第55話 もう隠せない

文字数 3,304文字

「お一人ですが、お通ししてもよろしいですか」
 簿記役アヘ・イヘスが机の向こうから僕を見下ろしている。
 アへはジャワ系の血が入った現地採用の青年で、とても優秀な男だ。バタヴィア総督府で職歴を積んだ後、日本に来たという点は、僕と同じである。

「……タキチロー・ナムラが来た、と言ったか?」
 僕は机にパイプを置き、静かに煙を吐いた。知らず、身構えている。

「ええ、確かに名村様ですよ。いらっしゃったのは」
 アへは小首をかしげてそう答えた。
「どういう手続きを取ったんでしょうね。お一人だなんて」
 
 先日僕がタキチローと言い争ったことを、アへは知らない。今さら何だ、また僕を責めにきたのかと、僕の代わりに言わせるわけにもいかなかった。

「……確かに珍しいな。よろしい。通してくれたまえ」
 平静を装ってそう言ったけど、僕はどんな顔をしてタキチローに会うべきか、考え込んでしまった。

 タキチローはやがてアへの案内で入ってきたが、彼の方も緊張で身を固くしているようだった。いつも以上に肩を怒らせて歩いている。

「タキチロー。うれしいよ。よく来てくれた」
 僕は立ち上がり、両手を広げて出迎えた。以前と同じような距離感を演出したつもりだ。
 だがタキチローの方は、相変わらず臨戦態勢を崩さない。

「……すみませんが、彼に席を外すよう言って頂けませんか」
 彼は伏し目がちに、アへを指し示した。

 アへは戸惑ったようにこちらを見、僕は仕方なくうなずいた。
 他の者がいては言えない話か。たぶんまた僕を責めてくるんだろうな。

 気まずい沈黙が流れる。僕はまたパイプを吸おうかと思ったが、タキチローは立ったままだ。遠慮しておいた方がいいだろう。

 タキチローはアへの足音が階段下に消えていくのを待って、ようやく口を開いた。
「今日参ったのは、ご老中様のお下知ではなく、あくまで私自身の疑問を解消するためです。二、三、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

 気は進まないが、断れるわけがない。僕はゆっくりと、椅子の背に身を預けた。
「……どうぞ」

「では一つ。あなた方の主君であるオラニエ公はなぜ、ネーデルラントにいないのですか。今はどこにいらっしゃるのですか」
 それからもうひとつ、とタキチローは矢継ぎ早に言う。
「隣国の皇帝の弟が、ネーデルラント国王になっているというのは本当ですか」

 僕の目の前に、ナイフが吊るされたようだった。

 どうして彼は、この閉ざされた島国に暮らしながら、こうも核心を突くことができるのだろう。情報は少なく、入ってきたとしても信頼性は薄いだろうに、タキチローはそこから真実を洗い出すことができる。大した嗅覚だ。

「……ロシア人の捕虜から聞いたんだな」
 やっぱり落ち着いて話すことなどできない。僕はパイプを取り上げたが、彼の前で吸うわけにもいかず、意味もなくいじくり回した。
「まったくどこの国にも、おしゃべりな奴がいるもんだ」

 タキチローは否定せず、視線をわずかに横ヘ反らしただけだった。
「カピタン。私は、あなたとの友情を信じています。だが、それはあなたが包み隠さず、真実を伝えてくれた場合に限られる」
 
 彼もまた悲しんでいることが、ふいに伝わってきた。
 むしろタキチローに感謝すべきかもしれなかった。彼は幕閣に告げ口することなく、先に僕を問いただしに来てくれたんだ。
 
 もう、嘘を突き通す時代ではないのかもしれない。
 ふとそう思った。僕だけじゃない。長崎に来るオランダ人の誰もが、いつかこんな日が来ることは知っていたんじゃないだろうか。

 オランダの嘘は伸びに伸びて、もはや薄い皮膜のようになってしまった。もう限界だ。ひとたびプチンと針を突き刺せば、それは直ちに破られ、真実の姿を晒す。
 それをやるのは僕だ。

 一抹の寂寥感とともに、僕は覚悟を決めた。タキチローに洗いざらい打ち明け、一緒に善後策を考えてもらった方がいい。
 もちろん一つの賭けだ。これで取り返しのつかないことになるかもしれなかった。
 思い切ってタキチロー、と呼びかけた時、僕の手は明らかに震えていた。

「君の察したとおりだ。ネーデルラントは隣国フランクリクに占領され、その属国となった。政治を動かしているのは自国人だが、今のネーデルラントにまったく自由はない」

 日本人にこれが理解できるかな、と思ったが、タキチローは十分に衝撃を受けたらしく、目を大きく開いて僕を見ていた。
 僕はうなずき返す。

「そう。我々の祖国はもはや独立国とは言えない。ヤパンにこれほど大事にしてもらえる国じゃないんだ。君たちにとって付き合うに足る相手国は、他にいくらでもあるだろう」
 振り絞るように言い、僕は立ち上がった。
 そして見上げたのは、背後の世界地図だ。

「見てくれ、タキチロー」
 顎でうながすと、彼はためらいながらも机を回り、僕の横へと進み出てきた。

「海外領地はもっとぼろぼろだ。ここも、ここも、ネーデルラントの手を離れた」
 次々と地図を指さすほどに、僕は泣きたくなってきた。

 樽の栓を抜かれてしまったかのように、祖国の利益が流出している。しかも一つ一つの穴を開けたのは、いずれもイギリスだった。
 僕の足元から煮えたぎるような怒りが湧いてくる。何もかも、ぶち壊したくなってくる。

「エンガラント!」
 僕はがん、と拳を地図にぶつけた。
「まるで海賊行為だ。我が国の船を襲い、人を傷つけ、積荷を奪う。あの国のお陰で僕たちはどれほどの損害を被ったか」

 壁に手を押し付けたまま、僕はくずおれそうになった。
 いや、わかってるよ。イギリスは歴史上何度も、オランダによってジャワ方面への野望をくじかれてきた。オランダの国力が衰退すれば、それを好機ととらえて再進出を図るのはむしろ当然だろう。オランダだって歩んできた道だ。

 タキチローがそっと肩に触れてきたので、僕は小さく片手を挙げた。
「……すまん。大丈夫」

 泣くわけにはいかない。だけどせめてタキチローには、この気持ちを共有して欲しかった。
 たぶん、レザノフが前に不思議な手紙を送ってきた時も同じような理由があったんだろう。部下の前では弱音を吐けない、この孤独な立場がそうさせる。

 タキチローは地図に目をやったが、その視線は子午線をまたいでさまよっていた。
「……エンガラントの本拠地は、どのあたりですか」
 さすがの彼の嗅覚も、行ったことのない外国の地理には役立たないらしい。敵がまだまだ長崎に近づいているとは言えない、その距離感だけは彼に知らせてやるべきだった。

 細長いマレー半島と、その西側に小さく浮かぶペナン島を、僕は指さした。
「この島にジョージタウンという町がある。国王の名から名付けたそうだ。少し前まで密林地帯だったが、彼らは今、そこを切り拓いて巨大な要塞を築いている。町の美しさは比類なく、東洋の真珠と呼ばれている」

 ジョージタウンは新興の港に過ぎないが、すでに各国の船が集まって大変な賑わいを見せているという。これまで東インドの寄港地として人気を誇っていたのはバタヴィアだが、オランダが高い関税を課しているため、次第に忌避されつつある。
 そういう港の奪い方もあるのだとオランダは思い知らされたわけだ。

「これだけでも大打撃なのにさ。英領インド総督のミントー卿って奴は、さらなる野望を抱いているらしい」
 僕はマレー半島の南部を指し示した。こちらの方がさらに、交易のさかんなマラッカ海峡に近い。
「どうも、こっちに拠点を移す計画があるようなんだ」

 今は漁村だけの、その小さな島。地元の人間はシンジャーポーと呼んでいる。
 将来、そこが東インド最大の要塞都市になる? そんなことってあるんだろうか?
 
 僕はふと思いついて、背後の机の引き出しを開けた。
「なあタキチロー。君ならこれが分かるだろ?」
 バタヴィアで発行された新聞を取り出すと、僕はバサリと机の上に叩き出した。

「ミントー卿よりも、実はその配下に気になる男がいる。ほらここ、新聞には必ずその名が出てくるんだ」
 
 タキチローは刀に注意して身をかがめ、懸命に記事上の名を読み取ろうとしていた。
「トマス……ラッフルズ……?」
 
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