第26話 本当の母親だったら

文字数 3,120文字

 私はぎゅっと彼女を抱きしめるだけ。
 何か言おうとは思うんだけど、何も言葉にならなかった。次々と現れては消えていく女たちのこと、私はこの子にどう説明したらいい?

 いいえ、お嬢様。
 私がいつまでここにいるかは、あなたのお父様がお決めになることです。たぶん近いうちに、別の女と入れ替わるでしょう。

 そう言わなきゃならないのかしら。誰より私自身が、おもんのような子を否定して生きてる身なんだと、それを教えなくちゃならないのかしら。
 本来、子供には建前じゃなくて本音の部分を伝えるべきだと思う。きれいごとばかりを聞かされ、それを信じて育った子は、大人になって余計に傷つくことになるんだから。

 だけど言えない。そんな残酷なこと、今の私には言えない。
 だってこの子は寂しくて、母親のように甘えられる存在を求めてるだけなのよ。ただ安心したいっていう、その気持ちだけなのよ。
 もちろん、この世のひどい現実はいつかこの子も知ることになる。だけどそれはまだまだずっと先のことで良いと思う。

 私は自分にできる範囲で、精一杯彼女を慰めた。
「おもんち。うちゃ、ここにおるわ」
 ここにいる。ずっとじゃないけど、今ここにいるのは本当のこと。

 それでもどこか、自分が嘘をついているような気がした。鼻の奥がつんとなって、私はたまらず子供の頭を抱き寄せる。

 そうだ、とその時思いついた。
 本当の母親が帰って来るようにしてやるべきじゃない? 園生(そのよ)って女がヘンドリックとよりを戻せばいいのよ。そうすれば、おもんだって安心できるでしょ。
 
 今の私がしてやれるのは、ただこの子を抱きしめるということだけ。園生さんが戻ってくるまで、母親の代役を務める。それだけなら、誰もきっと私を責めないわ。

 いくらかは安心できたのか、静かになったおもんは、次第にぐったりと体重を預けてきた。泣き疲れて、眠くなっちゃったのね。
 本物の母親だったら、こんな時どうするかしら。
 私はふと思い立って、おもんを抱き上げた。
 
 背中をぽんぽんと叩きながら、私は階段をゆっくりと降りる。
 このまま、夜の花園の道を散策しようと思うの。子供は母親の側にいるつもりで、夢の世界に入っていけばいい。

 珍しく、意図した通りのことが起こった。すでに目が半分しか開いてなかったおもんは、間もなく私の肩の上ですやすやと寝息を立て始めたわ。
 
 四歳児ともなればもうかなりの重さよ。きついったら。
 だけど私、この重さと温かさを自分の体に刻み込んでおこうと思った。

 これが幼子なのね。人の命の重さなのね。私は自分の子を産むことはできないけれど、ヘンドリックがこの貴重な機会を与えてくれたと思うことにする。もう二度とこんな機会は訪れないでしょうから。

 ヘンドリックは決して悪人じゃないと思うの。彼は子育てを一生懸命やってる。それだけで桁違いの誠意を感じるわ。
 だいたい遊女を買うことで長崎にお金を落とすのは、異人に課せられた仕事のようなもの。間違っていないどころか、日本人に好かれようと思ったらそうせざるを得ないんだと思う。

 ただヘンドリックは真面目過ぎる。とにかくおもんをいい子に育てようとしてる。そして思うようにならなくて、焦ってもいる。
 もちろん、おもんがいずれ一人で生きていかねばならないことを思ったら、その焦りも理解できなくはないわ。一日も早く、しっかりとした子になって欲しいでしょう。
 だけどそれは大人の身勝手というものよ。父親が優しくなったり厳しくなったり、いちいち豹変するんだもの。おもんは意味がわからないわよ。

 さっきのおもんだって、突然機嫌が悪くなったんじゃないのよ? 彼女は昼間から父親に遊んで欲しくて、ただ話を聞いて欲しくて、しつこくつきまとってたの。
 
 でも船が去る直前はとにかく忙しいものらしくて、ヘンドリックは最後の商談と問い合わせと、書類の確認に追われてた。それこそ私やムハマッドにまで、お使いやら書類の整理といった雑用を頼んできて、私も手伝っているうち、もう商館の誰が何の担当をしているのか、だいたい把握しちゃったぐらいよ。

 つまり誰もが一日中、おもんの相手をしてやれなかったの。あっちへ行けとヘンドリックに怒鳴られて、おもんはべそをかきながら一人で花園に出ていった。四歳の子が、ただ放置される。ひどいもんよ。
 だけど、かくいう私も余裕がなくて、それを目の端で追っただけだった。

 ごめんね、と私はまたおもんに心中で謝る。どんな事情があったって、大人たちはあなたを放置していいわけがないの。あなたのために、私もできる限りのことをするから。

 おもんを子供部屋に連れて行って、そのまま寝かしつけていると、やがてヘンドリックが音を立てないようにして入ってきた。

 子供の寝顔を見に来たんでしょう。さっきあんな叱り方をしちゃったから、せめてもの思いがあるのかもしれない。
 だけど彼は何も言わず、その場に立ち尽くすだけだった。

 何かしら。私に用? 

 見上げたら、ヘンドリックは隣室の方を顎でしゃくってきたわ。
「オリオノ。話、ある」
 
 どきっとした。彼の表情から、何となく深刻なものを感じたから。
 だけど私が逆らえるはずもないわよね。うなずいて、すぐに付いて行ったわ。

 ヘンドリックは先に部屋に入り、ゆっくりと寝台に腰かけた。
 でも自分から誘い出した割には、なかなか話し出そうとしなかった。ずいぶん長いこと、ただ背を丸めて、膝の間で両手の指先を突き合わせて、しばらく私を待たせたわ。

「……あんね。オリオノ」
 やっと口を開いたけど、それだけ言うのも苦しそうだった。よほど言いづらいことなのかもしれなかった。

「園生、子育てしようとせんかった」
 風が吹いて、びいどろのはめ込まれた窓がまたかたかたと音を立てる。ヘンドリックの声はかすれて、その小さな音にかき消されそうなほど弱々しかった。

 私の知らない女について、ヘンドリックは苦し気に語ったわ。
「おもんの泣き声、いつも部屋に響いとった。ずっと、ずうっとじゃ」
 なるほどね、と私は思った。園生さんの育児放棄。もちろんある程度は予想してたから、さほど驚きはしなかったわ。
「……そうですか」
 私はそっと隣に腰を下ろし、ヘンドリックの声に耳を傾ける。

「赤ん坊が放置されたら、いつ死んでんおかしくなか。やけん、僕、心配で……」
 ヘンドリックは何度も話の途中で行き詰まり、唇を噛み締めた。経緯を私が理解できるまで、結構な時間がかかったわ。
 要するにこうよ。育児のことを云々する前に、園生さん、乳の出が良くなかったんですって。だからヘンドリックは長崎市中から日本人の乳母を雇い入れたそうよ。おもんが一歳になるまでっていう約束でね。

 だから乳母がいる間はまだ良かった。
 でも、いなくなった後はまた同じ問題に直面したのね。園生さんはちっとも母親らしくなれず、ヘンドリックが昼も夜も駆けずり回って、おもんの世話をするしかなかったそうよ。

「僕、園生、叱った。何度も喧嘩した。ばってん、園生は……」
 ヘンドリックは首を垂れて、泣き出しそうな声で言った。
 園生さんは自分に養育の義務はないと言い切ったんですって。こんな手のかかる子に何の愛情も感じない。こんな子はヘンドリックが勝手に産ませただけだって。

 ヘンドリックは悲痛な表情で首を振った。
「あんまりじゃ。おもんが可哀想じゃ」
 彼はそれでも期待したんですって。自分が良い親になれば、園生さんも心を入れ替えてくれるんじゃないかって。

 でも人の心って、周囲が望む通りには動かないものよ。彼が頑張れば頑張るほど、逆に園生さんの気持ちは離れていったみたいね。

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