第31話 ラーケン

文字数 3,906文字

 ヘンドリックが持ってきたのは、ひどく重たそうで、大きな巻物だった。

 何かしら、それ? 
 私の戸惑いをよそに、ヘンドリックは何やらうれしそうな顔をして、机の上から羽ペンやインク壺をどけていく。空いた所には、いかにも大切そうに荷物を置き直した。
「見て、オリオノ。こいが、オランダ最高級のラーケン(厚手ウール)」
 
 ヘンドリックは表面の保護紙をびりりと破り、中から布の端を引っ張り出した。
 
 出てきたのは、日本人が羅紗って呼んでるものだった。
 なあんだ、羅紗ね、と私は思った。何度も見たことがあるわ。オランダ人はなぜかみんな、この羅紗の上着を着てるもの。

 正直なところ、私にはこの布、あまり洗練されてるとは思えなかった。唐桟(とうざん)更紗(さらさ)といった南国の生地は目の覚めるような華やかさだけど、これは反対に寒い地方の布なのよね。
 獣毛で織られてるそうだけど、表面が毛羽立つように織られた、素朴な感じの布よ。

 だけどその生地に、ヘンドリックはそっと手を触れ、いたわるように目を細めてる。
「レイデンの町、良か毛織物つくる。純正品、インドではなかなか手に入らんばってん、こん夏の船、たくさん持ってきた。僕、織元に生まれ育ったけん、懐かしゅうてな」

 バタヴィア船が持ってくる交易品は布のほかにもいろいろあるけど、普段は唐国や天竺の産品がほとんど。こんな風にオランダ製品が手に入るのは久しぶりだって、確かに他の皆さんもおっしゃってたわ。

 ヘンドリックたちはこの夏、ここぞとばかりに高値で売りさばいてた。
 それでも一部の高級品は売らずに手元に残しておいたそうよ。ヘンドリックはそれらを江戸の公方様はじめ、長崎のお奉行様、その他の重要な役職にあるお役人様方に献上したんですって。今後もオランダという国に目をかけて下さいっていうご挨拶ね。

「ばってん一番良かもんは、まだ残しておいた。そいが、これじゃ」
 ヘンドリックはぐいと私を後ろから抱きかかえるようにして、鏡の前で布を引き上げ、私の顎の下まで持ってきた。
「オリオノに似合うて思うたとよ」

 私は面食らったわ。
 江戸の公方様よりも良い物を私にくれるって言うんだもの。

 もちろんそういう彼の気持ちはうれしいけど、私はこれ、あんまり欲しくない。良い物であるなら余計に複雑だわ。
「いいえ、うちにはもったいのうて、いただけまっせん」
 私は振り向き、布を押し返そうとした。

 だけど指先が布に触れたその瞬間、私ははっとした。
 なぜだろう、その生地から手を離せなかった。いいえ、柔らかかったからかもしれない。荒っぽいその見た目からは想像できないような、ふんわりと優しい手触りだったの。

 それから、もう一つ感じたものがある。
 私は呆然と顔を上げ、布を見、そしてヘンドリックを見上げた。
「ぬくか……」
 そうよ、信じられないほどの温かさだったの。

「そやろ? 良か物やけん、肌に当たってもチクチクせんとよ」
 布を持つヘンドリックの表情が、得意げに輝いてる。
「僕の家、ラーケン、織ってきた。家業は継がんかったばってん、僕、生地の良し悪し、分かる。こいは間違いなく、一流の工房で織られた」

 ヘンドリックはオランダの機織りの様子を、大きな身振りで説明してくれた。
「冬は寒かよ。運河、凍る。雪、たくさん降る。男たち、こがんして、織る」
 向こうでは、機織りは力仕事。男の仕事なんですって。腕の太い、屈強な男の人たちが大きな音を立てて織るんですって。
 
「ばってん」
 ヘンドリックはそこで苦笑した。
「ディックの奴、ジュルク(ドレス)は無理てゆうてきやがった。男物しか仕立てられんそうじゃ。せっかくやけん、こいでヤパンの着物ば作ってくれ」

「……」
 私は何と答えたら良いのかわからなかった。だけど改めて、指を布の表面に滑らせたわ。この布のどこがどう良いのか、理解したいと思ったから。
 ヘンドリックは着物と言うけれど、生地の厚さからすると羽織物か何かの方が良さそうね。
 
 きらびやかではないけれど、凝った作りの布だった。遠目には淡い桜色に見えるけど、よく見ると糸は一色じゃないの。乳白色と臙脂色の色糸が交互に織り込まれ、斜紋をなしてる。
 ふんわりと毛羽立った、だけど目の詰まった、とても堅牢な布だった。寒く厳しい冬を知る人々が、節くれ立った男たちの指がこれを織ってるんだって思った。

 決して華やかではない、職人たちの堅実な手仕事に私は揺らぎ始めてた。
 そしてふと感じたの。この布には何か尊い、価値あるものが織り込まれてるって。

 遠い遠い国で、これを織った職人たちがいる。彼らと言葉は通じないけれど、どんなに丹精込めて作られたものなのかは、この感触からはっきりとわかる。

 私はすがるように、布の声に耳を傾けた。
 どんなに吹きすさぶ寒風からも守ってやると、この生地はそう言ってる。
 その小さな繊維の一本にさえ嘘はなかった。そして織り込まれたその誠実さは、とてもとても、金銭で贖えるものじゃなかった。

 茫然と、私は目の前の鏡を見つめた。
 不思議ね。こういう素晴らしい物がこの世に存在するって、私は前から知ってたわ。暴力に踏みにじられ、理不尽に耐えねばならない時にこそ、私は突き上げるように、それを求めてやまなかった。

 布を握りしめ、同時に涙がはらはらと落ちていった。
 この布が、汚れきった私の中の何かを浄化してくれていた。清冽な風が、奇跡のように積もり積もった澱を吹き飛ばしていく。

 私は、嘘をつくのがこんなにも板についてしまった。だけどこの布に出会った今、もうそんな生き方はやめようと思った。馬鹿だと思われてもいいから、偽りのない人生を送ろう。
 そうよ、心からの正直な気持ちを言うわ。私はヘンドリックと別れたくない。いつまでも、どこまでも、一緒にいたい。世の掟に逆らってでも、この人と一緒に生きていたい。

 燭台の光に照らされて、ヘンドリックの彫りの深い顔立ちが濃い陰影に彩られてる。死を暗示しているようにも見える。だけどもう、そこに飛び込むことに迷いはなかった。

 私は救いを求めるように、その首にかじりついた。もちろんヘンドリックはしっかりと抱きとめてくれる。
「ヘンドリック。ねえヘンドリック」
 狂ったように、私は彼にすがり付いていた。

「うちら、別れんでいらるる……?」
「当たり前やろ。何度も言いよう」
 ヘンドリックは笑って、私の髪に顔をうずめてきた。
「絶対に別れんよ」

 どんなに固く抱き合っても十分とは思えなかった。気づけば私は、彼の肩の上で大声を上げて泣いていたわ。

 まぶたの裏に、ある光景がよみがえる。
 長崎の町が騒然と沸き立ってるの。水平線上に白帆が現れたその日、山頂にのろしが上がり、寺院という寺院が鐘を打ってる。大波止に集合した群衆は激しい歓喜に湧いて、三色旗を掲げた異国船を出迎えてる。たくさんの海鳥が飛び交い、羽根を撒き散らして今この瞬間をことほいでる。

 私は今、強靭な布を手にした。部屋の片隅には、まだけばけばしい緋色の掻取も残してあるけど、もう二度とあれには袖を通さない。
 さよなら、関羽。そして東洋の男たち。もう、軍神の庇護なんていらない。
 だって私は着替えるんだもの。着替えて、別の海に漕ぎ出すのよ。

 その日の深更、二人で固く手をつないで露台に出たわ。

 秋も深まり、外の空気は身震いするほど冷えてて、嵐の前触れのような海鳴りがしてる。暗い海では波の砕ける音が響き、足元から吹き上げてくる風も決して甘くはなかった。

 周囲はほとんど漆黒の闇。でも目を凝らすと、藍鼠(あいねず)色の商館の屋根が折り重なるように見える。そしてその向こうには、うっすらと三色旗がはためいてる。

 神仏にずっと背を向けてきた来し方を思えば、私にはもう、自分の幸せを願う資格はなさそうだった。そうよ、今さら善人ぶってお祈りなんてできないわ。

 だからせめて、と思う。せめてあの旗に祈らせて下さい。私の願いじゃない。この人の、ヘンドリックの願いを叶えてもらえるよう、祈らせて下さい。

 来日オランダ人と私たち丸山遊女とのつきあいは、実に二百年もの間、続いてきたわ。その中には真剣に愛し合い、最後まで添い遂げようとした人たちが、私たち以外にもきっといたと思う。
 だけどその成功例は一組もなかった。
 ただの一組も、なかった。

 これから私たち、前人未到の地へ足を踏み入れなくちゃならない。だから確固とした悲劇の予感もあるの。たぶん私たち、死は免れないでしょう。

「もう冬の星の見ゆっとな」
 白い息を吐き出しながら、ヘンドリックは東の空を指し示した。
「見えるか。あいがオリオンだ」

 私は目を細め、その指の先を追っていった。
 それは日本でも馴染み深い、(つづみ)の形をした星の並びだったわ。

 ヘンドリックは言うの。海の向こうのある国では、すでに民衆が勝利したって。世の中は、どんなにだって変えられる。国王でさえも、首を落とされる。
 それはあまりに遠い土地の出来事で、正直私にはピンとこなかった。あらゆる百姓一揆が鎮圧されるこの国で、そんな華やかな夢は見られない。

 だけど私、これだけは思うの。
 私はヘンドリックに出会えた。こんなどうしようもない女を愛してくれる人に出会えた。
 そういう奇跡は本当にあるんだって。

 聞こえる。
 大勢の人々が足を踏み鳴らし行進してる。自分たちの幸せを勝ち取るために戦ってる。
 奇跡を信じてもいいのかもしれない。その長い長い革命の列に、私たちも入るんだわ。
 
 頭上には、運命に抗うように無数の星が輝いてる。
 オリオン座は次第に高くなり、中天近くまで上り詰めてる。
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