第65話 ディルク・ホウゼマンの話

文字数 1,787文字

「Good luck, I'm hoping」
 男はニヤリと笑い、小舟を漕ぎ出した。

 水面は、明け方の薄紫色の空を映し出している。干潮時のことで、ぽつんと海上に顔を出した岩礁の上に、私は一人立ち尽くしている。
 縄は解かれたが、満潮までに何とかしないと溺れ死ぬしかなさそうだ。
 
 オランダ人ディルク・ホウゼマン、長崎湾にて溺死、か。
 そう思った途端、皮肉な笑いが込み上げてきた。
 
 昨夜は、ずっと銃を突きつけられてきた。
「おれがフリートウッド・ペリューだ」

 英語でそう名乗ったのは、「フェートン号」の船長だった。
「殺されたくなかったら、神妙にしろ」
 ゲルリッツと私はといえば、縛られた上、頭の横に銃口を付けられている。二人とも青ざめ、唇を噛み締めてこの屈辱に耐えていた。

 恐怖のあまり最初は気づかなかったが、船長をはじめ、乗組員の全員がとても若いようだった。改めて私がこっそり見上げた時、若いというより、まだ少年のようなあどけなさが見えた。

 後で分かったが、船長はわずか十八歳だそうである。
 一晩中顔を突き合わせて話をする中で、多少は相手と打ち解けて、そんな話題も出てきた。この船は、ガキ大将に率いられた子どもたちに操られていたというわけだ。

 しかし情けないことに、我々はそんな相手にあっさりと自由が奪われてしまっていた。銃を突きつけられるたび、若さゆえの浅慮で頭をぶち抜かれるのではないかと肝を冷やしたものだ。

 一連のすったもんだがあって、今はこうして私だけが解放されたが、ゲルリッツはまだフェートン号の中で囚われの身だ。出てくる時に必ず私自身が助けに来ると約束したが、果たして彼の方は信じてくれているかどうか。

 しかし私だって助かったわけではない。現に今は溺死の危険に晒されているではないか。
 持たされた木箱を胸に抱えたまま、私は絶望的な思いで水平線上に目を滑らせた。
 
 私をここへ連れてきた(はしけ)は、非情にも悠々と櫓を漕いで、本船へと帰っていく。
 昨夜の騒ぎで長崎側は誰も舟など出してはおらず、助けを呼ぼうにも陸は遠すぎて、声は届きそうになかった。
 
 だが、はるか沖に目を戻したその時、私は砂粒のように小さな希望を見つけたのである。

 漁船が一隻。
 こちらへ向かってくるではないか!

 見間違いでなければ、日本の船だ。折よく漁師たちが長崎に帰ってきたのかもしれない。外洋まで漁に出ていた海の男たちは、昨夜の異国船の騒ぎを知らないのだ。

「おおい! おおい! 助けてくれー!」
 日本語で、それもありったけの声で叫んだ。何が何でも、彼らを捕まえねばならない。私の声は明け方のさざ波立つ海面の上を滑っていく。

 どうか、どうか届いてくれ!

 思いもむなしく、まったく気づいてもらえない。このままでは、漁船は水平線の彼方を通過していくだけだ。
 私は抱えてきた木箱を注意深く足下に置いた。これだけは海に落とすわけにはいかないからだ。

 そして、着ていた白シャツをほとんど破るようにして脱いだ。
 それを思い切り左右に振りながら、私は渾身の力を込めて歌いだした。他に方法を思いつかなかったし、こうでもしなければただ死を待つのみなのだ。

「だんな百まで、だんな百まで、ハ〜ヨイヤサ、ヨイヤサ!」
 永遠の夫婦愛を願うこの長崎の歌に、私は自分の運命を託した。

 とはいえ、一晩中続いた脅迫のせいで体はすっかり弱っている。ほどなく歌声はかすれ、腹にも力が入らなくなった。声に芯がないのが、自分でもわかる。

 もう駄目か。絶望に陥りかけたその時、漁船はぴたりと止まったように見えた。
 これまた見間違いかと思った。自分の願望が生み出した幻想に過ぎないのかと。

 しかし漁船は向きを変え、この岩礁へと向かってくれたのである。

 座礁を避けるため、少し離れた所に漁船は止まった。ここからの距離は二、三十ヤードほどか。若い漁師が不思議そうな顔で舳先に立ち、私に向かって叫んでくる。
「異人さんよ。こがんところで、何ばしよっと?」 
 
 ようやく救助を得、私が遠ざかるフェートン号を振り向いた時、オランダの三色旗はもうそこにはなかった。
 代わりに別の旗が、マストにするすると登っていく。
 
 風に舞い、その真紅の旗ははっきりと姿を表した。
 左上部分のカントンに複合十字が入っている。

 まぎれもなく、大英帝国のユニオン旗だった。

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