第33話 ユニア

文字数 3,368文字

 熱心に誘ってもらえるのはうれしいけど、簡単には同意できなかった。
 アントンだって、いつもはもう少し思慮のある奴なんだ。追い詰められて、どこかおかしくなってるとしか思えないよ。

「ひょっとして……」
 僕はふと思いついて、椅子の背もたれから身を起こした。
「植民地の成功者というやつに、憧れているわけじゃないよな?」
 
 まさか図星ではないだろうと思ったのに、この親友はまったく否定しなかった。呆れたことに、悪びれる様子すらないときている。
「それがいけないか? お前だって植民地で一発当てたいと思ったことぐらいあるだろ」

 何ということだ。僕は思わず両手で顔を覆ったよ。
「……お前さあ」
 僕はため息まじりに起き上がり、彼を指さして断言してやった。
「ああいうのは、ほんの一握りの強運な奴らだ。自分にもできるなんて思うもんじゃない」

 この国にいわゆる「成金」が存在するのは確かだ。
 運河で櫂を操り、アムステルダムの城壁内に入っていくと、やがて両岸に三角屋根の豪壮な邸宅が姿を現す。ほとんどが大商人や海運業者、金融業者の屋敷だ。オランダでは彼らレヘントと呼ばれる人々が門閥を作り、支配の頂点に立ってきた。
 
 古くからの貴族もいるが、一方でその血筋を引くことなく、いきなりどんと豪邸を建てる者もいる。植民地で富を得た者だ。彼らの存在はオランダが自由の国、商人の国であることの証左だと思う。
 
 だけど僕からすれば、噂に聞く彼らの派手な生活ぶりは嫌悪すべきものだ。あの人達はあの人達だよ。この国にかつて黄金時代があったのは確かだけど、今は一攫千金を狙えるような世相じゃない。

 僕はそんな持論をぶちまけたが、今度はアントンの方が同意しなかった。むしろ頑固な僕に呆れ返ってるよ。
「ヘンドリック。お前って本当に真面目だよな」
 
 アントンはあくまで、いつまでも殻を破って外に出ようとしない僕の方が駄目だと思ってる。無理もない。彼は祈り、働けという修道院のようなドゥーフ家の家訓を知ってるからな。

「いや、真面目はいい。でも、ヘンドリック、これだけは言っておく」
 アントンは急に拳を握って力説した。
「おれたち、どこかで決断しなけりゃならないんだぞ。二人とも、身分も財産もないんだ。どうせ命がけの旅に出るなら、少しでも望みのある道にしなくちゃ」
 その言い分は、あながち間違いとも思えなかった。

 少しでも望みのある道。
 植民地。一発逆転の地だ。

 僕の顔色が変わったのを見て取ったんだろう、アントンはここぞとばかりに身振り手振りを加えてきた。
「なあ、船の上では病気の予防も兼ねて、陸上より良い食事にありつけるんだぜ? 二百年前の大発見の時代とは格段の違いだ。船には生きた家畜を載せてあってさ、お祝い事がある時に殺して、下っ端にまで肉料理がふるまわれるらしいぞ」
 僕がこの時、ごくりと唾を飲み込んだことを告白せねばならない。

 肉! 肉だって!

 情けないものだけど、オランダの若者にとってそれは悲しくなるほど切実な思いだった。肉と聞いただけで、その匂いや、甘く滴る肉汁を想像しただけで、気が狂いそうになる。それだけで船に乗ってもいいんじゃないかと思えてくる。

 回る風車と輝く青空の下でたくさんの牛や羊を飼っていても、オランダの大多数の庶民はいつも空腹だ。普段は雑穀粥や野菜くずのスープにしかありつけず、豪華な食事なんて夢にさえ見られない。

 いや、これは天地神明にかけて言うけど、僕は食事が目的で決断したんじゃないよ?
 ただ、このままずるずると先延ばしにしても仕方がないと思ったんだ。
「……試験っていつ?」
 アントンにそう聞き返した時、もうすべてが決まってたのかもしれない。

 本当なら、僕は織物職人になりたかった。

 こう見えて僕、手先は器用な方なんだ。ほら、完成品をよく見比べて欲しい。分かるだろ? 兄のアレクサンダーより、僕の方が腕前はずっと上だ。

 水車小屋の傍らにある、小さな石積みの家がドゥーフ家、僕の生家だ。中からは機織の音が響いてるが、少なくともこの百年、あれが絶えたことはないはずだ。

 そして僕の名はヘンドリック・ドゥーフ・ユニア。略してユニアとも呼ばれてきた。
 父ヘンドリックは、長男にはアレクサンダーという名を、次男には自らと同じ名を与えた。いずれ家を出ていかねばならない次男に対し、父なりにせめてもの思いを込めてくれたのかもしれない。

 だけどそこには、自分と同じような堅気の職人になれという期待も込められていたように思う。よそで抱えてもらう道が見つからないなんて、生前の父には想像できなかったんだろうな。ここまで景気の悪い世の中を、父は知らなかったから。

 昔からフランドルおよび北ネーデルラント一帯では毛織物産業が栄えてきた。先祖は貧しいながら、誇り高くこの産業に従事してきたはずだ。羊を飼い、その毛を刈り、糸を紡いで織りあげてきた。オランダ人は魂と引き換えに、この布を生み出してきたんだ。

 だが今や、先細りだった。他の国でも毛織物産業が勃興し、オランダの布の行き先が激減したせいで、職人を目指していた若者たちの多くは新天地を目指すより他なくなった。
 僕もまた、土地の伝統を受け継ぐことができなかった。ユニアがユニアでなくなり、ただのヘンドリックとなったとき、僕には生まれ育った村を後にする運命が待ち構えていたのかもしれない。

 アントンの方は、本来ならこんな無茶をしなくても済むはずだった。
 彼も次男であるのは同じだけど、彼の家は裕福とまでは言えないにしても、古くから織元と仲買人を兼業しているだけあってうちよりずっと恵まれていた。
 だが彼の家の方も、ついに仲買の方から手を引くことになってね。何でも取引先がずいぶんと潰れ、そのあおりを食らったとかいう話だった。革命でギルドの規制がなくなり、業者間の競争は激化している。アントンはほとんどやけっぱちになって、僕を誘ってきたというわけだ。

 もともと職人たちの住むこの村は貧しかった。

 長い間、商人ギルドが都市を経済的に支配してきたのに対し、職人ギルドはそれに従属を強いられてきた。だからこその、地を這うような暮らしだ。村人の多くは燃料にする泥炭でさえろくに買えず、毎年冬になると寒さをどうやり過ごすかが悩みの種になる。

 村を突っ切る道だって、雨上がりは特に水たまりだらけだ。たまに通る馬車は必ずと言っていいほど轍に車輪を取られ、立ち往生する。こんなぬかるみ、木靴でなきゃ、とても歩けないよ。

「うちはね、あんたを食わせていけるほど豊かじゃないのよ」
 と、兄嫁のヨハンナに面と向かって言われたことがある。兄のアレクサンダーはといえば、すごく気が弱くてね。僕をかばってくれるような強さを期待する方が間違ってる。
 無言の圧力は成長するにつれ強くなり、それこそつまづいた石の一片でさえ、早く出て行けと僕を急き立てるようだった。

 そんな僕は、いつも友人のアントンを頼ってきた。
 子供のころは特に、僕の生真面目さとか、どもりがちでうまく話せないことをからかう連中がいてね。わざと深刻そうな話を持ち出して、僕が本気にするとどっと笑うんだ。僕は孤立を恐れて、何も言い返せなかった。今思うと、あれは一種のいじめだったね。
 ガキ大将のアントンは強かった。うちの兄とは違い、僕のために戦ってくれた。本当に、アントンがいてくれなかったら、僕はどうなっていたか分からない。

 もちろん今の僕は、変わったよ。仕事上必要なことは人と話すし、最低限の愛想もふりまくことができる。
 だけど根本的な部分は、やっぱり変わってないのかもしれない。話すとは言っても、あくまでぎこちなく、どうにかこうにか、という感じだ。今だって言いたいことの十分の一も言えていない。

 思えばドゥーフ家の人間はみんなそうだった。みんな寡黙で朴訥で、口が重いんだ。
 こういう性格だから余計に、職人になるのが一番じゃないかと思ってきた。だが世の流れがそれを許してくれなかった。思うようにはいかないものだ。

 とにかく僕たちはこれから、植民地の経営をする会社に入る。
 交易事務の世界でチーズを食べたことのない奴が、うまくやっていけるものだろうか?
 アントンはともかく、僕は苦労するだろうな。

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