第38話 墓場
文字数 3,044文字
ワルデナールさんが例として挙げたのは、七十年ほども前の事件のことだった。
「バンダレ・アッバースは、大ペルシャ帝国の誇る商業都市だ」
砂漠を背後に控えたペルシャ湾岸の港町。昔から各国の商人でごった返してきた地だという。
ある者は商品をラクダの背に乗せて、またある者はアラブ風の三角帆のダウ船に積み込んで、続々とこのバンダレ・アッバースに集結した。求める商品は、ナツメヤシの実や胡椒だったり、あるいはアフリカのマングローブ木材だったり。
そんな歴史を積み重ねてきたからこそだろう。ペルシャ帝国の歴代王朝はこの町をより発展させるべく、バンダレ・アッバースに商館を置きたがるヨーロッパ諸国をどんどん受け入れた。
オランダ商人も現地商人と分け隔てなく遇され、好条件で取引ができたそうだ。
だが当然の結果として、この町では各国の商館同士の競合が激しくなった。
ワルデナールさんはそこで、これはどこの国でも珍しくないことだが、と前置きした。
「当時ペルシャではアフガン人勢力が一時的に政権を担っていてね、治安が非常に悪かったんだ。それで我が国の商館は自国民の生命財産を守るため、現地で土地買収を計画した」
商館は基本的に現地の賃貸物件だ。借りる側の国が自力で建物を建てることはあっても、土地所有までは認められない。
しかしこの時ばかりは、商館長の判断が違っていた。土地の所有権を持ち、現地人を締め出した方が安全だろうと思ったらしい。
この安易な決定は、敵国イギリスにとって好機に他ならなかった。さっそく彼らは支配者であるアフガン人の王に、オランダの怪しげな行動を密告したのである。
現地政権にしてみれば、少しでも植民地化と取れる動きは封じ込めねばならない。そこでオランダ人の商館長と商館員の一人を問答無用で逮捕したという。
二人が縄でくくられ、連行される一部始終を、イギリス人はニヤニヤしながら見つめていたそうだ。
となると、オランダ側も人質奪還のために動かざるを得なくなる。
まもなくこれは、オランダ対アフガンの武力衝突に発展した。激しい銃撃戦の末に、オランダは負けた。二人の人質を死なせたばかりでなく、ペルシャ帝国に莫大な賠償金を支払わされたそうだ。
「要するに、商館長が判断一つ誤れば、取返しのつかないことになるんだ」
ワルデナールさんはそうしめくくり、もう時間だと思ったのか立ち上がった。
「だけどね、そうやって簡単に殺し合いにまで発展してしまうのは、その裏に異国人への不信感があるせいだ。商館勤務をする者は、現地人との付き合いを大切にし、うまくやっていく努力が必要だと思うよ」
「ワルデナールさん」
僕は即座に彼を引き留めた。
わざわざこんな話をしてくれる人は他にいない。僕はどんなことをしてでも、この人とのつながりを断ちたくないと思った。
「次はいつ、バタヴィアに戻って来られますか? また会って下さいますか?」
「もちろんだよ、ヘンドリック。次はゆっくり食事でもしよう」
ワルデナールさんは笑って僕の肩をたたいてきた。
「それより暇があったら、少しでもマレー語を勉強しておけ。この海域ではマレー語が原住民の交易語だ。商館に出る時、きっと役に立つよ」
マレー語さえできれば、オランダ語しか話さない者よりもずっと取引が有利になる、とワルデナールさんは言う。
なるほどなるほど。この人が教えてくれることは、全部ためになる。
だけどそんなワルデナールさんと別れ、宿舎に戻ると、僕はたちまち打ち沈んでしまった。
総督府全体に、むっとするような重苦しい空気が立ち込めてる。先行きがあまり明るくないのを感じてしまう。どうしてこんな雰囲気になるのかは分からないけど、ここで暮らす人々があまり幸せでないのは確かだった。
窓から外を眺めても、気分が晴れるような風景は見えなかった。濃密な木々の陰が、これから暗黒の植民地生活が始まることを告げているみたいだ。
事実、翌日から恐ろしい日々が始まった。
ぬるま湯なんてとんでもないってほどの激務だ。
僕たちは朝五時半に起床、六時に働き始め、夕方六時に終業ということになっている。
表向きは、という話だ。業務量から見れば、とてもそれだけじゃ終わらない。
六時以降も蝋燭を灯しての残業が、現場では常態化していた。主な仕事内容は徴税の記録と、植民地の治安状況の報告書作成。
とにかく膨大な書類があった。やってもやっても切りがない。
各地から上がってくる小さな報告書も、本国送付分と総督府保管分の最低二種の写しを作成せねばならない。しかもそれは、本国行きの船の出航に何が何でも間に合わせねばならない。
耐久性などを考えて、重要書類は今でも羊皮紙が使われている。総督府の建物内では日がな一日、職員がガチョウの羽根ペンをすべらせる、キリキリという音が響いている。
仕事部屋は、採光も通風も最悪だった。ようやく仕事が終わっても、職員は屋根裏のじめじめした宿舎でわずかな睡眠を取るだけ。
そして翌朝のラッパの音で弾けるように起き、またふらふらと仕事に向かうんだ。
「みんな体力が落ちてるだろ? この状況でいったん異国病が蔓延すると、人員が半減しちまうんだぜ」
先輩たちはなかなか衝撃的な話をしていたけど、それすら僕は睡眠不足の目をこすりながらぼんやりと聞いていた。もはや驚くほどの元気もなかった。
よく分かった。次々と人が死ぬから、本国から新たに人が送られるというわけだ。
アントンの訃報を受けたのは、僕自身めまいがひどくて、もう限界かと思い始めていた時のことだった。
「嘘だろう……アントン!」
僕は目が覚めたように叫び、同時に走り出した。
何てことだろう。
僕は病院まで、泣きながら走った。
自分のことで精一杯で、あれから一度もアントンの見舞いに行けていなかった。あんなに僕にとって大切な友人だったのに。アントンの方はいつだって僕のことを心配してくれていたのに。
痛恨の思いで病院に駆け込むと、職員がすぐに安置所まで案内してくれた。
アントンはやつれた顔で眠っていた。
やっと東インドまで来たのに、彼は逝ってしまった。この地の強烈な日差しや豪雨を見ることもなく、むっとするような香辛料の匂いに圧倒されることもなく。
でももしかしたら、これで良かったのかもしれない。
僕はそう考え直した。
アントンは奴隷たちの悲惨な様子を見ずに済んだ。そして、自身が死ぬまで働かされることもなかったんだ。
僕はアントンの横顔にそっとささやいた。
「寂しがらなくていい。近いうちに僕も追いかけるからな」
病院の裏手にある墓地に、アントンは埋葬された。
他の死者と共同の、簡単な儀式だった。牧師が短い祈祷を終えると、他の人々はあっさりと去っていったが、僕は一人、帽子を脱いでアントンの小さな墓の前でしばらく風に吹かれていた。
目を上げて、僕は初めて気づいた。同じような白い十字架と墓石が、はるかな地平線までずっと立ち並んでいる。
壮観だった。灰色の空の下、新しいものから古いものまで、おびただしい数の十字架だ。これだけのオランダ人が、植民地で命を落としたんだ。
バタヴィアはオランダ人の墓場、という昔からの言葉がある。今目の前にあるのは、使い古された言葉そのままの光景だった。
ペルシャで死ぬ者もいれば、ジャワで死ぬ者もいる。海の上で死ぬ者もいたな。
僕自身は、たぶんアントンと同じくここの墓場に入るんだろう。
「バンダレ・アッバースは、大ペルシャ帝国の誇る商業都市だ」
砂漠を背後に控えたペルシャ湾岸の港町。昔から各国の商人でごった返してきた地だという。
ある者は商品をラクダの背に乗せて、またある者はアラブ風の三角帆のダウ船に積み込んで、続々とこのバンダレ・アッバースに集結した。求める商品は、ナツメヤシの実や胡椒だったり、あるいはアフリカのマングローブ木材だったり。
そんな歴史を積み重ねてきたからこそだろう。ペルシャ帝国の歴代王朝はこの町をより発展させるべく、バンダレ・アッバースに商館を置きたがるヨーロッパ諸国をどんどん受け入れた。
オランダ商人も現地商人と分け隔てなく遇され、好条件で取引ができたそうだ。
だが当然の結果として、この町では各国の商館同士の競合が激しくなった。
ワルデナールさんはそこで、これはどこの国でも珍しくないことだが、と前置きした。
「当時ペルシャではアフガン人勢力が一時的に政権を担っていてね、治安が非常に悪かったんだ。それで我が国の商館は自国民の生命財産を守るため、現地で土地買収を計画した」
商館は基本的に現地の賃貸物件だ。借りる側の国が自力で建物を建てることはあっても、土地所有までは認められない。
しかしこの時ばかりは、商館長の判断が違っていた。土地の所有権を持ち、現地人を締め出した方が安全だろうと思ったらしい。
この安易な決定は、敵国イギリスにとって好機に他ならなかった。さっそく彼らは支配者であるアフガン人の王に、オランダの怪しげな行動を密告したのである。
現地政権にしてみれば、少しでも植民地化と取れる動きは封じ込めねばならない。そこでオランダ人の商館長と商館員の一人を問答無用で逮捕したという。
二人が縄でくくられ、連行される一部始終を、イギリス人はニヤニヤしながら見つめていたそうだ。
となると、オランダ側も人質奪還のために動かざるを得なくなる。
まもなくこれは、オランダ対アフガンの武力衝突に発展した。激しい銃撃戦の末に、オランダは負けた。二人の人質を死なせたばかりでなく、ペルシャ帝国に莫大な賠償金を支払わされたそうだ。
「要するに、商館長が判断一つ誤れば、取返しのつかないことになるんだ」
ワルデナールさんはそうしめくくり、もう時間だと思ったのか立ち上がった。
「だけどね、そうやって簡単に殺し合いにまで発展してしまうのは、その裏に異国人への不信感があるせいだ。商館勤務をする者は、現地人との付き合いを大切にし、うまくやっていく努力が必要だと思うよ」
「ワルデナールさん」
僕は即座に彼を引き留めた。
わざわざこんな話をしてくれる人は他にいない。僕はどんなことをしてでも、この人とのつながりを断ちたくないと思った。
「次はいつ、バタヴィアに戻って来られますか? また会って下さいますか?」
「もちろんだよ、ヘンドリック。次はゆっくり食事でもしよう」
ワルデナールさんは笑って僕の肩をたたいてきた。
「それより暇があったら、少しでもマレー語を勉強しておけ。この海域ではマレー語が原住民の交易語だ。商館に出る時、きっと役に立つよ」
マレー語さえできれば、オランダ語しか話さない者よりもずっと取引が有利になる、とワルデナールさんは言う。
なるほどなるほど。この人が教えてくれることは、全部ためになる。
だけどそんなワルデナールさんと別れ、宿舎に戻ると、僕はたちまち打ち沈んでしまった。
総督府全体に、むっとするような重苦しい空気が立ち込めてる。先行きがあまり明るくないのを感じてしまう。どうしてこんな雰囲気になるのかは分からないけど、ここで暮らす人々があまり幸せでないのは確かだった。
窓から外を眺めても、気分が晴れるような風景は見えなかった。濃密な木々の陰が、これから暗黒の植民地生活が始まることを告げているみたいだ。
事実、翌日から恐ろしい日々が始まった。
ぬるま湯なんてとんでもないってほどの激務だ。
僕たちは朝五時半に起床、六時に働き始め、夕方六時に終業ということになっている。
表向きは、という話だ。業務量から見れば、とてもそれだけじゃ終わらない。
六時以降も蝋燭を灯しての残業が、現場では常態化していた。主な仕事内容は徴税の記録と、植民地の治安状況の報告書作成。
とにかく膨大な書類があった。やってもやっても切りがない。
各地から上がってくる小さな報告書も、本国送付分と総督府保管分の最低二種の写しを作成せねばならない。しかもそれは、本国行きの船の出航に何が何でも間に合わせねばならない。
耐久性などを考えて、重要書類は今でも羊皮紙が使われている。総督府の建物内では日がな一日、職員がガチョウの羽根ペンをすべらせる、キリキリという音が響いている。
仕事部屋は、採光も通風も最悪だった。ようやく仕事が終わっても、職員は屋根裏のじめじめした宿舎でわずかな睡眠を取るだけ。
そして翌朝のラッパの音で弾けるように起き、またふらふらと仕事に向かうんだ。
「みんな体力が落ちてるだろ? この状況でいったん異国病が蔓延すると、人員が半減しちまうんだぜ」
先輩たちはなかなか衝撃的な話をしていたけど、それすら僕は睡眠不足の目をこすりながらぼんやりと聞いていた。もはや驚くほどの元気もなかった。
よく分かった。次々と人が死ぬから、本国から新たに人が送られるというわけだ。
アントンの訃報を受けたのは、僕自身めまいがひどくて、もう限界かと思い始めていた時のことだった。
「嘘だろう……アントン!」
僕は目が覚めたように叫び、同時に走り出した。
何てことだろう。
僕は病院まで、泣きながら走った。
自分のことで精一杯で、あれから一度もアントンの見舞いに行けていなかった。あんなに僕にとって大切な友人だったのに。アントンの方はいつだって僕のことを心配してくれていたのに。
痛恨の思いで病院に駆け込むと、職員がすぐに安置所まで案内してくれた。
アントンはやつれた顔で眠っていた。
やっと東インドまで来たのに、彼は逝ってしまった。この地の強烈な日差しや豪雨を見ることもなく、むっとするような香辛料の匂いに圧倒されることもなく。
でももしかしたら、これで良かったのかもしれない。
僕はそう考え直した。
アントンは奴隷たちの悲惨な様子を見ずに済んだ。そして、自身が死ぬまで働かされることもなかったんだ。
僕はアントンの横顔にそっとささやいた。
「寂しがらなくていい。近いうちに僕も追いかけるからな」
病院の裏手にある墓地に、アントンは埋葬された。
他の死者と共同の、簡単な儀式だった。牧師が短い祈祷を終えると、他の人々はあっさりと去っていったが、僕は一人、帽子を脱いでアントンの小さな墓の前でしばらく風に吹かれていた。
目を上げて、僕は初めて気づいた。同じような白い十字架と墓石が、はるかな地平線までずっと立ち並んでいる。
壮観だった。灰色の空の下、新しいものから古いものまで、おびただしい数の十字架だ。これだけのオランダ人が、植民地で命を落としたんだ。
バタヴィアはオランダ人の墓場、という昔からの言葉がある。今目の前にあるのは、使い古された言葉そのままの光景だった。
ペルシャで死ぬ者もいれば、ジャワで死ぬ者もいる。海の上で死ぬ者もいたな。
僕自身は、たぶんアントンと同じくここの墓場に入るんだろう。