第1話 肖像画のヘンドリックより

文字数 2,088文字

 失礼、日本人の方ですか?
 
 いや、驚かせてすみません。
 肖像画がいきなりしゃべり出したら、そりゃあ誰だって驚きますよね。
 でもね、オランダを訪れる日本人観光客は多くとも、こうしてハーグの公文書館にまで足を運ばれる方は珍しいんですよ。

 だから懐かしくて、つい。もちろん日本にはもうヘンドリック・ドゥーフの名を覚えている方なんていないでしょうけど、僕の方は日本と聞いただけで思い出すことが多いんです。



 この姿はオランダに帰国した後の、僕が四十代の頃のものです。
 クルクルとした巻毛が目立っているかと思いますが、これは年をとるごとに癖が強くなったんですよ。若い頃、日本で暮らしていた頃は、逆に剛毛と言っていいほどまっすぐな髪でした。当時の日本人にも、よくそれをからかわれたものです。

 ちょっと疲れた顔をしておりますが、この頃は私生活でいろいろありましたので、お許しを。チャールズ・ホッジ氏は人気画家ですから、これでも実際より良く描いてくれたんですよ。
 もちろん日本にいた頃も肖像画をいくつか描いてもらいました。川原慶賀氏とか、司馬江漢氏とか、ね。そちらの方が、若い頃の僕の姿をよくとどめているはずです。

 僕の背後に窓があって、外には海と帆船が見えるでしょう?
 もちろん実際のものではありません。この背景は、はるか東インドへと渡った僕の人生を表しているんです。
 懐かしいですね。僕が日本で第156代商館長になったのは、長崎に赴任して4年目のことでした。もちろん、日本はいわゆる「鎖国」の真っ只中でしたよ。

 僕が生きていたのは、ナポレオンがヨーロッパを席巻していた戦争と混乱の時代です。
 ナポレオンに会ったことはないんですが、僕の人生は彼にずいぶんと翻弄されたものです。だって僕の日本滞在は、オランダという国がフランスの占領下に置かれていた時期とちょうど重なりますからね。

 東インドで暮らす我々にとって、急速に国力を伸ばすイギリスもまた脅威でした。
 あれは僕の日本滞在11年目のことだったでしょうか。ついに我々の本拠地バタヴィアが、イギリスの手に落ちたんです。
 当時、長崎のオランダ人は絶望的な状況に置かれました。本国はフランスに、植民地はイギリスに奪われ、まず帰る所がなくなりましたし、誰とも連絡が取れなくなって、ただ日本に捨て置かれたんです。

 祖国が滅亡したと知った時の、あの衝撃を何と言ったらいいでしょうか。我々はもう日本に骨を埋めることを覚悟して、それでもオランダ人の誇りを失いたくなくて、ほとんど意地になって出島の空に三色旗を掲げ続けました。

 まあそのお陰で、後にオラニエ王家からこの勲章をいただいたんですけどね。
 国王陛下からは、お言葉も賜ったんですよ。「厳しい状況下において、よく祖国の挟持を持ち続けた」と。その時はやはり身が引き締まり、誇らしく思ったものです。

 まったくオランダという国は、17世紀には空前の繁栄を誇り、世界中の富をかき集めていたというのに、僕が生まれた18世紀後半にはすでに国力低下が著しかった。
 本国には貧しい国民があふれていましたが、海外の植民地だって同じですよ。オランダ人が苦労して切り開いてきた土地が次々と宿敵イギリスに奪われ、オランダ人は行く当てもなく、イギリスに使役される身に甘んじた人も多かったんです。

 だけど今思い返して改めて驚くのは、当時の長崎の人々が僕らの苦悩を理解し、三色旗の存在を許してくれたことですね。もちろん事情を知るのはごく一握りの人間でしたが、あれはおそらく当時の地球上ではためく唯一のオランダ国旗だったのではないでしょうか。

 僕は商館長という立場上、常にオランダの国益を優先しなければならなかったし、あくまで19世紀のヨーロッパ人の常識に従って行動していました。ですから日本人の方の中に、僕に対して反感を持たれる方がいてもおかしくないと思っています。

 ですが、僕が当時の日本人と特別な友情を育んだことだけは申し上げておきたいんです。僕の日本滞在が特別に長かったせいもありますが、本当に日本人は最後まで支えになってくれました。僕も日本文化に敬意を示したくて、茶会やら句会やら、内容はさっぱりなくせに、いろいろ顔を出したものです。

 だから僕の俳句、あれは別に名句でも何でもないんですよ。ただ西洋人が詠んだという珍しさから取り上げてもらえることもあるのでしょう。実はどれも、日本人の妻に直してもらいつつ、苦心惨憺して作ったんですけどね。

 その妻について、もはや存在を隠そうとは思いません。そう、遊女でしたから、生前はどうしても日誌や手記に書きとどめることができませんでしたが、今は素直に認めますよ。僕は死ぬまで彼女の幻影を追っていたし、二人で紡いだ思い出にすがりついていた。

 たとえ引き裂かれ、また生前の痕跡が朽ち果てようとも、今だって僕の耳に彼女のささやきは聞こえます。その閉じた両目も、再び開かれる気がするのです。
 そして、長崎の少女ははっきりと語り出すでしょう。あの頃二人が胸に抱いていた、ありったけの思いとともに。


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