第64話 瀕死の三色旗

文字数 2,446文字

 海の向こうから襲ってくる敵とは誰なのか、私は知らない。

 知らないけど、もしかしたらと思うの。私が殺してきた子どもたちじゃないかって。
 理不尽に命を奪われたその子たちにしてみれば、ただ一人この世に生まれることを許された子を許せないかもしれない。どうしてお前だけが生きられるんだって、呪いをかけたって不思議じゃない。

 殺さないで!
 
 心の中で、何度そう叫んだか分からない。
 でも私の下腹はじくじくと痛むし、血が流れ出ているのが自分でも分かる。やっぱりこの子は生きられないかもしれないって思うの。

 この子自身は何も悪いことをしていないのに。
 まだ産み月じゃないのに、この子は無理やり引きずり出されてしまうのかしら。そして外界の冷気に耐えられず、息を引き取ってしまうのかしら。

 もしそうなら、全部私のせいね。
 だけど分からない。私が何を間違ったっていうの? 遊女になるより他に、どんな生き方があったっていうの?

 名村様はどう思っていらっしゃるのかしら。戸板に乗せられた私にずっと付き添って下さってるけど、こんな無様な姿を見られて情けないったらないわ。
「……苦しいか、おようち」
 目が合った途端、名村様はそう聞いてくださった。でも私は答える元気もなくて、涙に濡れたまま、ただ目を背けたわ。

 ヘンドリックのこと、私は許せない。あの人、私のことより自分の立場や都合を優先したわ。男の人って、いざとなったらやっぱり裏切るのね。愛なんて信じた私が馬鹿だった。

 そんな私の心情を知らない名村様は、いつも以上にいたわるような声で言い含めてきたわ。
「おようち、恵比寿屋に運んでやる。その方がよかやろう? 奉行所はバタバタしとって、ゆっくりできんけん」
 
 私は息を飲んだわ。
「嫌です、あがん家!」
 起き上がる元気もないのに、私はつかみかかる勢いで怒鳴り返した。あの家のことは、名を聞くだけで嫌だった。嫌で嫌で仕方がなかったわ。
 どこからこんな力が湧いてくるのか、自分でも分からない。こんな状況で名村様に口答えしてる自分が信じられないけど、それでも私は言い返さずにはいられなかった。

「うちのことば平気で売り払うた家族ばい。とっくに縁ば切りました。あん家族の元に帰るぐらいなら、死んだほうがましじゃ!」
 自棄になって叫びながら、また自分の頰を涙が伝っていくのを感じたわ。

 名村様はこの剣幕に驚いたみたい。絶句し、うつむいただけで、何も仰らなかった。
 そうよ。恵まれたお立場の方には分からないでしょうね。家庭が崩壊している人間の、このすさまじいまでの惨めさが。

「名村様。お子様方のお生まれになったとき、うれしかったとですか」
 迷惑ついでに、私は震える声でなじったわ。
「うらやましか! うちにはもう、そがん喜びの日は来んもの」
 
 こんなのは八つ当たりに過ぎないわよね。だけど、自分の意思で止められるものでもなかった。こっちは子供の命も、ヘンドリックとの愛もここまで。どうせ全部終わりよ。

 だけどその時だった。名村様が声を震わせたのは。
「おようち、まだ諦めんじゃなか!」
 
 そんなに大音声というわけではなかったけれど、その声は全身に突き刺さるような気がした。名村様に叱られるのは初めてのことだったから、というだけじゃない。何かその声の背後に、壮絶な覚悟が感じられたからよ。
「自分だけが苦しんどうと思うな。まだ何も決着しとらん。おようちはおようちの戦いば、最後までやり抜け」

 言い切る名村様の向こうで、瀕死の三色旗がたなびいてる。闇の中で、今にも吹き飛ばされそうになりながらも、何物にもよりかかることなく孤独に立ってたわ。

 名村様は私の視線を追うようについと顎を反らせ、手にした提灯を持ち上げたわ。
「……おいはな、おようち」
 つぶやくように、名村様は語りかけてきた。
「オランダてゆう国もこのままじゃ終わらんて思うとる。どがんに追い詰められても、あん国は結構しぶとかよ」
 
 その時、何か確信めいたものが私を貫いた。今の言葉、名村様はご自分に言い聞かせてたわ。
 名村様もまた、苦しんでるんだと思う。死を覚悟しなければならない状況にあって、まだ戦おうとしてる。心で血を流しながら、一つの旗を掲げてる。

 私にも、やらなきゃならないことがあるのかもしれないと思った。何かによりかかることなく、一人でもやらなきゃならない何かが。

 名村様が手配して下さっていたのかしら。出島橋の袂に一(ちょう)の駕籠が待っていて、私は腹を抱えながら人々の手を借り、そこに乗り込んだ。
「妊婦じゃ。なるべく揺らさんでくれ」
 ぶっきらぼうな駕籠かきの男たちに対し、名村様はしつこいほど頼んで下さった。

 でも無理な要求だったみたい。結局のところ、駕籠は揺れに揺れたわ。
 真夜中だというのに、往来はすごく混雑してる。半鐘が休みなく打ち鳴らされてるし、人々の怒鳴り合う声のせいで、近くにいる人の声も聞き取れない。

 家財を持ち出そうと大八車を押している人も多いみたいだけど、この群衆の中だもの。つかえて前に進めずにいる。
 周囲には、たくさんの提灯。その揺れる灯を順に目で追っていったら、もみ合う人の流れが郊外の山の方までずっと伸びてるのが分かったわ。

 海岸からダーンという、ひときわ大きな音が響いた。
 私にも、銃声だってすぐに分かった。人々は身をすくめたわ。
 もちろん私の乗った駕籠もがくんと揺れて、私は放り出されそうになった。

「……戦が始まったぞ!」
 誰かが遠くで叫んでる。人々の心の動揺を映すかのように、提灯の光が激しく揺れてる。

 私は冷や汗を浮かべ、肌を泡立たせながら、遠ざかる出島の三色旗に目を向けた。
 
 血を吐く勢いで、私はやっぱり三色旗に祈ったわ。
 この子をお守り下さい。私の命は差し出しますから、この子に生きる力をお与え下さい。この子はヘンドリックと育んだ愛を証明する、ただ一つの命なのです。
 
 三色旗は人々の頭上に高く翻り、沈黙したまま地上の喧騒を見下ろしている。

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