはいけないと思った。直ちにこの子に改宗をうながしてやらねばならない。教会に連れて行き、キリスト教の洗礼名を与えてやるべきだ。それが正しいこと、慈悲深いことであるはずだ。
 だって僕が祈ったのは、この子の信奉する神じゃなかったんだよ? 病気の治癒は、こっちの神様のお陰に決まってる。

 しかしなぜだろう。そのとき、僕の中で迷いが生じた。
 
 何かが違うという気がする。それは、やってはならないことだという気がする。

 僕は激しく自問自答した。
 この子はすでに金で売買され、人間としての扱いを受ける権利を失っている。お前はこの上、この子の本質をなす信仰と名前を奪うのか? それはむしろ、敬虔なドゥーフ家が守り抜いてきた福音書の真実に歯向かう行為なんじゃないか?

 僕は自分の手を見つめた。どうしていいかわからなかった。
 わからないし、何の根拠もない。でもこの直感の方を信じようと思った。ここに血となって流れる先祖もきっと反対しない。そう思った途端、単なる直感は確信に変わった。

 だから僕は、何も言わずにその手を伸ばし、ムハマッドの頭をなでたんだ。
「……立派な名だ。大切にするんだよ」
 
 これで僕は、自分に染み付いてきた信仰と一定の距離を置かねばならなくなってしまった。決して信仰を捨てるわけじゃないが、これからの人生において盲目的に一つの価値観に振り回されることはもうないだろう。

 もちろん、自分にそんな生き方ができるかどうか分からなかった。人間の直感なんて当てにはならない。行動の指針を失い、まるで地図のない世界を旅するようなものだ。

 だけどもしかしたら、死と隣合わせになったその時こそ、生はその色を濃くするんじゃないだろうか。少年ムハマッドが命をとりとめたその日の夕刻、僕は一人でベルギカ要塞の屋上に上がったが、そのとき今ここで生きているという実感が奇妙なほど湧いてきた。
 
 目の前に南半球の熱帯の空があった。
 太陽が西に沈み、世界がオレンジ色から鮮やかな紫色へと変化していく。沈んだ太陽を追いかけるように冬の星座が上り、それは暗くなるにつれ、粉を散らしたような華やかさへと姿を変えていく。
 
 ふと、船上で六分儀と海図に向き合っていた航海士たちの様子を思い出した。航海術がだいぶ発達してきた今も、大海をさまよう船はやはり星によって自らの位置を悟り、進むべき方向を見出していた。
 
 そうだ、星だ。
 僕はもう一度夜空を見上げた。星に導かれる人生も、悪くはないんじゃないだろうか。
 
 そのとき目に飛び込んできたのが、上下逆さのオリオン座が強烈に冴えわたっている姿だった。強い生命力に満ちた姿が、僕を最もふさわしい場所へ連れて行ってくれるかもしれない。その思いはやはり、確信に近い形で僕の胸を占めることとなった。
 オリオンを自分の羅針盤にしよう。このとき僕はそう胸に刻んだんだ。
 
 だけど、現実の僕は情けないほど無力だった。ムハマッドの回復は幸運というべきだったが、その先は何の支えにもなってあげられない。僕にできるのはここまでだ。
 出会った畑の道まで連れていくと、僕は少年に懇々と言い聞かせた。
「ここでさよならだよ。さ、自分の村に帰れ」

 だがどんなに追い払おうとしても、小さなムハマッドは泣きながら僕を追ってきた。僕の腰にすがりついて、離れてくれなかった。
「……旦那さま。お優しい旦那さま。置いて行かないで下さい。僕、何でもしますから」

 ムハマッドは、泣きながら言うんだ。自分の家族は離散してしまった。村に親戚は残っているが、帰ったところで、再び奴隷業者に戻されるだけだと。

 僕はあまりの痛ましさに、両目をぎゅっと閉じた。
 ああそうだろう。それが原住民に対し、オランダ人のもたらした現実だ。

 でも僕は召使いを抱えるような身分じゃない。だからこう怒鳴りつけるしかなかったんだ。
「いいから、帰りなさい!」
 
 僕はムハマッドの手を振り切り、足早にその場を離れた。置き去りにしてでも、もはやこの問題から手を引くべきだった。
 だが少年のか細い泣き声は、どこまでもしつこく僕の耳を追いかけてくる。僕は目を閉じ、首を振った。あの子のことはもう忘れようと自分に言い聞かせた。
 たまらなくなって足を止め、また歩き出す。それを何度も繰り返した。
 
 結局引き返した。
 駆け寄って、僕は無言でムハマッドを抱きしめた。抱き合い、二人とも大声を上げて泣いたんだ。
 
 だから奴隷など助けるべきではなかったのに、と人は言うだろう。だがここまで来てしまったからには、もう戻れない。

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