第30話 魔の道
文字数 3,257文字
とうとう言い切ったわ。
だけど胸がどきどきして、もう座ってなんかいられなくって、私は乱暴に立ち上がった。そのまま、肩で息をしながら部屋の中を歩き回ったわ。
彼を傷つけたに違いない。そう確信しつつも、私はこれでいいのよって思った。これでヘンドリックも、大事な娘にどんな運命が待ち構えてるのか思い知ったでしょう。
そうよ、男はずるいのよ。言い訳なんて許さないんだから。
ヘンドリックは座ったまま、うつろになった目をじっと床の一点に注ぎ、黙ってた。
考え込む時、彼はいつもそうするの。前のめりの姿勢になって、両手の指先を突き合わせてる。お金の話を持ち出されて、相当に冷めた気分になってるでしょうね。
だいぶ経ってから、ヘンドリックはようやく口を開いたわ。
「……オリオノ、僕と、別るるつもり……?」
「当たり前やろ? 夫婦じゃなかやけん」
私はぴしゃりと言い返してやったわ。
「スヒンメルさんと桜野さんも結局別れたそうね。同じことばい」
そう。あの人たちむせび泣いてたそうだけど、私は実に正しい選択だったと思うわ。若い彼らが冷静な判断を下せたのがむしろ意外なぐらい。
商館員の異動と同じ時期に、当の恋人同士が気持ちの整理をつけられるとは限らない。だったら先にそれぞれ別の人生に踏み出しておいた方が、本当にさよならする時に楽ってもんよね。
なのにヘンドリックったら、いつまでも煮え切らない態度。しようのない人だった。
「……帰国の時、僕、連れてく、よ。オリオノも、おもんも一緒」
なおもそんなことを言い、彼は思いついたように顔を上げたわ。
「僕、お奉行様にお願いする。お奉行様も、人間じゃ。きっと分かってくるる」
ふうん。あなたもそんな甘いことを考えるのね。
私は腕組みしたままヘンドリックをにらみつけ、吐き捨てるように言ったわ。
「お役人様の、そがん特例ば認めるわけのなかでしょう? 他の人に示しのつかんごとなっとけんね」
これは規制をかいくぐって営業する丸山の楼主たちが何かと口にする言葉よ。ヘンドリックもお役人を相手にする以上、そのあたりの難しさは知ってるでしょうに。
だけど、ふとむなしくなった。ここまで頑なな態度を取ってる自分が馬鹿らしく感じられたの。
何をやってるんだろうって思った。そうよ、ここでヘンドリックを責めて何になるの? ずっと一緒にはいられないからこそ、ちょっとでも彼を大切にしようって思ってきたのに。
「……カピタンの任期って、本当は一年なんでしょ?」
私は脱力し、深く嘆息する。
「あなたはもう四年もお務めになったとです。たぶん次の夏ぐらいにヤパンば離れますけん。そん時がさよならです」
苦しい中で言い切って、私はようやく笑った。もうこの話は終わりにしたかったわ。
「そいで良かですよ。いつか帰国したら、ヘンドリックはオランダの女の人ばお嫁さんにもらうでしょ? そん時はうちのことば、きれいさっぱり忘れんといけません」
「それは、ない」
ヘンドリックは強く否定すると、長椅子の上から私をにらみつけてきた。
「僕、夕べ、愛してるて言うた。オリオノ、信じんかったんか」
私はまた笑えなくなって、肩で息をした。あれを本気にしたのって言いたかった。
確かに昨夜、私たちは息もできないほど固く抱き合い、甘い言葉を交わしたわ。
別に嘘をついたわけじゃない。せっかく盛り上がったから、その場にふさわしい言葉を選んだだけよ。
でもその程度じゃ、私の芯の部分は鋼のように固く動かない。
「言葉なんか、何の意味もなか!」
目一杯の毒を詰め込んで、私はありったけ吐き捨てた。
そうよ、今までいろんな男の人が、私に甘ったるい言葉をくれたわ。私のこと愛してるって。私のために何でもするって言ってくれたわ。
はらり、と涙が落ちる。
あんなもの、と思う。
全部、全部、そうよ全部ウソだった!
もう二度と信じるもんですか。愛の言葉なんて煙のように消えていくもの。割り切って聞くものなのよ。
意思に反して涙が後から後からあふれてくるけど、私はそれを急いで拭うの。世の中なんて所詮はそんなもの、その程度で傷つく方が悪いのよ。
「うちはそういう女なの。だけん、何の気兼ねもいりまっせん。堂々と捨ててもろうて良かです。ばってん、生きてくためのお金は下さい」
情けない、とは思うの。こんなにお金の要求ばかりして。
お金と引き換えに、私がこの人にあげられるものなんて、大したものはない。園生さんみたいにヘンドリックの子を産むこともできない。遊女は人間ではないと繰り返し言われてきたけど、とうとうその言葉通りになってしまったのね。
でも、女がさんざん傷ついた挙句、何か一つだけ信じられるものがあるとすれば、やっぱりそれはお金なのよ。
「お金は全部、解決してくれるとです。お金さえあれば、何でも買えるとです」
お金さえあれば、愛も信頼も、他人の人生だって買える。丸山という町は私にそう教えてくれた。まさに殴る蹴るの暴力でもって教えてくれたわ。
私は自分の二の腕を抱きしめた。思い出せば思い出すほど、寒くなってくる。まだ秋口だというのに、今にも凍えそうよ。
最低ね。
毒を吐き続ける私は、とめどなく涙も流してる。結局、私は同情して欲しいのよ。そしてお金を要求する自分を正当化しようとしてる。
ヘンドリックは、そんな弱くて情けない私を黙ってじっと見つめてたわ。
外は静かで、出島の石垣に打ち寄せる波の音だけが、かすかに繰り返されてる。ヘンドリックは立ち上がり、ゆっくりとした足取りで窓辺に近づいていった。
そして、ほとんど暗闇しかない外を眺めたわ。
「長崎は、恐ろしか町じゃな」
くるり、とヘンドリックは振り向いた。燭台の光はそこまで届いていなくて、彼の顔は真っ暗だった。
「昔、西坂の処刑場で二十六人のキリシタン、磔になった」
今もなお血の匂いを揺曳する長崎の空気を胸いっぱいに吸って、ヘンドリックは突如言い放った。
「オリオノ、覚悟、あるか」
目を見開いた私の前で、彼は厳かに宣言したわ。
「僕は、幕府に逆らう覚悟しとる。オリオノと別れるぐらいなら、磔になった方がよか。十字架、背負う。殉教者と同じ道、行く」
一瞬、とてつもなく深い井戸の中に落とされるような感覚があった。
これはいけないと思ったわ。決して足を踏み入れてはならない魔の道に向かって、彼は歩き出そうとしている。
「つまらんよ、そがんことば言うちゃ!」
私は怒鳴りつけ、両手で彼の方を押さえつけるようにした。
だって客と心中しようとする遊女なら、私は今まで何人も見てきたわ。その悲惨な末路も見てきたわ。あんなの、何の解決にもならない。
この世で結ばれなかった恋人たちが、あの世で添い遂げる?
馬鹿らしい考えよ。ヘンドリックにそれを言わせちゃいけない。
「何も言わんで。言葉はいらんって言うたやろ!」
私は声を張り上げた。ほとばしり、荒れ狂う波を、どうにかして静めなくちゃならないと思った。
「……オリオノ」
ヘンドリックは突然かすかに笑うと、私に片手を上げて見せた。嵐のような感情は嘘のように消えてる。彼はなぜかあっさりと引き下がることにしたみたいだった。
「見せたかもん、ある。ちょっと待ってて」
そう言い残すと、彼はそのまま部屋を出て行ってしまった。
バタン、と扉が閉まる。
「……」
私の方はやり取りに疲れ、長椅子にどさりと座り込んじゃったわ。あとはしばらく呆けたように天井を見上げてた。今の今まで、自分たちが何を言い合っていたのかさえ分からない。
ちょっと、と言った割に、ヘンドリックはいつまでも戻って来なかった。
さすがに心配になって窓から様子をうかがったら、ちょうど見えたわ。暗がりの道を、ヘンドリックがこっちへ戻ってくる。
何やら肩の上に大きな荷物を持ってるようだった。鍵を手にしているところを見ると、出島の向こう側にある倉庫にまで行ってきたのね。
ヘンドリックはふうふう言って階段を上ってきたわ。
だけど胸がどきどきして、もう座ってなんかいられなくって、私は乱暴に立ち上がった。そのまま、肩で息をしながら部屋の中を歩き回ったわ。
彼を傷つけたに違いない。そう確信しつつも、私はこれでいいのよって思った。これでヘンドリックも、大事な娘にどんな運命が待ち構えてるのか思い知ったでしょう。
そうよ、男はずるいのよ。言い訳なんて許さないんだから。
ヘンドリックは座ったまま、うつろになった目をじっと床の一点に注ぎ、黙ってた。
考え込む時、彼はいつもそうするの。前のめりの姿勢になって、両手の指先を突き合わせてる。お金の話を持ち出されて、相当に冷めた気分になってるでしょうね。
だいぶ経ってから、ヘンドリックはようやく口を開いたわ。
「……オリオノ、僕と、別るるつもり……?」
「当たり前やろ? 夫婦じゃなかやけん」
私はぴしゃりと言い返してやったわ。
「スヒンメルさんと桜野さんも結局別れたそうね。同じことばい」
そう。あの人たちむせび泣いてたそうだけど、私は実に正しい選択だったと思うわ。若い彼らが冷静な判断を下せたのがむしろ意外なぐらい。
商館員の異動と同じ時期に、当の恋人同士が気持ちの整理をつけられるとは限らない。だったら先にそれぞれ別の人生に踏み出しておいた方が、本当にさよならする時に楽ってもんよね。
なのにヘンドリックったら、いつまでも煮え切らない態度。しようのない人だった。
「……帰国の時、僕、連れてく、よ。オリオノも、おもんも一緒」
なおもそんなことを言い、彼は思いついたように顔を上げたわ。
「僕、お奉行様にお願いする。お奉行様も、人間じゃ。きっと分かってくるる」
ふうん。あなたもそんな甘いことを考えるのね。
私は腕組みしたままヘンドリックをにらみつけ、吐き捨てるように言ったわ。
「お役人様の、そがん特例ば認めるわけのなかでしょう? 他の人に示しのつかんごとなっとけんね」
これは規制をかいくぐって営業する丸山の楼主たちが何かと口にする言葉よ。ヘンドリックもお役人を相手にする以上、そのあたりの難しさは知ってるでしょうに。
だけど、ふとむなしくなった。ここまで頑なな態度を取ってる自分が馬鹿らしく感じられたの。
何をやってるんだろうって思った。そうよ、ここでヘンドリックを責めて何になるの? ずっと一緒にはいられないからこそ、ちょっとでも彼を大切にしようって思ってきたのに。
「……カピタンの任期って、本当は一年なんでしょ?」
私は脱力し、深く嘆息する。
「あなたはもう四年もお務めになったとです。たぶん次の夏ぐらいにヤパンば離れますけん。そん時がさよならです」
苦しい中で言い切って、私はようやく笑った。もうこの話は終わりにしたかったわ。
「そいで良かですよ。いつか帰国したら、ヘンドリックはオランダの女の人ばお嫁さんにもらうでしょ? そん時はうちのことば、きれいさっぱり忘れんといけません」
「それは、ない」
ヘンドリックは強く否定すると、長椅子の上から私をにらみつけてきた。
「僕、夕べ、愛してるて言うた。オリオノ、信じんかったんか」
私はまた笑えなくなって、肩で息をした。あれを本気にしたのって言いたかった。
確かに昨夜、私たちは息もできないほど固く抱き合い、甘い言葉を交わしたわ。
別に嘘をついたわけじゃない。せっかく盛り上がったから、その場にふさわしい言葉を選んだだけよ。
でもその程度じゃ、私の芯の部分は鋼のように固く動かない。
「言葉なんか、何の意味もなか!」
目一杯の毒を詰め込んで、私はありったけ吐き捨てた。
そうよ、今までいろんな男の人が、私に甘ったるい言葉をくれたわ。私のこと愛してるって。私のために何でもするって言ってくれたわ。
はらり、と涙が落ちる。
あんなもの、と思う。
全部、全部、そうよ全部ウソだった!
もう二度と信じるもんですか。愛の言葉なんて煙のように消えていくもの。割り切って聞くものなのよ。
意思に反して涙が後から後からあふれてくるけど、私はそれを急いで拭うの。世の中なんて所詮はそんなもの、その程度で傷つく方が悪いのよ。
「うちはそういう女なの。だけん、何の気兼ねもいりまっせん。堂々と捨ててもろうて良かです。ばってん、生きてくためのお金は下さい」
情けない、とは思うの。こんなにお金の要求ばかりして。
お金と引き換えに、私がこの人にあげられるものなんて、大したものはない。園生さんみたいにヘンドリックの子を産むこともできない。遊女は人間ではないと繰り返し言われてきたけど、とうとうその言葉通りになってしまったのね。
でも、女がさんざん傷ついた挙句、何か一つだけ信じられるものがあるとすれば、やっぱりそれはお金なのよ。
「お金は全部、解決してくれるとです。お金さえあれば、何でも買えるとです」
お金さえあれば、愛も信頼も、他人の人生だって買える。丸山という町は私にそう教えてくれた。まさに殴る蹴るの暴力でもって教えてくれたわ。
私は自分の二の腕を抱きしめた。思い出せば思い出すほど、寒くなってくる。まだ秋口だというのに、今にも凍えそうよ。
最低ね。
毒を吐き続ける私は、とめどなく涙も流してる。結局、私は同情して欲しいのよ。そしてお金を要求する自分を正当化しようとしてる。
ヘンドリックは、そんな弱くて情けない私を黙ってじっと見つめてたわ。
外は静かで、出島の石垣に打ち寄せる波の音だけが、かすかに繰り返されてる。ヘンドリックは立ち上がり、ゆっくりとした足取りで窓辺に近づいていった。
そして、ほとんど暗闇しかない外を眺めたわ。
「長崎は、恐ろしか町じゃな」
くるり、とヘンドリックは振り向いた。燭台の光はそこまで届いていなくて、彼の顔は真っ暗だった。
「昔、西坂の処刑場で二十六人のキリシタン、磔になった」
今もなお血の匂いを揺曳する長崎の空気を胸いっぱいに吸って、ヘンドリックは突如言い放った。
「オリオノ、覚悟、あるか」
目を見開いた私の前で、彼は厳かに宣言したわ。
「僕は、幕府に逆らう覚悟しとる。オリオノと別れるぐらいなら、磔になった方がよか。十字架、背負う。殉教者と同じ道、行く」
一瞬、とてつもなく深い井戸の中に落とされるような感覚があった。
これはいけないと思ったわ。決して足を踏み入れてはならない魔の道に向かって、彼は歩き出そうとしている。
「つまらんよ、そがんことば言うちゃ!」
私は怒鳴りつけ、両手で彼の方を押さえつけるようにした。
だって客と心中しようとする遊女なら、私は今まで何人も見てきたわ。その悲惨な末路も見てきたわ。あんなの、何の解決にもならない。
この世で結ばれなかった恋人たちが、あの世で添い遂げる?
馬鹿らしい考えよ。ヘンドリックにそれを言わせちゃいけない。
「何も言わんで。言葉はいらんって言うたやろ!」
私は声を張り上げた。ほとばしり、荒れ狂う波を、どうにかして静めなくちゃならないと思った。
「……オリオノ」
ヘンドリックは突然かすかに笑うと、私に片手を上げて見せた。嵐のような感情は嘘のように消えてる。彼はなぜかあっさりと引き下がることにしたみたいだった。
「見せたかもん、ある。ちょっと待ってて」
そう言い残すと、彼はそのまま部屋を出て行ってしまった。
バタン、と扉が閉まる。
「……」
私の方はやり取りに疲れ、長椅子にどさりと座り込んじゃったわ。あとはしばらく呆けたように天井を見上げてた。今の今まで、自分たちが何を言い合っていたのかさえ分からない。
ちょっと、と言った割に、ヘンドリックはいつまでも戻って来なかった。
さすがに心配になって窓から様子をうかがったら、ちょうど見えたわ。暗がりの道を、ヘンドリックがこっちへ戻ってくる。
何やら肩の上に大きな荷物を持ってるようだった。鍵を手にしているところを見ると、出島の向こう側にある倉庫にまで行ってきたのね。
ヘンドリックはふうふう言って階段を上ってきたわ。