第27話 微風
文字数 2,648文字
とうとうある日、小さな喧嘩をきっかけに、園生さんはここを出て行った。
ヘンドリックの制止を振り切り、ムハマッドたち奉公人の間をすり抜けて、彼女はここを出た。自分のわずかな荷物のみをまとめ、おもんの激しい泣き声に振り向くこともなく、彼女は出島橋の向こうへと姿を消して行ったそうよ。
それからはもう、なしのつぶて。自分の産んだ娘がどうなってるのか、聞いてくることもないんですって。
私はずっと、淡々として聞いてたわ。
ヘンドリックの話は、要するに自分は努力した、だから自分に同情して欲しいっていう、そういうものだった。きっと自分に都合よく語っているところもあるはずよ。
私にしてみれば、園生さんの言い分は別に間違ってないわね。彼女は正妻でも側室でもないんだから、産んだ子を放置したところで責められる筋合いはない。
だいたい遊女なんてそんなもんよ。大切にされたことのない人間が、他人を大切になんかできるわけないじゃない。
一方で、ヘンドリックが常に弱い立場の側にいようとしたことは分かる。彼はまず園生さんの生活を守ったんだし、その次は赤ん坊の命を守ったんだから。
私は余計な正義感なんて持つものじゃないと思ってる。そんな人間は結局、自分が傷つく結果を招くものよ。頑張ったって、誰も評価なんかしてくれない。愚か者の選択よ。
だけど真面目なヘンドリックは、分かっていながらそうしたのね。
そして私は、そういう彼を憎み切れない。私が彼の立場だったら、やはり同じことをしたかもしれないって思うの。
あれこれ考えた末、私は結局、肩をすくめて笑った。
「あなたが悪かわけじゃなか」
慰めとまではいかないけど、一応はヘンドリックの肩を持ってあげようと思った。
「園生さん、ようけ悲しか思いば、したとやなかですか。やけん、人に優しゅうなれんのやなかて、うちゃそう思う」
偉そうに言いながら、そういう私はどうかしらと、ふと思った。
私だって同じじゃない。踏みにじられて、世の中を恨んでる。みんなもこれほどの思いをしてみろって、心の中ではいつも毒を吐いてる。実際に人を傷つけかねない言葉が、口を突いて出てくることもある。
ヘンドリックは感じ入ったように目を細めて私を見たけど、すぐに肩を落とし、いかにも自信なさげに息を漏らしたわ。
「子育て、こがん大変やとは、思わんかった。僕、駄目な父親ね」
あらあら。
私はちょっと絶句した。お偉いカピタン様のお言葉とはとても思えない。他人が聞いたら、一体どう思うかしら?
でもね、この人は何とかして娘と向き合おうとしてる。そのこと一つ取っても、ヘンドリックは世の男たちより健気だって言えるかもしれないじゃない?
そう思ったら、自然と笑みがこぼれ出てきたわ。
「ヘンドリックは良か父親ばい。男手一つで子育てするなんて、なかなかしきることやなかやけんね」
するとヘンドリックはふと気づいたように顔を上げ、私を見つめたの。
「オリオノは、強かね。愛情いっぱいの、あたたかな家で育ったとやろ」
「……え」
私は絶句した。脳天に一撃食らったかのような驚きだったわ。彼が私の胸の奥の、一番大事な部分に踏み込んできたっていう気がしたの。
この人、何を言い出すのかしら。私は普段、土井家の両親や妹のことを忘れてるけど、あの人たちの顔なんて思い出したくもないわよ。
少し我に返って、私は必死に反論を試みたわ。
「冗談やなかです! 貧乏で、お金に困って、娘ば女郎屋に売り飛ばすような家の、どこがあたたかかって言うんと。あがん家、帰りたかて思うたことは一度もなか」
そうよ。妹だけ可愛がって、姉のみを遊女にするような恐ろしい家だったわ。
だけどヘンドリックは動かず、じっと私の声に耳を傾けるだけ。否定まではしないけれど、私の言い分はそのままでは認めてくれない様子だった。
「……僕、感じる、よ」
そうつぶやいて、彼は改めて私を見つめてきたわ。
「オリオノ、家族にいっぱい愛された。オリオノ自身、覚えとらんでも、目ん中に、ちゃんと光が残っとっと。ケーシェーだからじゃなか。見せかけの明るさじゃなか。オリオノの中には、幸せ、詰まっとる」
それは呼吸ができないほど暑く寝苦しい夜に、涼しい微風を受けたような感じだった。
そんなの、とても同意できない。けれど、ヘンドリックが何らかの真実を言い当てたような気はしたの。もしかしたら、私にも少しぐらいは幸せな子供時代があったのかもしれない。
私はヘンドリックの栗色の瞳を見返した。
その中にある悲しげな光のことも、少しだけその正体が分かったような気がする。それは決して他人を傷つける凶器じゃなさそうだった。
ただ、彼自身もさほど恵まれた境遇で育ったわけじゃないと告げてるのよ。ただ寂しい、誰かに寄り添って欲しいって訴えてるのよ。
この人は、私と大して変わらないのかもしれなかった。
ヘンドリックに手を取られたのは、そのときだった。
「オリオノの嫌でなければ、ずっと、ここにおってくれるか。僕、モハチに金、払うけん」
すぐには意味がわからなかった。だけど言葉だけは耳に届いてる。
降り止まない雨の音が、突然止んだような気がしたわ。
私は弾かれたように立ち上がった。
いけない!
かあっと頬が熱くなってる。
聞こえてたんだ。さっきのおもんとのやり取り、全部この人の耳に届いてたんだ。
「ご、ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
両手を頬に当てた。あんな母親ごっこをして、恥ずかしいったらないわ。
あれはおもんと私だけの秘密のつもりだったの。
ヘンドリックは呆れたでしょうね。私はもう、この人と合わせる顔がない。
だけどヘンドリックは自分も立ち上がり、私の手を引きはがすの。
「おもんの、ため、じゃなかよ」
彼は覚悟を決めたかのように、重ねて告げてきたわ。
「僕たち親子には、オリオノ、必要。オリオノ、僕の妻にする。もっと早う、決断すりゃ良かった。すまん」
そう言って、彼は頭を下げた。
信じがたい思いだった。
愛する人に身請けしてもらい、忌まわしい勤めから解放される。それはすべての遊女が夢見ることよ。地獄の底で泣きながら、何かにすがりつきたいと、必死に手を伸ばすのよ。
もちろん現実にはそんな夢は叶わない。何度も何度も裏切られて、傷ついて、やがてはどうでもいいと諦めがついていく。
私だって、そう。夢なんてとっくに捨てたわよ。
身請け話なんてもう二度とないだろう。まさにそう思ってた。
ヘンドリックの制止を振り切り、ムハマッドたち奉公人の間をすり抜けて、彼女はここを出た。自分のわずかな荷物のみをまとめ、おもんの激しい泣き声に振り向くこともなく、彼女は出島橋の向こうへと姿を消して行ったそうよ。
それからはもう、なしのつぶて。自分の産んだ娘がどうなってるのか、聞いてくることもないんですって。
私はずっと、淡々として聞いてたわ。
ヘンドリックの話は、要するに自分は努力した、だから自分に同情して欲しいっていう、そういうものだった。きっと自分に都合よく語っているところもあるはずよ。
私にしてみれば、園生さんの言い分は別に間違ってないわね。彼女は正妻でも側室でもないんだから、産んだ子を放置したところで責められる筋合いはない。
だいたい遊女なんてそんなもんよ。大切にされたことのない人間が、他人を大切になんかできるわけないじゃない。
一方で、ヘンドリックが常に弱い立場の側にいようとしたことは分かる。彼はまず園生さんの生活を守ったんだし、その次は赤ん坊の命を守ったんだから。
私は余計な正義感なんて持つものじゃないと思ってる。そんな人間は結局、自分が傷つく結果を招くものよ。頑張ったって、誰も評価なんかしてくれない。愚か者の選択よ。
だけど真面目なヘンドリックは、分かっていながらそうしたのね。
そして私は、そういう彼を憎み切れない。私が彼の立場だったら、やはり同じことをしたかもしれないって思うの。
あれこれ考えた末、私は結局、肩をすくめて笑った。
「あなたが悪かわけじゃなか」
慰めとまではいかないけど、一応はヘンドリックの肩を持ってあげようと思った。
「園生さん、ようけ悲しか思いば、したとやなかですか。やけん、人に優しゅうなれんのやなかて、うちゃそう思う」
偉そうに言いながら、そういう私はどうかしらと、ふと思った。
私だって同じじゃない。踏みにじられて、世の中を恨んでる。みんなもこれほどの思いをしてみろって、心の中ではいつも毒を吐いてる。実際に人を傷つけかねない言葉が、口を突いて出てくることもある。
ヘンドリックは感じ入ったように目を細めて私を見たけど、すぐに肩を落とし、いかにも自信なさげに息を漏らしたわ。
「子育て、こがん大変やとは、思わんかった。僕、駄目な父親ね」
あらあら。
私はちょっと絶句した。お偉いカピタン様のお言葉とはとても思えない。他人が聞いたら、一体どう思うかしら?
でもね、この人は何とかして娘と向き合おうとしてる。そのこと一つ取っても、ヘンドリックは世の男たちより健気だって言えるかもしれないじゃない?
そう思ったら、自然と笑みがこぼれ出てきたわ。
「ヘンドリックは良か父親ばい。男手一つで子育てするなんて、なかなかしきることやなかやけんね」
するとヘンドリックはふと気づいたように顔を上げ、私を見つめたの。
「オリオノは、強かね。愛情いっぱいの、あたたかな家で育ったとやろ」
「……え」
私は絶句した。脳天に一撃食らったかのような驚きだったわ。彼が私の胸の奥の、一番大事な部分に踏み込んできたっていう気がしたの。
この人、何を言い出すのかしら。私は普段、土井家の両親や妹のことを忘れてるけど、あの人たちの顔なんて思い出したくもないわよ。
少し我に返って、私は必死に反論を試みたわ。
「冗談やなかです! 貧乏で、お金に困って、娘ば女郎屋に売り飛ばすような家の、どこがあたたかかって言うんと。あがん家、帰りたかて思うたことは一度もなか」
そうよ。妹だけ可愛がって、姉のみを遊女にするような恐ろしい家だったわ。
だけどヘンドリックは動かず、じっと私の声に耳を傾けるだけ。否定まではしないけれど、私の言い分はそのままでは認めてくれない様子だった。
「……僕、感じる、よ」
そうつぶやいて、彼は改めて私を見つめてきたわ。
「オリオノ、家族にいっぱい愛された。オリオノ自身、覚えとらんでも、目ん中に、ちゃんと光が残っとっと。ケーシェーだからじゃなか。見せかけの明るさじゃなか。オリオノの中には、幸せ、詰まっとる」
それは呼吸ができないほど暑く寝苦しい夜に、涼しい微風を受けたような感じだった。
そんなの、とても同意できない。けれど、ヘンドリックが何らかの真実を言い当てたような気はしたの。もしかしたら、私にも少しぐらいは幸せな子供時代があったのかもしれない。
私はヘンドリックの栗色の瞳を見返した。
その中にある悲しげな光のことも、少しだけその正体が分かったような気がする。それは決して他人を傷つける凶器じゃなさそうだった。
ただ、彼自身もさほど恵まれた境遇で育ったわけじゃないと告げてるのよ。ただ寂しい、誰かに寄り添って欲しいって訴えてるのよ。
この人は、私と大して変わらないのかもしれなかった。
ヘンドリックに手を取られたのは、そのときだった。
「オリオノの嫌でなければ、ずっと、ここにおってくれるか。僕、モハチに金、払うけん」
すぐには意味がわからなかった。だけど言葉だけは耳に届いてる。
降り止まない雨の音が、突然止んだような気がしたわ。
私は弾かれたように立ち上がった。
いけない!
かあっと頬が熱くなってる。
聞こえてたんだ。さっきのおもんとのやり取り、全部この人の耳に届いてたんだ。
「ご、ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
両手を頬に当てた。あんな母親ごっこをして、恥ずかしいったらないわ。
あれはおもんと私だけの秘密のつもりだったの。
ヘンドリックは呆れたでしょうね。私はもう、この人と合わせる顔がない。
だけどヘンドリックは自分も立ち上がり、私の手を引きはがすの。
「おもんの、ため、じゃなかよ」
彼は覚悟を決めたかのように、重ねて告げてきたわ。
「僕たち親子には、オリオノ、必要。オリオノ、僕の妻にする。もっと早う、決断すりゃ良かった。すまん」
そう言って、彼は頭を下げた。
信じがたい思いだった。
愛する人に身請けしてもらい、忌まわしい勤めから解放される。それはすべての遊女が夢見ることよ。地獄の底で泣きながら、何かにすがりつきたいと、必死に手を伸ばすのよ。
もちろん現実にはそんな夢は叶わない。何度も何度も裏切られて、傷ついて、やがてはどうでもいいと諦めがついていく。
私だって、そう。夢なんてとっくに捨てたわよ。
身請け話なんてもう二度とないだろう。まさにそう思ってた。