第59話 名村(息子)の話

文字数 3,206文字

 通詞会所(つうじかいしょ)の建物は、江戸町にある。僕は襖の前で居住まいを正した。
「入ります」

 声をかけてから、そっと引手を開けた。同時にぎょっとした。
 うわ、入りたくないな。僕の苦手な人がいる。

 伊藤平助さんは僕たちの上役だ。どう挨拶しようか迷ったけど、彼の方はちらっと僕を見、軽くうなずいただけでまた書物へと戻っていった。
 少しほっとした。
 でも他に誰もいないんなら、やっぱり伊藤さんと話さなくちゃならないかな?

「よお、元次郎」
 隅の方で、友人の楢林(ならばやし)鉄之助がもごもご言いながら片手を挙げている。別に伊藤さんと話をするでもなく、自分は自分で読みたい本を読んでいたようだ。

 ああ、良かった。
 僕は伊藤さんをなるべく遠ざけるようにして友達のところへ寄って行った。
 だけど鉄のやつ、何か食べてたな? 机の上にカスが落ちてるじゃないか。

 彼は口の中の物を急いで飲み込みながら、身を乗り出してきた。
「親父さんは? 今日も来ないの」
 
 僕はあぐらをかき、肩をすくめて見せた。
「さあね。カピタン様には時々会っとるらしかばってん」
 
 オランダ船がやって来ない。となると通訳の仕事はないと言ってもいいぐらいだった。今はこうして、若い者が読書しながら番をしてるだけ。
 
 普段なかなか読めない本を片付けられるのは有り難いもんで、僕も早速持ってきた本を机の上に開いた。だけど、やっぱりこの事態は普通じゃない。まったく手持ち無沙汰を通り越して暗澹たる気分だよ。

 オランダとの交易が途絶えるというのは、それで生活している人間にとって恐ろしいことだ。バタヴィアからの脇荷貿易で生計を立てる商人たちは、今年の収入がないに等しいらしい。それだけで長崎中の活気がなくなるってもんだ。

 いや、他人事じゃないよ。これが何年も続くようなら、オランダ通詞の諸家は録を返上することになるっていう噂もあるんだ。
 冗談じゃないよね。そんなことになったら僕たちも将来を失うじゃないか。

「何かこう、パッとせんな」
 同じ不安を抱えてるはずなのに、鉄之助はあっけらかんと話しかけてきた。
「夏はやっぱり洋船の、あの白帆が見えんと駄目じゃ。長崎は」
 
 ああ、みんな同じことを考えるもんだなって思った。
 だけど鉄よりも気の利いたことを言ってやりたくて、僕は重々しく咳払いをした。
「どうにもならんの。こっちから船ば迎えに行くわけにはいかんけんね」

「そいはそうばってん……」
 鉄はうつむいたままだったけど、珍しく僕に反論してきたよ。
「おいも、お百度参りでもしようかて思うとる」

「へ~。お百度参り!」
 聞いて驚いた。鉄ってそんな一面もあったのか。

 確かに通詞たちの中には家族ぐるみで参拝し、船乞いをしている者もあるんだって。でも鉄がそんなに律儀だとは思わなかったな。

 ちょっとだけ鉄を見直したのに、直後、彼はこんなことを言い出した。
「皆がやっとるけん、やらん者は恨みば買うんじゃなかかね」

「何じゃ。わい、純粋な信仰心からではなかの?」
 がっくりだよね。そういう、無理して周囲に合わせるってやつ、考え物だと思うよ? 友人として、僕が忠告しといてやろう。

「ま、本気でやるなら止めはせんばってん、もはや今年の船はないものて思うた方がよか。こいまでも遅れることはあったばってん、今年はあまりにも遅かよ。もう夏の季節風も終わっとよ。ここまで待っても来んのじゃけん、もう来年のことに頭ば切り替えっ時やなかね?」
 実は全部、親父の受け売り。言わないけどね。

 鉄は納得したのかどうか、ふうんと言って文机の上で頬杖をついた。
 ごおん、と近くの寺の鐘が鳴ったのはそのときだ。二人ともぱっと顔を上げたし、伊藤さんもそうしてるのが見えた。
 
 次々と長崎中の寺の鐘が打ち鳴らされていく。その音が山に囲まれた町に殷々と響き渡り、市中が騒然としていくのが建物の中にいてもわかる。

 それでもまだ僕は、聞き違いかと思ってた。あるいは、何か他の連絡だと思った。
 だけど会所の玄関先で、中間の誰かが叫んだんだ。
白帆注進(しらほちゅうしん)じゃ。オランダ船だぞ!」

 ええっ。まさか。まさかだろ?
 鉄之助と顔を見合わせ、僕はしばらく何も言えなかった。

 日本にやって来るオランダ船は、長崎湾の入り口に位置する野母崎(のもざき)にさしかかると号砲を鳴らす決まりになってる。山の番士たちは目視で異国船の姿を確かめると、山頂にのろし火を上げるんだ。
 炎と煙の合図は高島、伊王島、香焼(こうやぎ)などと中継されて長崎に伝達され、長崎の町人には寺院の鐘の音で知らされる。

「ほ、本当かな」
 僕は信じられなかった。あんな偉そうなことを言ったばかりだしさ、なんか立場がないよ。

 鉄之助の方は急に元気になって、びしっと僕を指差した。
「それ見ろ、元次郎! 念ずれば通ずじゃ」
 
 さっきまで打ち沈んでいた長崎の町が、にわかに騒がしくなっていく。

 通詞会所には奉行所からの使いの者が到着し、伊藤さんがその場の責任者として式台にひれ伏した。もちろん僕たち二人も、その後ろで同じようにしたよ。

 奉行所の役人は、玄関に立ったままだ。何だか落ち着きがないが、よほど急いでいるんだろう。
「蘭船はすでに伊王島辺りにまで来ておるやもしれんとのこと。大至急、支度をせよとの命にござる」

 伊藤さんは、ははーっと答えてる。僕たちはその後ろで、ずっと頭を下げたまま。

 たまたまそこにいたから、だったのかどうか。お役人が立ち去った後、伊藤さんは急に思いついたように、僕たち二人に命令してきた。
「わいら、沖懸(おきが)かりに出てみよ」

 えっと声が出そうになった。
 腹にずしりと重みが加わったような気がするけど、できないとは言えない。
 確かに、二人とももう十七歳。仕事はまだおぼつかないけど、訓練は受けてるんだ。やり方は一通りわかってる。
 
 沖懸かりっていうのは、小瀬戸付近に碇泊する異国船に向かい、海上で臨検する仕事のことだ。正式な「検使」を務めるのは、お奉行様の下役であるお旗本なんだけど、通訳が必要だから僕たちも異国船へ行くんだよ。

 向こうの船では、旗合わせと呼ばれるオランダ国旗の確認作業をし、乗船人名簿などの書類の提出を受ける。責任あるお役目ではあるんだけど、やり取りはほぼ決まってるから、通訳は難しくないとされてる。つまり僕たちのような見習いでも何とかなるってわけだ。

 二人で大波止(おおはと)に向かったら、すでに船頭や水主たちが忙しく準備に駆け回ってたよ。
 葵の御紋を張り巡らせた大小の舟が桟橋の周りに集合した。奉行所、長崎会所からもそれぞれ役船が出されるため、船団は十艘にもなる。このうちの一艘が途中で出島に立ち寄り、同行のオランダ人を乗せるんだ。
 
 僕と鉄之介は、しつこいほど手続きの流れを確認し合った。
 いくら簡単な仕事とはいえ、ご公儀より賜った大事なお役目だから絶対に間違いがあってはならない。もう緊張と興奮とでぶっ倒れそうだよ。

 間もなく、検使に任命された二人の旗本が港にやってきた。
 一人は菅谷保次郎さん、もう一人は上川伝右衞門さんだって。

 ちぇっ。江戸の人って何だか偉そうにしてるよね。二人とも自分の家来をぞろぞろ引き連れちゃってさ。
 長崎の地役人たちは、実は士分じゃない。お旗本に対しては頭を上げられないんだ。

 検使の二人は、さっそく親船(おやぶね)に案内されて行った。
 予想外だったのは、鉄之介がそっちに連行されてしまったことだ。二人でやるものだと思ってた僕は、ますます不安になった。だけど、
「楢林は、検使様につけ。くれぐれも失礼のなきようにな」
 って、伊藤さんがお決めになったんだから、しょうがない。もちろん検使様の通訳が鉄之助一人では心もとないので、伊藤さんも一緒にやるんだってさ。
 
 僕はぽつんと波止場に残された。
 ということは、出島のオランダ人と一緒に行動するのは僕か。つまり僕が、最初に相手方と直に対話することになるんだと思う。

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