第19話 子育て試行錯誤

文字数 3,227文字

 ヘンドリックの側で暮らし始めた私は、心のどこかに乾いた諦念を抱えつつも、自分に求められる役割はちゃんと果たしていった。
 そう、遊女の仕事だけじゃなくて、子守もやったのよ。

 はっきり言って大変だったわ。
 おもんっていう子は、やたらと手がかかるの。子育て経験のない私だけど、これは半端じゃないっていうのは分かったわ。普通の子の何倍も苦労させられるのよ。

 泣いて暴れて、こっちがあやしてあげると顔を引っ掻いてきたり、髪を引っ張って抜いたり。まったく割に合わないわよ。

 しかもこの子、自分が放置されるのもまた我慢ならないみたい。
 おもんは、大事なことはちっとも自分でやろうとしないくせに、大人の気を引くための行動は積極的にこなした。怪我でもしたみたいに大声を出したり、向こうの部屋でガシャーンと何かをぶちまけたり。
 大きな音を出せば、誰かが慌てて駆け付けてくるのを分かってるのね。

 しかもヘンドリックに叱られると、おもんはさらに癇癪を起こしてしまうの。そりゃもう、手が付けられないほどひどいのよ。
 お漏らし、激しい食べこぼしは毎度のこと。
 おもんが汚れた手で大事な書類に触ってしまい、ヘンドリックが急ぎの仕事を中断して叱りつける、なんていうこともしばしば。ほんと、並大抵の子じゃないわ。

 それでもね。
 私はおもんを見ていると、不思議なほどつらい現実を忘れられた。幼児の面倒を見るのは確かに大変だけど、その笑顔からもらえるものも大きいのよ。
 だからおもんを避けようとは思わなかった。ヘンドリックにあれこれ押し付けられることも、さほど嫌だと思わなかった。

 丸山の朋輩たちは、こんな私を馬鹿だって言うでしょうね。客の子供をかわいがったところで、見返りは何もないのにって。
 自分でも思うわ。私ったら何という都合の良い女になっちゃったんだろうって。

 だけどね、おもんに抱っこをせがまれるたび、おもんと何かが通じ合えたと思うたび、私は小さな喜びを感じるの。こんな自分でも生きてて良かったって思えるの。
 日々成長する子供を見るってことは、輝く若緑の木々を眺めるのと同じ。そこから生命力を分けてもらえるのよ。

 そうやって前向きに捉えることが、あるいは功を奏したのかもしれない。
 ヘンドリックはその後も遊女の取り替えを希望しなかった。高い揚代にも関わらず、私の滞在は延びに延びたわ。

 何度も呼ばれるどころか、最初の訪問から帰らせてもらえずにいる形よ。
 もちろん京屋は大儲け。
 旦那様はたいそう満足していらっしゃるようで、この調子でうまくやれといったような書状が届いたわ。でも何だか、今の私には別世界の出来事のような感じだった。

 それと、もう一つ。ヘンドリックを見る時の自分の意識が、変わってきたように思う。
 だって私が目にしたのは、まさかまさかの男の子育てだったのよ。
 
 使用人の手も借りてるとはいえ、ヘンドリックは本当に一人で娘を育ててたの。食事も排泄も、自分の手を汚してずいぶんと世話をしてるわ。
「旦那サマ、ずっとお嬢サマの相手、しとる。大変よ」
 ムハマッドも片言の日本語で、主人をそうほめてたわ。

 そう、ムハマッドもそれなりに日本語を操り、私と話をしてくれるのよ。私としてはそれも幸運だったと思う。

 私はムハマッドと一緒に片付け物などをしながら、ヘンドリックの話を聞くことができたわ。ほんと、彼には助けられた。

 交易事務の多い夏、商館全体が本当に忙しいものなんですって。ヘンドリックも子育てに割く時間がなかなか取れないので、ムハマッドがおもんの相手をすることが多いんですって。

 でも他の季節、船が来ていない時は、商館の仕事ってあまりないみたいね。ヘンドリックがほとんど一日中、子供の相手をしていることも多いそうよ。
 だからその時は、ムハマッドも子守から解放されて、遊ぶことが許されてるんですって。

「ハタ揚げ、面白か」
 ムハマッドは大げさな身振りをつけて、本当に楽しそうに話してたわ。
「ジャワにも、ハタ揚げ、あるよ」
「あら、ムハマッドはハタ揚げをやったのね!」
 私は南国の少年と手を取り合って喜んじゃった。
 そう、長崎の凧あげは独特よ。高く揚げるんじゃなくて、相手の糸を切る合戦形式なの。多くの人々がお酒を持ち寄って、そりゃもう賑やかなんだから。

 今は夏だけど、ヘンドリックは仕事の合間をぬって、ここぞとばかりに父親になり切ってる。子供に付き合わされ、子供に振り回されることを苦痛だと思わないみたい。
 おもんが育てにくい子だからこそ、ヘンドリックの我慢強さは間違いないと思ったわ。

 おもんの生まれながらの性質は、変えられないのかもしれない。
 だけど私は太夫だもの、人の感情を読み取るのは得意な方よ。相手が子供だって同じことだと思う。怒りや悲しみを和らげる方法なら、何とか見つけられるような気がしたわ。

 私はおもんに根気よく語りかけ、誘導を繰り返した。
「お嬢様。ほら、ご自分でやってみましょう。そう、ばり、お上手ばい」
 おもんは外からの強制にはあまり反応しない子だし、動きもにぶかった。当然ながら、なかなか成果なんて出るもんじゃない。
 でもすぐにあきらめるものでもないわ。きっとこの子、私の声は聴いてくれてる。
 
 私は所詮、遊女だから、ヘンドリックは私のやり方に不満があるのかもしれない。私がおもんにかかりきりになると、何だか戸惑ったような目つきで見つめてきてたわ。
 そして、直接感謝の言葉をもらえることはなかった。私が途中で嫌になって放り出すんじゃないかって、疑っているようなふしもあったわ。

 でもある日、ムハマッドがこっそり言いに来てくれたの。
「旦那サマ、助かる、て、ゆうてましたよ」
 少しほっとしたわ。どこまで本気で言ってくれてるのか分からないけど、私が子供の相手をしている間、ヘンドリックはとりあえず仕事に集中できてるのよ。一定の信頼関係は生まれたってことだと思う。

 そしておもんとの間には、別の確信も芽生えてきたわ。実際におもんが生き生きしてきたように感じるのよ。
 子供には常に自分に働きかけてくれる存在が必要なのよね。愛情に包まれていると感じて初めて、子供は元気に外で遊べるのよ。
 
 だけどそうなると、逆に私の方がヘンドリックの子育てに必ずしも賛成できなくなってきた。
 ヘンドリックは仕事に疲れると、おもんを溺愛することで自分を慰めてる。周囲の商館員たちも何かとおもんを構い、遊んでやってる。もう、甘やかし放題と言っていい状態よ。
 それらのほとんどすべてが、気まぐれに過ぎないの。子育てのいいとこ取りをしてるとも言えるわ。

 先日も、おもんは食後に嘔吐してしまったんだけど、ヘンドリックはすぐにムハマッドを呼んで、彼に掃除をやらせてたわ。で、汚れた衣類の始末は私。
 ヘンドリックは心配そうに娘の容態を気遣ってたけれど、触れたくないものには触れない。ちょっとずるい感じはしたわね。

 おもん自身は、ここの生活をどう感じてるのかしら?
 私はそこも気になるの。

 この子には友達がいない。しかもこの子、出島から一歩も出られない。
 カピタンのお嬢様として大事にされればされるほど、日本に一人捨て置かれた時の落差は大きくなるわよね。それって、かえって残酷なんじゃないかしら?

 もちろんヘンドリックに向かって、そういった批判を口にできるはずはない。私はただ子供から目を離さずに付いて歩いてるわ。
 おもんは時々、私を振り向いてニコっと笑うの。自分が一人じゃないのを確認して、安心したいのね。
 だから私も必ず、笑い返すことにしてる。ちゃんとここにいるわよって、おもんに伝えることにしてる。

 無垢な少女は、私がどんな女なのかをまだ知らない。将来自分にふりかかってくる、おぞましい悪夢もまだ知らない。
 機嫌が良いのか悪いのか、にわかには判別し難いおもんの叫び声が、今日も出島にこだましてる。

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