第22話 玉突き
文字数 2,912文字
遊技場の部屋の中央にあるのは、緑色の羅紗を貼った大きな玉突き台。
長い棒を持って、オランダ人たちは玉突きの点数を競ってる。
夏も終わりに近づいた今、出帆の日が迫ってるの。港では大勢の人足たちが行き交って最後の荷を積み込み、二隻の船は着々と長崎を離れる準備をしてる。
で、ここではバタヴィアに帰る人々の送別会よ。オランダ人はこういうお付き合いを大切にしてるらしく、会食は実に賑やかなの。ひとたび海に出たら、命がけの旅になるからでしょうね。
先ほどまでは母屋の方で私たちも加わったお食事会だったんだけど、それが終わったらこうして遊技場にやってきて、最後の勝負を始めたの。
今は海軍大佐フォールマンさんと航海長のヤンセンさん、それからカピタンのヘンドリックの三人による試合よ。
三人とも海泡石のパイプで煙をくゆらせてる。
ヘンドリックも余裕を気取ってるけど、私には彼が緊張してるのは分かるわよ。だって周囲で見学してる航海士や商館員の皆さんが、お金を賭けてるんだもん。
商館長に賭けてる人も多いから、ここで負けたら後で何か言われちゃうかもしれないでしょ。そういうとこ、ヘンドリックは結構気にするのよね。
カコーンと音を立てて象牙玉が穴に落ち、皆さん、おおっと声を上げたわ。
私も試合の行方が気になったけど、横目でうかがうだけよ。私だけ外すわけにもいかないもの。
こっちはこっちで、出島に居続けの三人の遊女たちが窓辺に集合してるとこなの。
私たちの目の前にいるのは、簿記役のディルク・ホウゼマンさん。
青い目がきれいな人でしょう? 声もいいのよ。さっきから自慢の喉を披露してる。
私たち、ホウゼマンさんを取り囲んで彼の歌声に聞き入ってる。この人はあまり遊女を買わないけど、他人に注目されるのは好きなようね。
いや、そんなことより、私はこの人の歌を初めて聞くから、とにかくビックリしてるところだった。
「だんな百まで、だんな百まで、ハ〜ヨイヤサ、ヨイヤサ」
合いの手まで、ホウゼマンさんは自分で上手に入れてる。しかもこれ、長崎の歌よ。
「エーわしゃ九十九まで、共にしらがの、共にしらがの、ハーヨイヤサ、ヨイヤサ、エーササ、生えるまで」
テンツク、テンツク、テテテン、と口三味線で締めくくって、ホウゼマンさんは日本人のように頭をちょいと下げて見せた。
「すごかー。ホウゼマン様」
他の遊女二人がぱちぱちと手を叩く。ああそうやって賞賛の意を表すものなのかって、出遅れた私は慌てて追いかけたわ。
「丸山の幇間 よりうまか」
「声だけ聞いとったら、地下 もんとしか思えんとよ」
他の遊女二人は上手に持ち上げ、ホウゼマンさんもまんざらではなさそうに笑ってる。
「長崎は、おいの一番長かけんね。お座敷芸、大好き。サイコー」
ホウゼマンさんはふざけて両手を上げて見せて、女たちはきゃーっと派手に笑い声を立てた。ほんと、ホウゼマンさんの日本語はヘンドリックよりはるかに上だわ。歌もお話も巧みと来てる。
こういう人を見ると、ヘンドリックはオランダ人の中では、かなり大人しい部類に入るんだなあって思う。いつも微笑をたたえ、聞き役に回ることが多いもの。
改めて、私は他の二人の女に目を向けた。小萩さんと、桜野さんよ。
私はまだこの輪の中に入れずにいる。この中では最も遅く出島に来た身だから仕方がないんだけど、二人の方がオランダ人のことをよく分かってるみたいで、何だか気後れしちゃうのよね。
ホウゼマンさんは、そこに気づいてくれたのかしら。私を気遣うように話しかけてくれたわ。
「ヘンドリック、よか男やろ?」
いきなりそう聞かれて、私は何て答えて良いものかわからなかった。
ホウゼマンさんが親切なのは確かだった。他の人は遊女なんて自分の人生とは関わりないみたいな顔をしてるのに、この人は違うもの。
そこにすがって良いものかどうか分からないけど、私はふと聞いてみたくなった。
「ホウゼマンさん。おうちはヘンドリックのことば、どこまでご存じなんか?」
先日の元次郎様の話があったせいかしら。私はヘンドリックのことを一歩引いて見るようになってる。
すると妙なものね。ヘンドリックは確かに何かを隠してる。人に言えない何かを抱えてる。そんな印象があって、しかもそれは強くなるばかりなの。
「……あん人は優しかお人やばってん、ときどき、怖か顔ばしよるの。うち、何とのう、怖くって」
ヘンドリックが時折見せる氷のような表情。その正体が何なのか、知っているなら教えて欲しいの。
だけど私は聞いたことをすぐに後悔した。遊女が客について云々するのは、やっぱりいけないでしょうね。
ホウゼマンさんは少し考えるように目を上げ、パイプから口を離した。
「……ま、カピタンてゆう立場じゃけん。いろいろあっとよ」
ふーっと口から煙を吐いたわ。
「ヘンドリックは、真面目で優しかよ。日曜日は必ずお祈り。食事の前もきちんとお祈り。曲がったことは、ばり好かん。もっとも、カピタンのあまり真面目で頑固だと、おいたち仕事のやりにくか時もあるばってんね」
ホウゼマンさんは冗談っぽく笑った。今度は私の顔を覗き込んで、悪戯っぽく声をひそめるの。
「床の中でも真面目やろ?」
「きゃー!」
「いやーっ!」
叫んだのは私じゃなくて他の二人よ? 私は苦笑しただけ。
まったく何がそんなにおかしいんだか、小萩さんも桜野さんも身をよじって大喜びしてるわ。
だけど四人でこっそり玉突き台を振り返ったら、まさにヘンドリックが台上の球に狙いを定め、すさまじい形相をしてるところだった。
たかが遊戯なのに、真面目過ぎ。四人とも顔を元に戻して、ぷーっと声を押し殺して笑っちゃったわ。
「そうそう。まさにあれじゃ。手加減ってもんばせんのじゃ、ヘンドリックは」
ホウゼマンさんはパイプを持ったまま、くつくつと笑った。
私は実感をもって、大きくうなずいた。
「……なんか、日本人みたい」
「そうばい。やけん、日本に馴染めるんやろ」
ホウゼマンさんは笑いを止め、しみじみと語りだした。
「ばってん、こん商館はヘンドリックの力で何とか持っとっとよ。カピタン次第でここん暮らしは随分変わる。おいは昔のことも知っとるけん、身にしみて感じとるよ」
ホウゼマンさんが言うには、オランダ人がお金に困って、食べ物にも事欠いて、不潔な姿で暮らしていた時期があったんですって。それをヘンドリックが劇的に改善したんですって。大人しいヘンドリックの、意外なほどの豪腕っぷりね。
ホウゼマンさんはまたパイプをくわえて話をしめくくった。
「最初は奴の若かやけん、嫌う者もおったばってん、今はヘンドリックの実力ば、皆が認めよる。あいつは大したもんじゃ」
試合が終わったのか、玉突き台の方からおおっと声が上がったわ。
ヘンドリックは惜しいところで負けちゃったみたい。天井を仰ぎ、目を覆って嘆いてるわ。その真剣過ぎる表情がおかしくて、私たちはまたくすくすと笑っちゃった。
ホウゼマンさんはじゃ、と言って私の肩をぽんと叩いてきた。
「ヘンドリック、いつも気ぃ張って疲れとる。あいつんこと、頼むけんね」
長い棒を持って、オランダ人たちは玉突きの点数を競ってる。
夏も終わりに近づいた今、出帆の日が迫ってるの。港では大勢の人足たちが行き交って最後の荷を積み込み、二隻の船は着々と長崎を離れる準備をしてる。
で、ここではバタヴィアに帰る人々の送別会よ。オランダ人はこういうお付き合いを大切にしてるらしく、会食は実に賑やかなの。ひとたび海に出たら、命がけの旅になるからでしょうね。
先ほどまでは母屋の方で私たちも加わったお食事会だったんだけど、それが終わったらこうして遊技場にやってきて、最後の勝負を始めたの。
今は海軍大佐フォールマンさんと航海長のヤンセンさん、それからカピタンのヘンドリックの三人による試合よ。
三人とも海泡石のパイプで煙をくゆらせてる。
ヘンドリックも余裕を気取ってるけど、私には彼が緊張してるのは分かるわよ。だって周囲で見学してる航海士や商館員の皆さんが、お金を賭けてるんだもん。
商館長に賭けてる人も多いから、ここで負けたら後で何か言われちゃうかもしれないでしょ。そういうとこ、ヘンドリックは結構気にするのよね。
カコーンと音を立てて象牙玉が穴に落ち、皆さん、おおっと声を上げたわ。
私も試合の行方が気になったけど、横目でうかがうだけよ。私だけ外すわけにもいかないもの。
こっちはこっちで、出島に居続けの三人の遊女たちが窓辺に集合してるとこなの。
私たちの目の前にいるのは、簿記役のディルク・ホウゼマンさん。
青い目がきれいな人でしょう? 声もいいのよ。さっきから自慢の喉を披露してる。
私たち、ホウゼマンさんを取り囲んで彼の歌声に聞き入ってる。この人はあまり遊女を買わないけど、他人に注目されるのは好きなようね。
いや、そんなことより、私はこの人の歌を初めて聞くから、とにかくビックリしてるところだった。
「だんな百まで、だんな百まで、ハ〜ヨイヤサ、ヨイヤサ」
合いの手まで、ホウゼマンさんは自分で上手に入れてる。しかもこれ、長崎の歌よ。
「エーわしゃ九十九まで、共にしらがの、共にしらがの、ハーヨイヤサ、ヨイヤサ、エーササ、生えるまで」
テンツク、テンツク、テテテン、と口三味線で締めくくって、ホウゼマンさんは日本人のように頭をちょいと下げて見せた。
「すごかー。ホウゼマン様」
他の遊女二人がぱちぱちと手を叩く。ああそうやって賞賛の意を表すものなのかって、出遅れた私は慌てて追いかけたわ。
「丸山の
「声だけ聞いとったら、
他の遊女二人は上手に持ち上げ、ホウゼマンさんもまんざらではなさそうに笑ってる。
「長崎は、おいの一番長かけんね。お座敷芸、大好き。サイコー」
ホウゼマンさんはふざけて両手を上げて見せて、女たちはきゃーっと派手に笑い声を立てた。ほんと、ホウゼマンさんの日本語はヘンドリックよりはるかに上だわ。歌もお話も巧みと来てる。
こういう人を見ると、ヘンドリックはオランダ人の中では、かなり大人しい部類に入るんだなあって思う。いつも微笑をたたえ、聞き役に回ることが多いもの。
改めて、私は他の二人の女に目を向けた。小萩さんと、桜野さんよ。
私はまだこの輪の中に入れずにいる。この中では最も遅く出島に来た身だから仕方がないんだけど、二人の方がオランダ人のことをよく分かってるみたいで、何だか気後れしちゃうのよね。
ホウゼマンさんは、そこに気づいてくれたのかしら。私を気遣うように話しかけてくれたわ。
「ヘンドリック、よか男やろ?」
いきなりそう聞かれて、私は何て答えて良いものかわからなかった。
ホウゼマンさんが親切なのは確かだった。他の人は遊女なんて自分の人生とは関わりないみたいな顔をしてるのに、この人は違うもの。
そこにすがって良いものかどうか分からないけど、私はふと聞いてみたくなった。
「ホウゼマンさん。おうちはヘンドリックのことば、どこまでご存じなんか?」
先日の元次郎様の話があったせいかしら。私はヘンドリックのことを一歩引いて見るようになってる。
すると妙なものね。ヘンドリックは確かに何かを隠してる。人に言えない何かを抱えてる。そんな印象があって、しかもそれは強くなるばかりなの。
「……あん人は優しかお人やばってん、ときどき、怖か顔ばしよるの。うち、何とのう、怖くって」
ヘンドリックが時折見せる氷のような表情。その正体が何なのか、知っているなら教えて欲しいの。
だけど私は聞いたことをすぐに後悔した。遊女が客について云々するのは、やっぱりいけないでしょうね。
ホウゼマンさんは少し考えるように目を上げ、パイプから口を離した。
「……ま、カピタンてゆう立場じゃけん。いろいろあっとよ」
ふーっと口から煙を吐いたわ。
「ヘンドリックは、真面目で優しかよ。日曜日は必ずお祈り。食事の前もきちんとお祈り。曲がったことは、ばり好かん。もっとも、カピタンのあまり真面目で頑固だと、おいたち仕事のやりにくか時もあるばってんね」
ホウゼマンさんは冗談っぽく笑った。今度は私の顔を覗き込んで、悪戯っぽく声をひそめるの。
「床の中でも真面目やろ?」
「きゃー!」
「いやーっ!」
叫んだのは私じゃなくて他の二人よ? 私は苦笑しただけ。
まったく何がそんなにおかしいんだか、小萩さんも桜野さんも身をよじって大喜びしてるわ。
だけど四人でこっそり玉突き台を振り返ったら、まさにヘンドリックが台上の球に狙いを定め、すさまじい形相をしてるところだった。
たかが遊戯なのに、真面目過ぎ。四人とも顔を元に戻して、ぷーっと声を押し殺して笑っちゃったわ。
「そうそう。まさにあれじゃ。手加減ってもんばせんのじゃ、ヘンドリックは」
ホウゼマンさんはパイプを持ったまま、くつくつと笑った。
私は実感をもって、大きくうなずいた。
「……なんか、日本人みたい」
「そうばい。やけん、日本に馴染めるんやろ」
ホウゼマンさんは笑いを止め、しみじみと語りだした。
「ばってん、こん商館はヘンドリックの力で何とか持っとっとよ。カピタン次第でここん暮らしは随分変わる。おいは昔のことも知っとるけん、身にしみて感じとるよ」
ホウゼマンさんが言うには、オランダ人がお金に困って、食べ物にも事欠いて、不潔な姿で暮らしていた時期があったんですって。それをヘンドリックが劇的に改善したんですって。大人しいヘンドリックの、意外なほどの豪腕っぷりね。
ホウゼマンさんはまたパイプをくわえて話をしめくくった。
「最初は奴の若かやけん、嫌う者もおったばってん、今はヘンドリックの実力ば、皆が認めよる。あいつは大したもんじゃ」
試合が終わったのか、玉突き台の方からおおっと声が上がったわ。
ヘンドリックは惜しいところで負けちゃったみたい。天井を仰ぎ、目を覆って嘆いてるわ。その真剣過ぎる表情がおかしくて、私たちはまたくすくすと笑っちゃった。
ホウゼマンさんはじゃ、と言って私の肩をぽんと叩いてきた。
「ヘンドリック、いつも気ぃ張って疲れとる。あいつんこと、頼むけんね」